まーくん的日常...まーくん

 

 

オンナのきらいなオトコ(中編) - 2002年05月09日(木)

それでは、前回の続き。女性の嫌いな男性についてである。

二、理屈っぽい男性

おおむね女性は、頭のいい男性は嫌いではない。

実際、「頭の悪い男性のほうがいい男性より好き」という女性にお目にかかったことは一度もない。
まあ、この高等教育が一般化したわが国においては、「高学歴イコール高収入」の定理がほぼ成立するから、そうなんだろうけど。

しかしながら、女性の多くは、理屈っぽい男性は「大っ嫌い」だったりする。
この違い、わかっていただけるかな?

僕が会社に入ったばかりのころ、よく上司や先輩に言われた。
「理屈っぽいヤツは、女にモテないぞ」と。

最初はその言葉の意味があまりよくわからなかったが、女性とお付き合いをするような機会がふえてくると、実感としてわかるようになった。

デートでの会話などというものは、単純であればあるほどいい。
理屈っぽい会話(むしろ議論、ディベートに近い)を好むのは、明らかに男性だけで、女性はデートというプライベートな時間に、知恵熱が出るような話をすることをまず望まないということがわかってきた。

そもそも、リクツとかロジックとかいったものは、この「オトコ社会」を構築するために必要不可欠なアイテムなのであり、女性たちにとっては、それは男性サイドから「押し付けられた」ものなのである。
ひとを見かけで判断してはいけないとか、好き嫌いで差別してはいけないといった社会生活上の「ルール」は、いかにもオトコ社会的発想から生まれたものだ。
しかし、こと「恋愛」においては、唯一それが通用しない。

女性は、男性の大多数が大切なことだと信じている、
「待ち合わせ時間に遅れてはいけない」
「約束を土壇場でキャンセルしてはいけない」
といったルールを平気で無視する。
デートの待ち合わせに、時間ぴったりに、男性より早くあらわれる女性は、きわめて少数であることからも、それはよくわかる。

それを真剣に怒る男性もいるが、怒ったところで、女性が本当に反省するわけではない。
女性側は、男女間の交際は「ビジネス」ではないのだから、こういう「ルール無視」は、怒られる筋合いのものではないと思っている。

それでも納得できず、さらに彼女を責めたりすると、「わたしたち、性格が合わないみたいだから、別れましょう」なんてことを言われかねない。

社会における「絶対の論理」が、男と女の付き合いにもそのまま適用されるとは限らないし、そのへんの「機微」がわからない男性(いわゆるエリートと呼ばれる、高学歴の男性に多いようだ)は、女性にはまずモテないのである。

さて、三番は後編にて。


...

オンナのきらいなオトコ(前編) - 2002年05月07日(火)

前回のアンサー企画ということで、三回に分けてお送りしたい。今日はその前編。

女性の嫌いな男性、まあ、これはもちろん、女性の側から百万言をついやして言われてきたことで、いまさら男性である僕がどうこういったところで始まらないとは思うが、女性の皆さん自身もあまりよく気づいてないポイントが実はあると思うので、あえて書いてみたいと思う。

女性があげる嫌いな男性のタイプ、細かいポイントであげていくと、スゴいことになるよな。

いわく、
おなかの出た男性、汗っかきの男性、赤ら顔の男性、薄毛を変な髪型でごまかそうとする男性、体毛の濃い男性、額に脂が浮く男性、わきがのある男性、などなど。
このへんは身体的な問題。

会社のデスクで爪切りや鼻毛抜きをする男性、会社にくるとサンダルに履きかえる男性、センスのかけらもないジャンパーなど着て昼飯に出かける男性、何日も髪を洗わずフケが浮いている男性、おしぼりで手以外もふく男性、ナイロンの透ける靴下をはく男性、ダジャレを飛ばす男性、流行語を一年遅れで使う男性、声の大き過ぎる男性、エトセトラ、エトセトラ。
このへんは行動パターン、そしてセンスの問題。

浮気性の男性、ウソをつく男性、態度の傲慢な男性、暴力をふるう男性、セクハラ発言を平気でする男性、やたらベタベタさわる男性、なめまわすような視線で女性のからだを観察する男性。
このあたりは人間性、人格的な問題。

実にさまざまな理由で、(なかにはそんな些細な理由で嫌われるなんてなぜ?ってのもあるが)男性は嫌われているのである。

でもそういった細かい理由は、しょせん表層的かつ枝葉の問題であって、せんじつめれば、次の三点に集約されるのではないだろうか。

一、ケチな男性

世の中に、こういう男性が好きという女性は、たとえ彼女自身が徹底した倹約家であったとしても、「ひとりとして存在しない」と断言できる。
ケチな男性というのは、たとえ毎回恋人に食事をご馳走するような、一見度量の広いように思える男性の中にも、けっこう存在する。

そういう男性は、結婚したとたん「釣ったサカナに餌はやらない」とばかり、奥さんとなった彼女にろくにプレゼントもしなくなるし、外食することもなくなる。
つまり彼の「気前の良さ」は、結婚するための「手段」でしかなかったのである。

さて、その「隠れケチ」を見分けるには、どうしたらいいか。
まず、彼の服装をよく見ることだ。
質のいい、そこそこにお金もかかった、小ざっぱりした身なりをしていれば、まずは合格。

しかし、十年、ヘタすれば二十年前に買ったような、デザインの古い、しかもあまり上質ともいえない服を着ていたら、黄信号。
会うたびに、その手の、長年着ているような服ばかり着てきたら、完全に赤信号。
筋金入りの、いわゆる「どケチ」の可能性大、である。

ただし、世の中にはセンスがないが、単に「おしゃれ」に興味がないだけであって、女性のあなたが的確なアドバイスをしさえすれば、小ぎれいな格好に変身するタイプの男性もいる。
こちらは、まだ救いがあるので、いきなり×印をつけたら、気の毒というものだ。

が、その一方で、とにかくお金のかかる格好はごめんこうむる、近所の●トー●―カ堂や西●で売っているような服でも、「安いから」という理由だけで、平気で買って着てしまう「真性ケチ」も中にいる。

こういうひとは、恋人や奥さんがいくらアドバイスをしても「高い服は嫌い」とばかり、絶対うけつけようとしない。
コトが彼自身の問題にとどまっていればまだいいが、そういう男性は間違いなく、伴侶たる女性の服装、それからアクセサリや化粧品のたぐいにもケチをつけてくるに違いない。
「それいくらしたんだ。えーっ、そんな高いのか。ダメダメ、そんなの買っちゃ」
みたいなことを平気でいいかねない。

彼が単におしゃれに無頓着なだけでケチではないのか、それとも「真性ケチ」なのかどうかは、やはり、彼の住まいまで行ってみて確認するのがベストだろう。
家の中に、家具や家電製品などで、昔からのものがやたら置いてあったら、かなり危険度大。

なかなか古いものが捨てられず、そのために新しいものに買いかえようとしないことがミエミエだ。
ここ四五年、何も新しいインテリアを導入していないようだったら、たぶん結婚しても「私がお金を出すから」とあなたが言い出さない限り、何一つ新しい家具を準備しないはずだ。

こういうひとと一緒になると、金銭的なことでの心配はまずないだろうが、生活がまず楽しくないと思うよ。
いちいち、次買う予定の洋服やアクセサリのリストを亭主に提出して、チェックを受けなきゃいけないなんて、最悪でしょ?

では、二番は中編にて。


...

オトコのきらいなオンナ - 2002年05月05日(日)

女性の皆さんは、男性がどういう女性をいちばん嫌いかご存じだろうか?

不器量な女性かって?
答えはNOである。男性がいわゆる美人にしか興味を持たなかったら、人類の人口は減少の一途をたどっているに違いない。
きれいな女性はしょせん全体の1割程度なのだから、世の中の9割の男性が一生独身を通さざるを得なくなるってもんだ。

それとも、太った女性?
これもNOだ。それどころか、男性のうち30%くらいは間違いなく、痩せた女性より太めの女性のほうを好んでいたりする。どちらでもいい、というぐらいの考え方なら、過半数まで行くかも知れない。
女性の皆さん、ダイエットは、ほとんど無意味な努力のようで。

では、家庭的でない女性?
とんでもない。こんな男女平等が当然のご時世に、家事が不得意だからという理由だけで不合格にしていったら、相手なんて見つかりませんって。
テレビの「平成の常識 やってTRY」を見てみろっての。

では、一体何が正解か。

答えは「自分にうちとけてくれない女性」、これなのである。

意外に思われたかも知れない。女性はこういうポイントで男性を選ぶことは余りないであろうから。

よく少女漫画やジュニア小説で、主人公の少女の「憧れの君」となる男性は、おおむね切れ長の眼でミステリアスな顔立ちをした、あまり愛想のよくない、どちらかといえばその少女をむごく扱うような、薄情な男性だったりする。

女性は愛想のいいサービス満点な男性より、つれなく酷薄な男性に、えてして惚れてしまうようである。
つまり、「うちとけてくれない男性」にこそ、むしろ恋心を燃やしたがるのである。

しかし、男性はそういう傾向は極めて少ないといってよい。
どんなに美しい女性、愛らしい顔立ちをした女性でも、自分にうちとけようとする姿勢が見えないタイプは、即刻敬遠する。
よほど鈍感な男性、あるいはいくらつれなくされてもめげないタフな男性でない限り、しばらくコンタクトするうちに、その女性のことをあきらめるものなのである。

たとえば、他愛のないジョークを発し、それに対して笑ってくれるかどうかを見て、男性はその女性の自分に対する「親和度」を知るのである。
そこで女性がニコリともせず。こわばった表情だったら「こりゃあかん」と察知する、そういうことだ。

世間には、その美しい容姿のわりに、あまり男性に縁のない、つまりもてない女性が意外に多いと思う。
彼女たちはたいてい、自分の「殻」が硬く、男性とたやすくうちとけることが出来ないタイプである。それはほぼ、間違いない。

逆に、さほど大した容姿でなくても、妙にもてる女性が世の中にはけっこういる。
そういう女性は、まず例外なく、どんな男性とでもうちとけることが出来るタイプだといってよい。

そういう資質は生来のものであることが多いが、もちろん、努力によって獲得することも不可能ではない。
「殻」を打ち破ろうとする「意欲」がありさえすれば。

別におしゃべりがうまい必要はない。自分のことを語るよリ前に、相手のことをいろいろと聞いてあげる「聞き上手」になればいいのである。
恋愛とは、自分自身のプレゼンテーションである、そういうふうに思っているひとが世の中には多い。
が、本当はむしろ逆で、相手の情報をいかに引き出すかということが重要なのである。
自分のことは自分でわかっているのだから、あなたに必要なのはむしろ、相手が実はどういうひとかという情報。
「取材上手」が、恋愛の基本だと思う。

「モテる女性」「男性から好かれる女性」とは、まず相手に対して「笑いかける」ことで、まず「あなたに敵意や悪意、偏見といったものは持ってませんよ」と語らずに知らせ、相手のバリヤーを解除させることに長けたひと。
「モテない女性」「男性から嫌われる女性」「男性から敬遠される女性」とは、自分のほうからバリヤーを張って、相手をよく知ろうという努力をしないひとということだ。

相手が自分の好みのタイプでないからといって、愛想を出し惜しみするような女性、恋人以外には笑顔を見せてはいけないと思い込んでいるような、「殻」の固い女性。こういうのは、いくら絶世の美人であっても、男性としてみればノーサンクスなのである。

女性の皆さん、ゆめゆめお忘れなきよう。



...

ヒトデナシ - 2002年05月03日(金)

きょうは、20年以上前のお話。
当時はまだ一般的ではなかった「ねるとんパーティ」みたいなイベントが六本木のディスコで開かれ、そこに行った僕はある女性と知り合った。
京浜東北線沿線の、埼玉県某市に住む、僕よりふたつ若い彼女、仮にZ子としておこう。

Z子はショートカットでやや丸顔、どちらかといえば小柄。
美人でもなければもちろんブスでもないというアイマイなポジションのひとで、別に僕の好みのタイプというわけではなかった。

が、入社一年目、特に恋人らしきものもいなかった僕、まあGFのひとりくらいいてもいいか、もしかしたらそこから別の女性と知り合うきっかけになるかも知れない、という程度の軽い気持ちで、Z子の電話番号を聞いておいた。

会社の職場の先輩、YさんとEさんにそのことを話したら、急に身を乗り出してきた。
Yさんは僕より一年、Eさんは二年先輩で、ともに独身。
ふたりとも、一応、付き合っている恋人はいるらしい。
もちろん、その彼女らとはいわゆる「ステディ」の関係だという(意味、わかりますよね)。

恋人とは、会えば当然ホテルに行く関係なのだが、「最近、(彼女と)マンネリ気味だなー」という発言を彼らからよく聞くようになっていた。
あるいは「なんかちょっと変わったことをしてみたい」とか。
Eさんなぞは「ホテルとかふつうのところでやるのは、あきちゃってね。こないだなんか、飲み屋のトイレでやっちゃたよ」
なんて、品のないことをいう。
その他にも、雑居ビルの屋上付近の階段でやったとか、まるで洋モノAVの見過ぎじゃないの?みたいな行動を繰り返していたらしい。

「●●(僕の名前)、今度彼女とその友だちを呼んで、合コンをやろうぜ」
Eさんが妙にうれしそうな表情で、僕にいう。
「おれも参加させてくれよ」
Yさんも乗り気だ。
「じゃあ、彼女の友だちふたりも呼ばなきゃいけませんね」

ところが、
「いや、ひとりでいいよ」
Eさんはそういって、意味ありげにニヤリと笑い、Yさんに目配せをした。
Yさんも同じような、意味深な笑いを浮かべていた。

一週間後、Z子とその友人N美を、六本木のとあるパブに呼んで、合コンは実施された。
EさんとYさんは、平日だというのになぜか一旦家に帰ったらしく、余りお酒を飲まないYさんが運転するランドクルーザーに乗って、現地にあらわれた。

合コンは、「とりあえずZ子はおまえがちゃんとお相手しろ」とふたりの先輩に言われたこともあって、僕はおもにZ子の話し相手をし、そのふたりとは別個にEさんとYさんがN美と話し込む、というかたちになっていった。

住まいが遠く終電が早いZ子が「今日はそろそろ帰ります」というので、合コンはひとまずお開きとなり、彼女は僕が送っていくことになった。
N美はZ子と住む方向が違って都内だというので、当然、EさんとYさんがランクルで送っていくことになる。

彼らがクルマに乗り込み夜の街へと消えていくのを見届けてから、僕とZ子は地下鉄日比谷線に乗って、上野まで行った。

本当は、途中で「もう少し飲んでいかない? 帰り、タクシー出すから」みたいな展開になってもよかったのかも知れない。あわよくば、ホテルまで行くとか。

が、僕はZ子をモノにしたいという気持ちがまったくなかった。やはり、タイプじゃない、ってことだ。

だから、(もしかしたらむこうも拍子抜けしたかも知れないが)その日は「送り狼」にもならず、ごくごく紳士的に彼女を送っていく結果になってしまった。

上野駅より先は結局行かず、そこでZ子に別れを告げた。
あまり充実感をえることもなく、僕はそのまま山手線に乗って帰宅したのである。

翌日、出社してEさん、Yさんに会うと、
「いやあ、昨日はひさびさに興奮したなあ」
「ほんと、グルグルなんておれ、初めてですよ」
「いやおれも」
などという話で妙に盛り上がっている。
「どうしたんですか」
と聞くと、Eさんが
「やったんだよ、3P。あれからホテルに乗りつけてな」
そういって、笑った。

僕は一瞬、固まってしまった。
そして次の瞬間、
「あんたがたは、なんてことをしてくれたんだ! それでも人間ですか!」
と、思わずふたりに食ってかかっていった。
彼らは、いきなり僕に激怒されて、たじろぎ、あきらかに当惑の表情を浮かべていた。
回りにいた他の先輩たちも、何事があったのかとつめよってきた。

でも、
「このふたりが輪姦(まわし)をしたんですよ」
なんて、大声で言うわけにはいかないので、その場はすぐに矛先を収め、僕は引き下がった。

あとでふたりが、僕にネコなで声でこう言ってきた。
「いやー、さっきのはウソなんだよ。●●がうらやましがるかと思ってちょっとウソをついてみただけなんだって。おれたちマワシなんてやってないって」

しかし、僕はその言葉をすんなりと信用することが出来なかった。
彼らの性格を、よく知っていたから。
あいつらだったら、やりかねない。
やりもしないマワシの自慢なんかするかよ、と。

とはいえ僕は、彼らの「快楽のためなら、コロシ以外のことは何でもやる」みたいな思想、それはそれで否定しない。
誰かを傷つけることさえなければ、何をやったっていいと、僕自身思っているから。
たぶん、N美は合意の上で3Pに参加したんだろう。
レイプでない以上、「犯罪的行為」とはいえない。

でも、僕には「3Pやったよ」という話を聞いて、「そうなんですか」「いやー、うらやましい」という反応を返すことはとても出来なかった。
なぜか。

つぶされて困るほどのメンツが、あったわけでもない。
本気で3Pや輪姦は不道徳だなどという、強固な倫理観があったわけでもない。

つまるところは、そういう蛮行を平気で出来る彼らの、「大胆さ」「タフさ」がどこかねたましかったということかも知れない。

そして、僕は、自分自身に一番腹を立てていたのかも知れない。
先輩ふたりにおもねり、さほど会いたくもない女性に取り入り、先輩の甘心をうるためにお膳立てをした自分に対して。
実は彼らがN美を輪姦してしまうだろうことを、うすうす予想しながらも、結局先輩のいいなりになってしまった自分に対して。

「うらやましい」という感情をストレートに表現することを出来ない自分ゆえに、相手を倫理的なものさしで責める。
本当はそんなものさし、信じてさえいないのに。
これは、まさに、マスメディア、中でも芸能ジャーナリズムのありかたと酷似している。

いい例が、石田純一サンに対するレポーターたちの舌鋒。
あるいは森本レオさんへの批判。
要するに、「自分にはそれができない」ことを知っているがゆえに、一層、倫理的な批判を加えてしまうのである。
筋違いもはなはだしい。

Yさん、Eさん、今は会社をやめてしまい、ふたりともいない。
とんでもないひとたちではあったが、今となってみれば、彼らを非難した僕も青臭かったなと思う。
そう、僕の発言は「偽善」そのもののマスメディアと、似たりよったりのものだったのだから。



...

バレンタイン症候群 - 2002年05月01日(水)

駅で電車を待っている時間に、高校生らしい少年たちの会話を、自然と聞いてしまうことが、たまにある。
たとえば、こんな感じ。

「おまえ、こないだのホワイトデー、どうした?」
「どうしたって?」
「○香(女のコの名前)のことだよ」
「○香ぁ?」
「そう、ホワイトデーにちゃんとお返ししたのかよ?
バレンタインデーに、コクられた(注・告白されたという意味)っていってたじゃないかよ」
「そうだけど…」
「何もあげてないのかよ?」
「うん、○香って、オレのタイプじゃないんだよな…」
「じゃ、付き合えないってちゃんと断ったのかよ、○香に」
「それもしてねえ」
「って、おまえ、それじゃ○香がかわいそうじゃん」
「だって…」
「付き合えないなら、付き合えないってちゃんと言わなきゃだめじゃん」
うんぬん、かんぬん。

その声の主たちを見るに、髪型もいまふう、スリムな体型で、顔立ちもジャニーズほどはいかないまでも、そこそこイケてる風の少年たちであった。

こういう会話を聞いていて感じたのは、「ははあ、きょうびの少年たちは『待ち』や『受け身』の姿勢のコが多いんだなぁ」ということ。

つまり、バレンタインデーに、女のコが好みの男のコに告白し、それを男の子が「受ける」か否かを、考える。そのこたえを一ヶ月後に返す。

ホワイトデーはある意味で「入試結果の発表」みたいなイベントになっているのである。

しかしだ。

どーして、その「順番」でなきゃいけないんだよ。

男のコのほうから告白しちゃいけないなんて、誰も決めてなんかいないんだよ。

きょうびの女のコは大変だ。
見てくれはいいかも知れないが、優柔不断で、自分は本当はどの女のコが好きなのか決められないような、相手が自分に好意を持っていることを確認してからでなければアプローチできないような、ギャル男(お)くんみたいな男のコに、まず自分のほうから告白しなきゃいけないんだから。

男の側から告白しないでどうする、という考え方があたりまえだった時代の人間である僕は、真剣に憂いますね、この状況。

「試練」らしい「試練」が何もない、今の世の中、もし「試練」らしきものがあるとしたら、「好きな女のコに堂々と告白して、玉砕する」ことと、ちゃいますか。

「自分に告白してきてくれた女のコのなかから、好みのタイプだけ選択して、付き合う」みたいなやり方は、サイテーだと思います。

この日記を読んでくれた若い男性から、「オレは違います。オレはちゃんと自分のほうから告白します」という反応があることを期待してます。




...

年齢差カップル - 2002年04月29日(月)

最近話題になった森本レオのケース(推定30数才の差)ほど極端ではないにせよ、僕の周辺でも年齢差カップルをよく見かける。

友人(といっても、三十代後半、僕より8才も年下だが)のC君。
彼は独身で、何と15才も年下のSさんと付き合っている。
同じく、C君とタメ年のI君。
彼も独身だが、10数才年下のRさんと付き合っている。

Sさん、Rさんはともにかなりの美形でスレンダー。性格も女らしい。
なぜ彼らはそんな若く、しかも魅力的な女性と付き合うことが出来るのだろうか?

C君やI君は、一応ちゃんとした社会人ではあるのだが、同年代の多くの男性との大きな違いがひとつある。
「おじさんっぽくない」のである。

I君は長めの髪を茶に染めているし、体型もスリム。
C君はやや体重はあるが、タッパがあるのでさほど気にならない。
がっしりとした感じが頼もしくさえある。彼も髪を長めにしている。

服装も、Tシャツにジーンズや、革のジャケット、パンツのようなスタイルが中心。
間違っても、ゴルフウェアみたいなものは着ない。サラリーマン眼鏡もかけない。

つまり、年相応、みたいなことはまるで考えず、十代、二十代の頃のアウトローな雰囲気をそのまま保っている。
こういう実年齢を感じさせない格好や髪型をして、しかも違和感がない。
これがまず、若い彼女たちにも、ムリな受け入れられている理由のひとつであろう。

もちろん、見てくれだけの問題ではない。
彼らは実に気持ちが若い。話すことの内容も若い。

普通、男性が三十代後半になると、社会をしょって立っているという自負が強くなり、またたいていは結婚して子供もいることから、年下の世代に対する意見が「おやじ臭く」、つまり「エラそうに」なってくる。
自分が「親」の側に立つことで、年下の独身世代を「指導・教育」出来る立場にたったと思い込んでしまうのである。
実際はまだ、試行錯誤の連続に過ぎないのにね。

でも、彼らはそういう「親」的な発言はせず、同じ独身としてあくまでも「アニキ」的な向き合いかたをする。
バカっぽいっことも平気でいう。決してエラぶらない。
そのへんも、決して実年齢は若くないのに、若い女性にモテる理由だといえそうだ。

あと、精神的な「余裕」が二十代の男よりもはるかにあることも、重要だ。
二十代のオトコはやたら相手の女性を束縛したり、実にささいなことで相手といさかいを始めたりするようなところがある。
それは、自分が「同世代」の女性と付き合うことが、「当然の権利」だと思うような「おごり」から来ている。

しかし、彼ら中年世代ともなると、そういう若い女性と付き合えるだけでもありがたいことだと思い、くだらない理由で相手に腹を立てたり、「他のオトコと絶対付き合うな」などとしばったりはしない(というか出来ない)。
このへんの度量の広さも、彼女たちにとっては魅力なのではないかなあ。

三十代後半以降、いわゆる「中年」にさしかかった男性が若い女性にモテるのは、
「金銭的余裕」と「熟練したセックスの技術」
の二点によるものだと一般的には考えられている。
が、そういうものだけでもない。

彼らは別に、女性たちに毎回のようにプレゼントをしまくっているわけでない。
食事はたいていおごっているが、高い店に行くわけでもなく、普通の居酒屋だって多い。
会えば必ずセックス三昧、というわけでもないようだし。
ま、そのへんは普通の二十代同士のカップルと、同じ感じである。

世の中には、「固定したイメージ」が流布されすぎて、実態が意外に知られていないことが結構あったりするが、モテる(独身)中年男性の実態もまたしかりであろう。
若い女性は、C君やI君をいわゆる「おじさん」とは考えておらず、「年のいったおにーさん」と考えているから、自分の交際相手として選んでいる。
彼ら二組の「ひとまわり差」カップルの、「いー感じ」の交際を観察していて、そう感じた。



...

イージー・ゴーイング - 2002年04月28日(日)

昨日、「安易な人生」を歩んでいるU部長の話を書いた。
もしかしたら、読者のかたはそれを読んで、僕が「安易な人生を送ってはイカン!」と思っているように解釈されたかもしれない。

が、僕としては、安易な人生を送るも送らないも、「個人の自由」だと思っている。
現に、僕だって十分安易な人生を送っているという気がする。

いけないのは、ひとより安易な人生を送っているくせに、そのことを「自覚」していないということ、それだけなのである。

ところが、安易な人生を送っているひとに限って、自分はじゅうぶん一人前の、しっかりした人生を歩んでいるなどと勘違いしていたりする。

先日書いた、39才独身のK君などはいい例である。
彼は自分が安易な道を歩むことを、まるで恥じていない。

それどころか、彼は自分が人生を歩むうえで、いろいろと「近道」「ショートカット」を考えつけるのは、自分の頭の良さだとまで思っているふしがある。
だが、K君が考えつく程度のセコーいショートカットなら、たいていの人間は考えつくのであって、「それを実行したら、終わりやん」「情けないやん」と皆思うから、それを実行しないだけなのである。

そうはいうものの、K君も、内心忸怩たるものはいささかあるのかも知れない。
だが、それを見透かされるのが嫌だから、「ぼくはバカじゃない」などと、つまらない虚勢を張ってしまうのだと思う。
見るひとが見れば、お見通しなのだが。

こういう、なんでもラクな道を選択して、恬として恥じることのない「イージー・ゴーイング症候群」は、現在のわが国全体を覆っているような気がする。
最たる例が、かの、森義朗前首相である。

彼は大学進学にしても、就職にしても、何一つ自分の実力で勝負せず、すべてコネとハッタリと恫喝だけで乗り切ってきたような男である。
教養も知性もなく、押しの強さと厚顔無恥ぶりだけで、首相にまで登りつめた男。
そのくせ、自分はまるですべて実力で勝負してきたかのような、一人前の口を利く。

そう、イージー・ゴーイングな生き方自体に問題があるのではない。
自分はイージーな生き方しか出来なくて情けないという「恥じる心」が本人にあれば、全然オッケー。
イージー・ゴーイングのくせにそれを自覚しない、あるいはそれを内心恥じていたとしても、「安易で何が悪い」と居直る、そういう姿勢こそが問題なのだ。

先日、裏口入学斡旋詐欺で、一口5千万円で推定百人以上が金をだましとられたという事件があったが、あれなんか、被害者がバカなだけという気がする。
何でもカネでイージーに解決しようと考えるひとが多すぎるのだ。

日本全体がこういう風潮になってしまったのは、実はマスメディアにも大いなる責任がある。
現在日本に蔓延する、「念じていればすべて実現する」「望めば何でもかなう」風の安易な思想をちまたに流行らせたのも、「偽善のかたまり」である「マスメディア」にほかならない。

たとえば「101回目のプロポーズ」。
ああいう「つくりばなし」では、「不細工な男も、熱意さえあればいい女と結ばれる」というような、いささか現実味のないハッピーエンドにもっていかねばならないのはよく判るのだが、つねに受け手は「低レベル」で解釈する。
どんな魅力がないような人間でも、押しの一手で行きさえすれば、相手を落とせる、というふうに勘違いする人間がおおぜい出てきても不思議はない。
現に、相手の意向をまったく無視した「ストーキング行為」が、ここ十年で異常にふえたではないか。

いまだに「癒し」だの「なごみ」だのの、ワケわからんキーワードで偽善的な言説をふりまいて荒稼ぎをするマスメディア、少しは責任を感じろよ。

イージー・ゴーイング全盛という風潮、それはいいかえれば「世の中、すべてカネや」という「えげつない」思想と裏表の関係にある。
メーカーも流通もマスメディアも、「カネさえ出せば、あなたにも夢が買えます」と、一般大衆に安易な夢を見させているに過ぎない。
でも本音では大衆のことなんか、なんとも思っちゃいない。
「あんたがたの、カネをよこしなさい」、それだけ。
これはもう、「おためごかし」以外のなにものでもない。
もういいかげん、目覚めたほうがいいと思うよ、皆さん。


...








 

 

 

 

INDEX
past  will

Mail