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タクシー
以前は、泥酔するとよくタクシーをひろったものだが、ここ数年、めっきり使わなくなった。その代わり、始発が出るまで飲むのである。もっとも、始発まで飲んで後悔しなかった試しはない。けれども、始発まで飲むと決意するそのときは、最高にいい気分である。だが最近は、始発まで飲むと決意するそのときに、すでに後悔している。
少し前、仕事でタクシーに乗らなければならなくなり、ビルの前で客待ちしているタクシー群に近づいていった。運転手たちは、外に出て、空を見上げている。車内で居眠りしているのもいるが、ほとんどは、外に出て、空を見上げている。私が近づいていっても、しばらく気づかない。 別に、日本がのんびりしたいい時代になったわけではない。彼らは、煙草を吸っていたのである。同情せざるを得なかったが、彼らにとっては、客に「吸うな」という方がさらに苦痛らしい。しかも、禁煙宣告をして、ヒステリックに怒るのは、断然女性が多いらしい。
義のために賭ける
自分では変化しているつもりが、実は退化していたということが、往々にしてある。しかも、痛い目を見るまで、それに気づかない。愚か者の悲劇だ。
この連休も、私はまんまとしでかした。なかでも最悪だったのは、WINSにいかなかったことだ。ここ1年で、私は、競馬がなければ生きていけない人間になりつつある。
競馬がなければ生きていけない人間がたくさんいるのは、WINSや競馬場に出向けば一目瞭然である。それぞれ事情はあるだろう。たしかブコウスキーのエッセイに、ギャンブルはマスターベーションだったか性的欲求だったかに心理学的に近いと書いてあった。私は、カネを賭けること自体は嫌いである。というか、怖い。必ず負けると考える。けれども、競馬新聞に目を通した瞬間に、恐怖はいきなり消え去る。あれはなんなのか。「義のために遊ぶ」と太宰治は書いたが、その心情が、このとき少しだけわかる気がする。
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