楓蔦黄屋
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「奇面組よめるじゃん!」と急に思いついて電子書籍を買う。 最高だな。
昔の漫画が夜中でもすぐ読めて家の収納もかさばらなくて作者さんにはお金を払える。 最高だな。
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何度も書いたと思うが私が6歳のときに生まれて初めてレンタルしたCDは うしろ指さされ組&うしろ髪ひかれ隊の奇面組OPED集だ。
ドラクエのサントラを借りようとしたら母と姉に反対されて、代わりにすすめられたのだ。 今思うとどっちも大して変わんないじゃん。 たぶん「どうせ借りるなら歌が入ってる方がお得」みたいな感覚だったんだと思う。
ともかくそれを毎晩聴きまくって全部覚えた。 「うしろ指さされ組」のイントロは何回聴いても聴くたびにワクワクしていた。あのイントロすげーよな。
で、30年以上経った今やっぱり 「聴けるじゃん!」と急に思って中古を買った。
たぶんiTunesにもあるだろうけど、こっちはモノそのものを欲しかった。
うしろ指さされ組のCDはベストも含めてたくさんあるので最初ちょっと迷ったが、 収録曲を見たらあっさりわかった。 なんとなくピンクっぽいジャケットだとしか思ってなかったけど、おもっきし作者描き下ろしの奇面組イラストだった。 アニメ絵じゃないんだ。 私はアニメグッズでも原作者書き下ろしイラスト入りのものが好きなんだが、もしやこの思い出のおかげだろうか。 だってすっごい可愛くてすっごい描き込みだもんなあ。 唯ちゃんと千恵ちゃんが等身大で、ふたりが持ってる箱に ほぼ全キャラが2頭身でわちゃわちゃ詰め込まれてるっていう。 色も可愛いんだよなあ。好きだなあ。 第一希望のCDじゃなかったけどこれにしろと言われてこれにすると素直に頷いたのはきっとこのイラストのおかげだと思う。ほんとに。 曲も全部好きなんだよなあ。サウンドもよい。
で、今はでんぱ組.incにハマってるっていうね……(でんぱ組の名前は「うしろ指さされ組」の要素も含まれているというね)。
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漫画はハイスクール!の20巻だけ持っていた。 最終巻だ。それ一冊を読みまくっていた。
この最終回が大好きだ。 形としてとても美しいと子供心に感心していたと思う。
愛蔵版ではラストシーンに零さんの影が足されているそうだが それが当時から描いてあったらたぶん私は逆に「?」となっていたと思う。
連載を長い間追いかけていたわけではない、 アニメも観てはいたけど熱心だった覚えはない、 そういう読者で、しかも小学生だったから、ならではの感想かもしれない。
今にも走ってきそうだな、と思うことですでにワクワクさせてくれる存在だからだ。奇面組のみんなは。
影が漫画の中にあったら、私の今いる世界も零さんたちと繋がってるかも、というあの感覚にはたぶんならなかったように思う。
現実はどこかで想像の世界とつながってるんだと 思うことに力をもらって、日々を乗りこえてきた子どもでした。 今もそうかもしれない。
零さんたちが高三でタイムワープ設定になったことをさっき知ったんだが、 それをふまえてもやっぱり自然な終わりかたなんじゃないかなー。
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好きだなあ奇面組。
定期的に夜更かしになる。
ものすごくわかりやすい黄体後期の症状だ。
以前はこの眠れない夜を悩んでいたが、 最近は眠れないならそういうもんなんだろうと 受け入れて起きている。
起きているからこうやって日記も描いたりする。 2:54。
とくに今は連休中だし そもそも私以外の家族はみんな早起きだしで 私が起きなくてもまったく問題ないというのはあるんだが、 そもそも明日は早く起きなきゃ!という日でも、眠れなくて焦ったりはしない。
ついこないだまで、早起きできるようになりたいと切に願っていたが、 それも別に願わなくなってきた。
早起きできなくても家のことは回せるし、 仕事もちゃんとできているからだ。
あと早起きしたらしたで 夕方ものすごく眠くなって夜まで寝てしまう。 夜は家事と育児はたいてい私ひとりでやることが多いので、それはかえって大変によろしくない。 それに夜まで寝たらけっきょく夜更かしになって朝また起きられなくなるのだ。
人はそれぞれ、必要な睡眠時間が異なるというのが最近の医学界の主流な考え方だとかなんとか。
私は12時間必要だ。 12時間寝るとリズムが安定する。 22時に寝て10時に起きるのがベストだ。
子どもの支度のために朝早く起きることもあるが それでも二度寝する。
学校や会社に行かなければならない立場であれば 朝早く起きる努力は必要だと思う。 だけどそれも、12時間睡眠を前提として努力できればどれだけラクだっただろうと思ったりする。 まず中学でも高校でも運動部になど絶対に所属しなかっただろうし、 勉強も学校にいる間だけ集中してやっていたと思う。 塾や予備校も行かない。バイトも吟味して厳選する。
ましてや外に行かなくていい今、 昔よりもラクに生きられるなら、ラクに生きる。
最近まで早起きにこだわっていたのは たぶん呪いかなんかだったんだろう。 早く起きられるショートスリーパー以外が間違っているなんて暴論だ。 睡眠時間によって寿命がどうのこうのも超どうでもいい。
朝は好きだ。 だけど、起きられないから、起きない。 それでいい。
朝に起きなくなってから、不機嫌になることがものすごく減った。 それがすべてを表していると思う。
ラクに生きていく。それが一番だ。
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宇多田ヒカルのインスタライブに偶然遭遇したので視聴することができた。
とにかくすごい人というのはもう充分わかっているので、 せっかくだから雲の上の人だと思わずに、まるで友だちと飲んでるみたいな感覚で視聴してみる。 リアルな妄想遊びというか、友だちごっこだ。
私はこの手のライブでわりとよくコメントにも参加する。 もちろん失礼なことなんか言わないが、 仮に私のコメントが相手の目に入っているとして、 こっちが善意のつもりでも微妙な感じで受け取られることは充分考えられる。 というかたぶんやっちまってると思う。ただでさえ私の言葉は相手に通じづらい。自虐でも反省でもなく、たぶんそうだろうなという感じ。
でもそれでコメントしないというのも大変もったいない話だと思うので、 そこらへんはもうあんまり気にしないのがコツだ。
ネットの自分はあくまでリアルの自分が作った架空のキャラクターだ という感覚の頃のネット遊びをしてきた世代だからかもしれない。 あまりネットの自分とリアルの自分が結びついてはいない。結びつくのはアンダーグラウンドなサイトだけだった。今はまるで逆だ。
しかし宇多田ヒカルにリアルタイムでつながれるなんて、ひと昔前には考えられなかった気軽さだ。 しかもイギリスにいるのに。すごい時代だな。
昔、「Automatic」が発売される前日、 雑誌の後ろのほうの小さなモノクロ記事で、宇多田ヒカルの短いインタビューを読んだ。 たしかZipperだったような気がする。何もかも、今では考えられないような記事だ。 でも強烈に惹き付けられた。 バイト先の有線でかかったとき、それがそうだと知らないまま、やっぱり耳が惹き付けられた。
そこからここまで、ずいぶん遠くまできたなあという感じだ。
宇多田さんは可愛らしくて、めちゃくちゃ真面目だった。 すごく真面目にファンからの質問に答えていて、これは質問した人は嬉しいだろうなと思った。 ストイックで誠実だ。いつも人のことを考えているような印象を受けた。
たぶんこの人は、口下手なんじゃないかと思った。 めちゃくちゃしゃべるはしゃべるんだけど、要領よく説得できる人と違って とにかく全部を相手に伝えようと、言葉を尽くす人だなあという印象。
その不器用さが、十代のときにはむしろ強気な印象を与えていたんじゃないかと今思う。
英語でしゃべるときはとてもリラックスしているように見える。 言葉ですべてを伝えようとしてないように見える。 気のせいかも知れませんけど。
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やりたい仕事をやれずに仕事の意義を見出だせない人の相談を受けていた。
私はやりたい仕事をやれずにやりたくない仕事をわりと長くやっていたので そのつらさはけっこう体感している。
だけどそのつらさがどこか甘えであることも当時から自覚していた。
私は「やりたい仕事をしてる人」になりたかっただけで、 「その仕事をしたい人」ではないのだと自覚していた。 むしろなんなら、「その仕事をせずに、その仕事をしている人だと呼ばれたい」ぐらいに思っていた。 それはいかんな、と思っていた。
やりたくない仕事をやりながらでも、 その「やりたいこと」をやれる人になりたいと思った。 それぐらいになって初めて、「やりたい仕事をしてる人」になる資格があるんじゃないかと思った。
やりたくない仕事をつまらないと思ってしまう自分ならば、 やりたい仕事をやれたとて、精々その程度に終わるなと思ってしまう。
そして事実、わりと長いことそうだった。
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「やりがいのある仕事」とか 「やりたい仕事こそ人生」とか、 そんなフレーズははっきり言って、流行語だ。
どっかの誰かが何かを売るために仕事で産み出したただの商品だ。
私は、10代から20代で、かなりそういうフレーズを骨の髄まで刷り込まれたように思う。
そういう、人の心にスッと入っては掻き乱していくような言葉は、 踊らされるぶんにはある種気持ちのいいもんだが、 自分の実生活と結びつけるのはやめたほうがいい。 話半分に聞いていたほうがいい。
今がつらいなら改善すべく行動するのはいいことだと思うが、 言葉で自分の心をどうにかしようとしないほうがいい。
逆だ。言葉は自分の心でどうにでも変わるものだ。
やりたい仕事があること、 やりたくない仕事をやっていること、 自分がつまらないと思っていること、 自分の日々の生活のこと、 自分の人生とかいうもののこと。 それは全部、まったく別々のこととして分けて考えたほうがいいと思う。 紐付けるとたいていわけわかんなくなる。
私は仕事をがんばるし、 やりたかった仕事ができるというのは本当にありがたいなと思う (というか厳密に言うと、周りがみんなすごいねえと言ってくれるので、きっと自分が思う以上にありがたいことなんだろうなとうすぼんやりと思っている)が、 そのふたつはまったく別々のことであって 生活の中の一部ではあるがすべてではなく、 ましてや人生という概念とは折り合いがつかない。
そういうことを、インスタライブを見て改めて考えた。 きっと他の人たちもそうだと思う。 まるでひとつの映画を観たようだった。 やっぱり宇多田ヒカルってすごいな。
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4:12になってる。
2021年05月02日(日) |
己酉・八十八夜・すごいやつ |
風がはちゃめちゃに強く吹いている。
私の住む地域ではきのう竜巻注意報が出てました。
周りにあんまり高い建物が建ってない区域で わりと高めの階に住んでいるので 風が強いと当たりがすごい。
今日の風はどこから吹いてるのか定まってない感じがする。 東西南北ぴょっぴょぴょっぴょ縦横無尽に吹いてる気がする。
そうはいってもきっと南東の風とかそういう感じに定まってるんだろう と思って天気予報で調べて見たけど見てもよくわかりませんでした。
窓の外の風の音はうるさいと思うのなんでだろうな。
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新しいことに向かって駆けだしている。
今やってる仕事、の前にやってた仕事はぜんぶ 職種問わず とにかく「やらない」の連続だった気がする。
依頼に対して「やらない」と断るんじゃなくて、 物理的に、結果的に、「やらない」という感じに終わっていった。 要するに、やれなかった。
今の仕事になって、ようやく 「やらない、とは絶対言いたくない」という意地みたいなプライドみたいなものが 芽生えたような気がする。 結果的にやれなかった判定の仕事になっちゃったとしても、 やれることはとにかく、突拍子なくても、方向性間違ってても、全部やってきた。
だから今、新しいことに取り組める機会をもらえて本当にすごい嬉しい。
さらに、これを機会にもうちょっとこう、一緒に仕事しやすいというか、 ストレス感じさせない人になるべくがんばっている。
自分のがんばりかたがこの年になってようやくわかってきた。 というか。 自分ががんばったりあきらめたりしながら積み上げてきた失敗が、続けてきたことでようやく「努力」っていう名前に変わってきたような気がする。 消去法で、ようやく、ああこうやって努力すればいいんだなというのがわかりかけてきた。 努力が実を結んで成功になるのではない。失敗が実を結んで努力になるんだな。
成功とかそういうものはきっと自分の外にあるんだ。
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プロ意識、とかそういう大層なものは今だってまったくもって全然持ち合わせてないんだが、 仕事をするということと、お金をもらうということと結びついていなかったような気がする。 自分のした仕事に対してお金をもらっているのではなくて、 自分の所属している組織がなんかしらんがお金をくれるんだという感覚。
バイトで時給でもらってる時のほうがなんぼか、労働対価としてもらってる感触があった。
正直言うと今もそのふたつの感覚が半々だ。 まあ半々になっただけマシなような気がする。
仕事ではなく趣味でやってます、とか、趣味も仕事です、とか、 有名だったりすごかったりする人たちはすごいことを言うな、と思う。 てかやっぱちょっとヘンな人たちなんだろうな、と思う。 それかそういう、なんつーか、インタビュー記事にしやすいことを言える頭のいい人たちなんだろうな、とも思う。経験が豊富というか。憧れる。
そういう人たちのおかげで私もこの世界の片隅で仕事ができているな、と思う。 エジソンとかジョブズとかが、働いているという自覚なしに働きまくってくれたおかげで 私は今寝っ転がってiPadで読書だのゲームだのできてるしマジでほんとありがとう俺のためにあなたがたは生まれてきてくれたのかな? って思うのと似ている。
「プ〜一族」の松田は 「そう描けば売れる」みたいなテンプレでは決して描かないという人で、 めちゃくちゃカッコいいし憧れる。 自分はそういうテンプレすらまず掴めてないから、あれもまた雲の上の人の話だ。 というか大橋ツヨシカッコいい、という話。
そういう風にすごい人、ほんとにすごいな、と思う。 てことは自分はたぶん、そういう類いのすごい因子みたいなのは持ってない。
持ってないけど新しいことに全力で駆けだしている。 それでめちゃめちゃしんどいのこれ何でなんだろうな。 いやしんどいだけじゃなくて楽しいし面白いんだけど、単純に体力がないってだけなんだけど。
すごい人はどんだけエネルギーもってんだろうな、と思う。 いや近場にひとりいるけど。すんごいエネルギーもってる人。
なんかもうちょっとこう、自分にも、すんごいものあったらいいなと思う。 別に仕事するのに役立たなくていいから、なんかすごいやつ。カッコいいやつ。
とか思いながら今日もゼーハーいって駆けている。 うまくいくといいなあ、新しいこと。
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あー今日から5月か。
2021年04月25日(日) |
癸卯・霜止出苗・スパラクーア |
こないだはスパラクーアに駆け込んだ。
久しぶりにまったりとした。 4時間半ぐらいいたけどもっと早く行って堪能したかったなあ。
お風呂よりもサウナが好きかもしれない。 お風呂内のサウナも好きだし ヒーリングバーデはもはやデフォだ。
サウナでウトウトするのも最高だし デッキでまったり寝そべるのも最高だ。 この季節は風も気持ちいい。
加えてこの日はエステも予約した。
整骨院にも行けなくなってしまって、騙し騙し使ってた右半身を キレイで優しいお姉ちゃんにずいぶんラクにしてもらった。 頭も首もだいぶ凝ってたそうだ。眼精疲労のせいで。 仕事のせいもあるだろうが半分はスマホの見すぎだと思う。 これからは目を労ろう。
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また河まで散歩をした。
いつもは渡らない橋を渡ると対岸に西日が見えた。 雲が大きく、光のハシゴが上にも下にものびていて、美しい眺めだった。 雲と同じ、灰色がかった青鈍色のスカイツリーがまた絵になっていた。
空の高いところを飛行機が飛ぶ。 光のハシゴにさしかかると、太陽の光を反射して一瞬きらめく。 きれいだった。
立ち止まって写真を撮っている人たちもいて、そうだよね、きれいだよねと心の中で同意。
なんというか。 夕方になればふつう太陽は沈むし、 雲は雲で、でかくなろうと思ってなったわけじゃなくただ そうなるべくしてそういう形になっただけだろうし、 光のハシゴと言っても、太陽光を受けて雲がカゲになったりならなかったりしてるだけだし、 地平に近い空の赤さも、ただそうなるべくしてなってるんだろうし、 スカイツリーもふつうに建っているだけだし。
すべてがすべて、ただなるようにしてなっているだけで、 こんなにも美しく見えるものなんだなあとぼんやりと思った。
ふつうにしてるだけでも見る角度によって美しく見えることもあるんだなあと。
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風が強い。 風が強いけどもう夜でもちっとも寒くない。
もうすぐ5月がくる。
2021年04月23日(金) |
辛丑・Baby,it's you |
宇多田ヒカル「One Last Kiss」をアナログレコードで聴く最高さよ。
私のレコードプレイヤーはそりゃもう全然音がよくないんだけども、 「Beautiful World」のイントロのギターが歪みながら流れると もうなんというか、なんとも言えずいいよねっていう。 オーディオマニアでない人間がレコードに求めるのはやっぱりこういうノイズでしょう。
加えて今の春の日差し、ほんの一滴セピア色を落とした鈍くて淡いプラチナ色の光が 午後になると遠くのビルとともに煙って見えて、 4月の終わりから5月になるまでのこのほんのわずかな季節の移ろいの景色が 宇多田さんの歌声とマッチしてまるでMVのようだ。
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今日はひさびさに川沿いを散歩をしました。 音楽を聴きながら。
青い空にはお椀を伏せたような白い月がかかっていて、 その下を雲が強い風で速く流れているのを見上げていたら YUKIちゃんの「Baby,it's you」がかかって、これもまた美しいMVでした。
視界に空しかない時間を過ごすのは久々でした。
手嶌葵バーションの「Beauty and the Beast」は 河の水面がさざめきたつ様と、流れていく様と、 シロツメクサの群生が風にゆれる様にとてもよく調和していたよ。
昔から空が好きで、今も空が好きで、 空が好きとかいかにも漫画チックだなと長年思いながらもやっぱり 私は空を見るのが好きだなと思いました。 やっぱり晴れてる空が好きだね。
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自分の、長年変えたいと思っていたところを 変えようとしてうまくいかないのをもう何年も繰り返しているけども、 ここへきて少しずつ少しずつ結果として表れている。
変えたいなと思ってからもう4年か。 もう4年というか、まだたった4年なのか。ちょっと意外。
4年で結果が出はじめてるならむしろたいしたもんだと思う。
すぐにはそんなに変われないし、変わったと思ってもたいてい気のせいだったりとかする。
お世話になってるダイエット動画で、 「ダイエットの目標というのは体重や体脂肪といった数値ではなく、 それによって自分と他人にもたらされる、有形無形の嬉しいことを想像することだ」 と言っていて、ほほおなるほどなと最近思った。
そしてそれはダイエットだけでなくわりと色んなことに言えることだなと思った。
変えることによって自分や他人にもたらされる有形無形の利益。 他人にどう思ってもらうかなんてまったく考えたことがなかった。 というより考えないようにしていた。 どう許してもらうか、ばかり考えていたからかもしれない。 どう嬉しく思ってもらうか、を考えるほうがいいかもしれない。と最近思った。
さて、4年もかけたんだからそろそろ結果の芽ではなく結果の実をひとつぐらい収穫したいもんだ。
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いろんな失敗をしてここまで生きてきたけども、 いろんな失敗をしたわりには相変わらず生きていて面白いなと日々思う。 年をとるのは面白いなと思ったりする。そしらぬ顔して思惑通りにいかせたりできるからだ。
人は長く生きてだんだんと自分になっていく。
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子どもを産まないという選択をした人たちのことを考える。 彼ら彼女らは「子どもを持たないと後悔するよ!」という子持ちの発言が心底嫌いなのだという。もっともだ。
「後悔するよ!」と言う人たちは、 子どもを産むということは実は自分たちに与えられた才能なのだということをおそらく自覚していないのだろう。 誰でも産めると思っているからだ。
実は産めて当たり前ではない。産みたいと思うのも、産める身体があるのも才能なのだ。
私はおそらく現代医学がなければ出産で子どももろとも命を落としていた。 そういう出産だった。 どちらかというと、子どもを産む才能に乏しい身体なのだと思う。
入院していた産院でも、「あたし現代医学がなかったら死んでたわー!」と あっけらかんと言うお母さんがいて、「私も私も!」とものすごく同意したものだ。
出産は死ぬ可能性が高い。 「命がけで産む」というのはつらくても必死に産むというより、失敗すれば普通に死ぬという意味だ。
妊娠は病気ではないが、死ぬ可能性は通常よりも高い。 帝王切開は、ラクだからするのではなくて、しなければ死ぬからするのだ。 そしてどんなに苦しくても経膣分娩できる限り帝王切開をしないのは、そのほうが死ぬ可能性は低いからだ。
ダンナは私の出産を待つ間、死を覚悟したという。
だから子どもを産まないと決心する人たちは、本能が働いているんじゃないかと私は思う。 才能がない、というと蔑んでいるようにも聞こえるが、 別に欲しい才能じゃないんだからなくてもかまわないよ、という感じだろう。 私だって別に、たとえば音楽の才能がないとか演技の才能がないとか言われても 別にふーん、という感じだ。だろうね、要らないし、みたいな。それとたぶん一緒だ。
だから子どもを産まないと後悔するよ!という子持ちの人は、 ステージにあがって歌わないと後悔するよ!という才能ある歌手みたいなものなのだ、きっと。
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じつはもう早く寝たい。
楓蔦きなり
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