「手、冷やせよ」 赤くなり、皮膚も剥けた拳を見たのだろう。亜久津はそう言った。 千石は振り返り、丸くした目を彼に向けた――亜久津の、にやりと笑うその唇に、目が留まる。切れたくちびるの端は赤く濡れている。 不敵な笑みから吐き捨てられる言葉はかすれがちで、街の騒がしさの中ならば掻き消されたに違いない。 その甲で拭った鼻血は拭いきれずにその鼻もとを濡らしていたし、顳かみには二筋の血の線、左目の目尻にはできたばかりの痣。白い髪の根元がじわりと赤く染まっているのにも千石は気付いた。 当然、顳かみから頬に滴る鮮血は真っ白な制服にも散っていて、今の亜久津は千石のどの記憶のなかでも一番はっきりと鮮やかに色づいている。千石はふと満足感を覚えた――その血を舐めて、味を確かめて、それが自分のつけたものだともっと思い知らせてやりたい。だがそんな事をしなくても、亜久津はもう十分にわかっているに違いなかった。亜久津の細い瞳は自分をしっかりと捉えていたが、眼光はいつもの鋭さのままだった。亜久津はもっと辛辣めいた瞳で千石を幾度も見たし、瞳の奥に憎悪の色を映していることさえ、あった。それなのに、今の彼はそんな瞳で自分をみていない。今の瞳の色は憎悪でも嫌悪でもない。千石はもうその色の名前を知っていた。それは亜久津の喧嘩を見ている最中で、何度も見た瞳の色だ。 千石は亜久津に倣うように唇をゆがめた。 「――クリーニング代、いるなら連絡よこして」 それから少しの間を置いて「優紀ちゃんに悪いし」と付け加えた。 そしてその途端に、瞳の色がぎらりと見慣れた色へと変化するのがわかると背を向けた。 わかりやすい、と千石は思った。それから少しそれを悔しく思った。 それを言えばその瞳の色が変わってしまうことなんて頭の中ではわかっていたのに、それでもやはりそれは悔しく思えた。 お前ももっと傷つけば良いのに、と千石は誰にも聞こえぬよう口の中で呟いた。
|