通院メモ |
通院日でした。診察室が患者さんたちの作品で埋もれゆく・・・。
前回はフェルト製の渦巻きうんこが彼方此方に──先生の椅子にぶら下がっていたり、キティちゃんの頭の上に鎮座ましましていたり・・・。
それが見当たらなくなっていたのが少し寂しいな。どこに行ったんだろう・・・。
◇◇◇
今回、先生、泣いてたのかな。私はド近眼なので確かではないけれど、前にもそんなことあったみたいですし、あながち勘違いではないかもです。
色んな医者さんがいるものだけど、先生に限っては私の前では泣かないと思ってました。冷たい人と言う意味ではなく、被害者も加害者もない、傷付いた人達として深い見方のできる人だから。
しかし思えば長い付き合い。先生との7年(8年?)間を思い出したら、私こそ感謝で涙が出そうになりますわい。
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子供の頃、行動を決定付けていたのはほぼ恐怖心でした。すごいビビリで、怖いからこうする、怖いからああする、と言った感じ。
次に身体的欲求。卑しいなあ・・・。
あとはほとんど自分がない感じです。あまりに周囲がめまぐるしく感じられて(IQ60と言うのも手伝って──と言うか、めまぐるしいから低IQ)意味を見出すことができずにいたんですね。
わけがわからないので自主的には決めかねますし、色々とあきらめるには根拠を持っていません。希望ともあきらめとも無縁な、ひたすら不安な状態。
しかし内面では色々と自由でした。自由に生きる意味を考え、自由に希望を見出し、自由に私との接点のない世界と交流していました。それで想像力だけは鍛えられたのかもしれませんが・・・(汗
現実を体当たりで生きれないと言う足枷は、自我の発達に少なからず影響を及ぼしたかもしれません。それも私のペースと思えば、なんてことない話ですが(笑
知ってはいたんです。外の世界があることは。学校や絵本はその世界の構築物でできていますし、建前にも必要です。実によく知っていたんです。
◇◇◇
つらい怖いもあるラインを超えると申し訳ないに変わる、そんな話もしました。
「病みのラインは曖昧ではないですか?」と問われましたが、病みのラインではないです。越えてはならないラインです。
そんなものがあるのかは定かではないですが、とにかくそれは、私にとってとても重大なことでした。
それは、できることなら近寄らない方がいいラインで、そこを越えると、なんだろう・・・、神への冒涜?日常では経験しにくい罪悪感に苛められます。
一体それはなんなのか?と言う話。
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罪悪感にも種類があると思います。そこで感じた罪悪感は、なにか悪いことをしたと言う具体的なものではなく、傲慢な自分に対する叱責のようなもの。自分と言う個人に対してより、人類に対する・・・?
言語化がむずかしくてうまく説明できないのですが、きっと、沢山の人が無関係ではない話だと思います。
例えば、生命に感謝したことがある人ならば、生命のうちの1つの自分であると言うアイデンティティを持ったことのある人ならば、必ず、そのラインを目の前にして、なにも感じずにはいられないと思います。
ここまで話して気が付いたことがあるのですが、その大切なものとは、心だったのかもしれません。世界を映す鏡、魂の目を心と言うならば。
それは、自分の物とか人の物、そう言った概念を超越したものに感じられます。神さまから与えられた、全と個の交差点。尊厳の証拠。
あの罪悪感は、大切なものを守れなかったと言う後悔かもしれません。奇妙な責任を感じていたので。
心とか尊厳とか、それらが砕け散るような出来事って実際にあると思います。そう言う時、私は、神を見た、人間を見た、悪魔を見た、と感じていました。どれかは特定できませんでしたが、とにかくひたすら大変な物を見てしまった、傍に感じてしまったと、恐れおののかずにはいられませんでした。
「神と悪魔とは極端ですね」と先生。ですね、なんなのかわからなかったんです。今ならわかる気がします。それはきっと“大き過ぎる怒り”です。どうすることもできないし、隠さなければならない。 ※ちなみに今なら、神と悪魔と人間と言う概念を、それぞれ別個に持っています。あってる間違ってるは別として(汗
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心を失い、さまよう自分を憂えたのか、モンスターをこしらえる環境をなげいていたのか。幼かった私はなにを思い、感じていたんだろうな。
結局、虚無の淵でラインを超えるのを見守った私。イヤでしたよ。心底イヤでした。でも、不可抗力で、成す術がなかったのも事実で・・・。
その時の私がこうして意識の塊として今も生きていると言う感覚。モンスターであると言う感覚。
きっと彼女は何度かラインを超えたのだと思います。魂に限界はないけれど、心や体にはありますから。命に限りがあるように、臨界点は必ずあります。
ただ、その臨界点。淵の向こうがなぜあるのか?理由はあると思います。どの道、先は行ってもいっても同じ風景。帰ってくるより他ない、つまらない極みの地です。
きっとそれは、本来いやがる必要なんてないラインで、先生の言う“かたより”なるものが私に罪悪感やら不快感を与えていたのでしょうね。力むことなくラインを超えることができたなら、そこはただの休息の地なのかもしれません。
他人格の詩があります。詩なんてガラじゃないので少々恥ずかしいけれど、引用。
●紙芝居●
そう違う世界でもありません 馴染み深い安息の地です
疲れを癒す 安眠の世界
宝石のようなしぶきをあげる 浅い小川
冷たく湿り気を帯びた にごりなき空気
頬に射す 白く冷たい光の足跡
眠りたい生き物だけが迷い込む 迷子知らずの深い森
彼等は傷つけあうことも ののしりあうこともなく 寄り添い 心地よい寝息をたてあう
ただ ただ 体を横たえ
ふかい ふかい 完璧な睡眠
そこに脅威はただの一つも無く 惰眠と言うものも存在しない
ゆっくりおやすみ 目が覚めれば家はすぐそば ..2005/9/24(土) No.21
◇◇◇
今となっては、本当の自分だとか、病んでいない自分だとか、そんなことにはとらわれていません。その時その時を本当の私とやらは通り抜けてきましたし、今こうしてパソコンに向かってる間も彼女が通り抜けているんだと思います。
食いしん坊で、ワガママで、鈍感で、そんな彼女が、ラインを超えつつ色んなしがらみを捨て去り、記憶にも時間にもとらわれることなく、その時その時を生きている。ならば、私たちは生きれるだけ生きようと思います。
歯車となって生きる意味を見出し、彼女に捧げます。受け取らないかもしれないけれど、それでいいんです。だからいいんです。
私たちは記憶に縛られた亡者。彼女に取り付いたモンスター。そして様々を共有する友。
私たちは個性ある目。個性なんて持ったら、すでにそれはポンコツだけど、だから私たちは病気。個人を主張したがる強欲、業の残像。
彼女は私たちを拒んでいなかったし、これからも拒まないのだと思います。私たちが拒んできただけで。
心は認めさえすればすぐに復活します。そして、取り戻したならきっと、心ある生き方ができるようになると思います。全ては自分次第。
心を取り戻し、業にまみれた生を謳歌しましょう。
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尊厳とか心って、否定と言う事故に遭うと、作用として砕け散って感じられます。それが錯覚であることを、色んな人達の存在が知らせてくれました。ありがとう、ありがとう。
−−−−−−−−−− キリトリ −−−−−−−−−−−
ここ数年間、私がしたことと言えば、相方君を信じること、他人格を信じること、アルコール依存症への理解を進めること、先生の説明に耳を傾けること。これらに尽きます。
気が付いた時の状況がどうあれ、上記の姿勢を崩さないよう心掛けました。例え私がご尤もそうな非難を浴びせられ、責められている最中であっても、ドシーンと構えて動かざること山の如し。
アルコール依存症は関係の病。そして、その関係には錯覚が満ち満ちています。ある程度目をつぶっていた方が失敗しませんね。そんなに頭のいい生き物ではない私ですし。
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2008年08月11日(月)
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