「一日一生」

何気なく見ていた旅番組に、比叡山の大阿闍梨・酒井雄哉さんが出演されていました。
自決のための短刀を懐に入れて臨むという決死の「千日回峰行」を一度ならず二度も満行された酒井さんのことは、新聞記事などで存じてはいましたが、実際にお話されているところを拝見したのは今回が初めてでした。
二度目の満行を果たされたときには、還暦を過ぎていたという酒井さん。「なぜ二度も?」と訊かれ、一度目を終えてからやることがなかったから…みたいなことを、冗談っぽくさらりと答えたその穏やかな表情に、なぜか涙がこぼれそうになりました。
お話の中で私の胸に一番グッときたのは、「一日一生」という言葉。番組を見ながらメモを取ったりしなかったのでうろ覚えなのですが、今日という一日が終われば、明日はまた真新しい一日の始まり。たとえば今日ケンカをした相手であっても、明日会うその人は昨日とは違う別の人。…そんなふうに考えれば、過去の感情を引きずったり執着することはなく生きてゆける。
…そんな意味なのかな、と私は理解しました。

特別な信仰を持たない私ですが、立て続けに大切な人との別れを体験した後からは、とにかく一日一日を大切に、悔いなく生きるよう心がけてきました。
それは決して刹那的な生き方をするという意味ではなく、いつ別れや終わりがきてもドンと受け止められるよう、常に100%全力でぶつかってゆく覚悟。
…と言うと格好がいいけれど、今日一日を充分に満ちたものにしなければ申し訳が立たないような、使命感というか焦りのようなものをもときに伴います。
だけど、一日一日の経過がそれぞれに完結したものの連続であると捉えならば、もしかすると今ほど肩に力を入れてがんばらなくてもいいのかもしれない…と思えたのです。
たとえば、一生かけて何かを成し遂げなくては…と力む前に、まず目の前のなすべきことをひとつずつこなしてゆく。それが連なって、積み重なって、振り返って見たときに自分が思ったような何かの形を成していれば上出来、くらいに考えればいいのかな、と。
もっとも、ひと晩眠って目覚めればまっさらな気持ちになれるほど気持ちの切り替えをスパッとできるほど人間が出来ていないからこそ、こうして幾つになってもぐるぐると迷い続けているわけですが(苦笑)。
2007年08月26日(日)

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