2005年02月05日(土)有責性







レヴィナスが言う「有責性」と私の感じる責任とは違うだろうけど、
中学生の頃、どうしようもなく死にたかった原因の一つを思い出したー。
と、いうのも、
今日のNHKスペシャルのフリーターの漂流の話について、
フリーターの現実(物作り工場の人材確保の請負会社と物作り工場と、殆ど機械的労働力を求められているフリーターの現実)は、私の責任だと思ったから。
その工場は偶々携帯電話製造工場だったのだけれど、
携帯電話の売れ行きなどによって、フリーターたちの仕事は増えたり減ったり、全然違う作業をするレーンに組み替えられたりして、フリーターたちの技術獲得とか自立とか不可能になっている。悪循環。
だから、消費者としての私が、欲望するから製品は作られるのだから、私が原因だ。
(「消費者としての私」は辺りに散らばっている。携帯電話をこの私が欲していなくても、欲望を先取りされている現在の状態は、やっぱり私が欲望しているということ)
でもどうすることもできないなぁ、と思うのですな。
私に出来ることは、フリーターにならないこと、欲望しないこと。
中学生の頃も、いろんなことに対して責任を感じていたと思い出した。
同じやり方で。
拒否する方法しかできないから、害ばかり生み出す気がして、それなら私が死ねばいいと思った。
あんまり絶望って感じじゃなくて、きちんと考えた結果だった気がする。
そんなことをぼんやりと考えた今日でした。






ゆえちゃんの「嗅ぐ」のセクシーさから思い出したけど、
「いそしぎ」って、悲哀とのどかさを伴いながら西洋の川で洗濯をする行為、って感じがしない?
ホントは鳥の名前だけど。







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[りじゅんりょう]
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