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偽神の天秤。 | 2008年07月08日(火) |
「……<偽神の天秤>?」 訝しげに問うクリスに、シアシェは安心させるように淡く微笑いかける。 「彼は終わり、彼は秩序、彼はこたえ、彼は夢。内にいながら外のもの」 暗記した本の一節をそらんじるように淡々と彼女は言葉を紡ぐ。足元の黒猫が退屈そうに身じろぎした。 「偽神ということは、『それ』は神ではないの?」 「神さまはいないんだよ、クリス。少なくとも今には」 屋根に腰かける彼女は銀髪を風にそよがせ、遠く彼方を見据えるように目を細める。 「天秤の役割は釣り合いをとるもの。彼は不安定なこの世界を維持するための一種の装置」 「……生きものでも、ないの?」 「それは本人に聞いた方がいいと思うなあ。本読んだだけだし私には判断出来ない。アスは分かる?」 膝に上ってきた黒猫を撫で、シアシェは首を傾げる。 「知らん」 問われた猫は短く答えて耳を伏せた。 「だって」 「……そう。まあでも天秤が生きものであろうとなかろうと、それはどうでもいいことだわ」 夕暮れが瞳に差し込む。とろけるような黄金は意識を縛りつけるかのような圧倒的な美しさと不吉さを孕み、クリスは西の空を睨めつけた。 「彼が終わりでこたえであるというのなら、勿論始まりであり問いである存在があるのよね?」 うん、とシアシェは頷きを返す。銀の髪が日暮れの光を受けて黄金色に瞬いた。 「彼女は始まり、彼女は混沌、彼女は問い、彼女は夢。――そう呼ばれる<偽神の天秤>の対たる存在があるというのは確からしいよ」 「随分曖昧ね」 「何せ閲覧禁止の本を斜め読みして得た知識ですから。きちんと読み込む前に学長に見つかって学長室に持ってかれちゃったからどうしようもないし」 禁書の棚だったらどんな封印でも解いて読んだんだけどなぁ、と非常に物騒なことを呟いて彼女は頬杖をついた。よほどその本が読みさしであったことが悔しいらしい。 「始まりと終わり。混沌と秩序。問いと答え。ここまでは対なのに両方とも夢なのはどうしてかしら」 「最初のみっつは性質で、最後のひとつは本質なんだよ。だから彼らは対の存在だということは間違いないと思うんだけど」 「しかし妙な禁書ね。学長が取り上げたってだけでも大物なのは分かるけれど」 実際に痛い目を見ないと分からないという教育方針の学長アルガは禁書の棚に封印を仕掛けはするがそれを解いて読もうとすることを忠告こそすれ止めはしない。勿論規則違反である以上見つければ処罰するし持ち逃げしようとする輩には制裁を加えるが、知識を貪欲に求める人間の強欲な本能を咎めたりはしない。その好奇心こそが進歩への原動力であり、そしてまたそれを止めることが無駄だと知っているからだ。 その分危険な目に遭っても助けはしない、自分でどうにかするべきだとの彼女のやり方は生徒には概ね受け入れられ大半の教師には苦い顔をされている。 「此処にはこんな本置いてないはずなのに、とか言ってたんだよね。明らかに書庫の本とは危険度が段違いだったみたい」 「あの書庫の中ではあれは確かに一番危険な本だ」 黒猫がぽつりと呟く。ぱちぱちと瞬き、シアシェは呆れたように溜息をついた。 「……いやまぁアスにそういう忠告期待するのは間違ってるって分かってるけどね、でも一言そう言ってくれればもっと見つからないように注意したのに」 「主人が危険な目に遭いそうなときは忠告して守るのが使い魔の役目でしょうに」 クリスが黒猫を見下ろすと、彼はふいとそっぽを向いた。 「それで、シア。<偽神の天秤>がどうしたの?」 禁書の内容を堂々と問うてくるクリスの図太さに笑みを返しつつ、シアシェは自分の意識を尖らせ、紡いだ結界の強度を確認する。確信に迫る言葉を口にするのには用心が必要だ。何処で誰が聞いているか分からない。揺れやすい世界に刺激を与える禁書の内容を口にするのは、きちんと結界を張った状態でなければ危険に過ぎる。 「……彼は、神の幻。世界の既に失われた元のかたちを」 「シアシェ」 ぴんと耳を立てた黒猫が警告のように名を呼ぶ。彼女は大人しく口を噤んで彼を見つめた。 「それ以上は揺らぎが起こる。ここで口にしてはいけない」 「……ごめんなさい」 「……これだけ用意しても『揺らぐ』なんて相当のことね」 ひとならざる、今は猫のかたちを取っている魔物は、ひとでないだけある意味では世界に近い。その彼が、結界を張ってなお不安定な世界が揺らぐと警告するのだから、<偽神の天秤>という存在はそれだけ世界の中心に近く、また秘された事柄のようだった。 「天秤の名だけでも結構なことなのだがな。それについてこれ以上言及するのはここでは危険だ。面倒なものを呼ぶ」 面倒くさそうに丸まっているのが常の彼が、警戒するように耳をそばだてている。 ひゅうと吹き抜ける風すら見通すように、黒猫は紫の瞳を厳しく光らせた。 ****** 中2病な感じです。これでも少し抑えました。 |