5月の風はまだ少し冷たい、と彼女は思った。桜の花もとうに散りゆき鮮やかな緑が廃墟を囲っているこの季節を、今年はイタリアから遠く離れたジャッポーネで迎えている、変な制服を着せられたり寂れたテーマパーク跡地をアジトに指定されたり、MMにとってそれは心地の良いものではなかった。金で雇われた身、それも雇い主の六道骸は破格の手付金をもう既に与えてくれているのだから、そんな小さなことに文句を言える立場でないことは分かっていたのだけれど、彼女はどうしようもなく気を立たせていた。そしてその理由が一体何であるのかも知っていた。 厚いコンクリートの壁を隔てた隣室には、つぐみと骸がいる、きっと、睦みあっている。MMは知っていた。
つぐみと初めて逢ったとき、MMは彼女を昔絵本で見た天使のようだと思った。栗色のカールされた髪にダークブラウンの瞳、純白のワンピースの胸元に光るロザリオが目を焼いた。MMもつぐみと同じ日本人とイタリア人のハーフだったから、彼女の中の天使像は幾分か黄色人種よりだったのかもしれなかった。だから、青い瞳や真白な肌をつぐみは持ってはいなかったけれど、MMはその姿を天使のようだと思った。そんな容姿のことよりも、つぐみの内に秘められているであろう信仰心が自分の心をうったのだ、とMMは今になって考える。それがちょうどつぐみが初めて骸と契ったすぐ後のことであったのを、当時、彼女は瞬時に悟っていた。乱れたベッド、あのいやな匂い、つぐみが自分に向ける屈辱と猜疑心に満ちた目、全てを彼女は知っており、デジャ・ヴ、というやつだ、と考えて、気が遠くなった。それが六道骸の手によるものだと予想するのはあまりにも簡単で、しかしそのことはあの悪魔の寵児に愛された目の前の少女の神秘性をより一層高めた。つぐみは汚れているのだ、と彼女は思った、そしてそれをも上回るほどに、彼女はつぐみをうつくしいと思った。 犬や千種と違い、彼女は骸を主とも神とも思っていなかったけれども、ヒットマンとして多くの人間を殺めてきた彼女はいつでもそれを欲しがっていた。自分の汚れた手を取り、赦しを与えてくれる存在、そんな天使が欲しかった。つぐみと初めて逢ったその時、彼女はつぐみを天使だと思った。なぜなら、つぐみは悪魔に愛されている、悪魔が求めるのはいつでも聖なる光なのだ、とMMは信じていた。そして、きっとつぐみは骸を憎まない、とも確信していた。なぜなら、つぐみは天使だからだ。
壁が厚いからか、あちらで音を出さぬよう気をつけているからか、MMの耳には自分の呼吸音と雑誌のページをめくる音しか聞こえてこなかった。それでも彼女はまるで透かすようにとなりの部屋で起こっている事象を感じ取り、ずるい、と思った。 ずるい、骸ちゃんはずるい、私だって、エンジェルがほしいわ、 つぐみの胸に光るロザリオの黄金色を思い浮かべながら、そう思っていた。
|