いけないことだったのか、とつぐみは思った。日本を離れて2年も経てば、10年近く暮らした家も町並みも雑踏も全て懐かしいものに変換されてしまう。それだけの年月の中で新たに生まれた感情、いや、正確には認めるに適った感情だ、それに愛しさと多少の執着を持つのは仕方のないことなのではないか。まして、日本に滞在していた10年の間ずっと育んできた恋を捨てたあとのことであれば、なおさら手放すのは悔しいのだろう。しかし、それはいけないことなのだった。
つぐみの目の前ではビアンキが驚いた顔をしていた。自分との何気ないはずの、日常会話の中で言葉を失って驚愕の表情を見せるつぐみをいぶかしんだのだ、ビアンキは、今自分たちが何の話をしていたのかを思い出して、巡らせた。それは、そんなにいけない話だったか、彼女に衝撃を与える何かが含まれていたのか、必死に考えた。しかし、答えは出なかった。
「つぐみ、どうかした?私、いけないこと言ったかしら」 「・・・ビアンキさん、知ってたの?」 「知ってたって何を?」 「私、わ、たしたちのこと・・・」
そう言ったつぐみの目は熱っぽく潤んでいた、今にも涙が出そうなくらい、とビアンキが思った2秒後、向かって右のひとみから涙が滑り落ちた。つぐみが何故泣いているのか、ビアンキには分からない、嬉し涙というわけにはいくまい、悲しいことがあったのか、悔しいことがあったのか、ああそういえば、わたしたち、って誰のことなのだろう。
「わたしたちって、誰のこと?つぐみと、誰?私?」
ビアンキが私か、と聞いたのは今この場には彼女とつぐみしかいなかったからだった。午後5時、それぞれ散らばって昼のお仕事をしているファミリーの面々よりも少し早く戻って来ることの出来た二人は、専属コックをキッチンから追いやって、夕食の支度をしながら談笑に勤しんでいた。パスタをゆで、トマトを刻みながら、料理のこと、仕事のこと、ファミリーのこと、数年前には全ての手料理を凶器にしていたビアンキも、ポイズンクッキングのコントロールを覚え、慣れた手つきで調理をすることが出来る、そう、今、アジトのキッチンとそこに同じ空気を通わせる空間には彼女たちしかいない。しかし、つぐみはゆっくりと首を横にふる、その動作がゆっくりに見えたのは、彼女が心なしか震えている所為かもしれなかった。ビアンキは考える、わたしたち?私ではないの?私は知っている?何を?私は今何を言った?
「つぐみ、黙ってちゃわからないわ、誰のこと?どうして泣いているの?」
混乱とそれに伴なう苛立ちがビアンキの問いただす声を少し荒っぽくさせた。つぐみはそれにびくつくことはなかったが、それとは別の次元においてショックを受けているようだった。彼女の身体の震えは止まらない。かすれた声をゆっくりと吐き出す。
「、あ、獄寺くんが、九代目のこども、だって、本当ですか・・・?」
そうだ、とビアンキは思い出す。私たちは家族の話をしていた。彼女も弟の隼人も、自分たちの家族のことを進んで人に話すことはあまりなかった、それは父親の女性関係におけるふるまいを一方で当然としながら、もう一方で激しく否認を試み、その妥協策として決して認めたくはない諦観、を幼い頃から持ち続けていたからであった。しかし、二十歳を超え、正式にファミリーの一員、それも幹部クラスになってみると、その諦めも、当然も、否認もある意味で気にすることではなくなった。当の父はもう死んでいたし、自分たちはファミリーの次世代を見守る位置に置かれつつある。彼らは大人になっていた。 だから、ビアンキは自分の家族のことをつぐみに話した、死んだ父親を懐かしみながら、子供の頃に彼に抱いた種々の感情を反芻しながら、今同じファミリーの一員として生きる腹違いの弟を想いながら、彼女は話した。
「私のお父様、トマトが嫌いだったのよ、ふふ、イタリア人のくせにって思うでしょう?何でも赤いのがだめなんですって、よくわからないわ。でもマフィアのボスがそんなんでいいのか、って隼人が私に話しているのを聞いたみたいで、私が15の時には食べるようになっていたわね、え、お父様?そう、ボスよ、あなたは会ったことはなかったのかしら、でもよく話は聞いていると思うわ、だって」
「そうよ、私たちのお父様はボンゴレ九代目・・・それが、どうかした?」
瞬間、つぐみが持っていたパスタから手を離してしまったのでコンロの周りと床に乾燥パスタが折れて短くなって散らばった。そして、彼女はそのままキッチンを走って出て行ってしまった。つぐみ!とビアンキが呼ぶのにも応えることなく、震える身体をおして背を向けて行ってしまった。あとに残ったのは、沸騰したパスタなべ一杯のお湯と折れて使い物にならない乾燥パスタの山、何も知らないビアンキは、頭の中で、不可思議なつぐみの行動の解明と床の掃除を天秤にかけていたのだった。
いけないことだったのか、とつぐみは思った。イタリアに来て2年のち、やっと咲いた彼女の花はこうも簡単に、それも当たり前の理由で散っていく、はかないものであった。ヒバリはまだイタリアに来ない。その間、自分支え続けてくれた獄寺との交際を、彼女が前向きに考え始めたのはつい最近のことであった。自分を捕えるヒバリという男を諦めた今はもう、駄目、と言うことなく彼を受け入れることが出来る、やっと、やっとのことであった。 だが、これでまたふりだしだ、とつぐみは思った。彼が九代目の息子であるならば、その血を引いているならば、それは紛れもなく、駄目、なことであるからだ。つぐみの死んだ母親は九代目の長女だった。だから、それはいけないことなのだった。
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