まーくん的日常...まーくん

 

 

「平成の御三家」<カワイイ男論の検証> - 2002年11月13日(水)

「平成の御三家」。
今から10年ほど前、こういうふうに呼ばれた三人の若手俳優がいたのを、皆さんは覚えていますか?

―反町隆史・竹野内豊・金城武?

ノンノン!
吉田栄作・織田裕二・加勢大周。このひとたちのことです。

彼らはTVドラマや映画での活躍により(さらに吉田・織田はCDも出していました)、当時もっとも女性に人気のあった俳優でしたが、今はどうでしょうか?

現在でも映画・TVドラマ等で昔とかわることなく活躍しているのは、織田裕二だけであるといっていいでしょう。
あとのふたりは、一応現役ではあるものの、第一線とはいいがたいところで、細々とやっているに過ぎません。

彼らが登場した10数年前は、まだバブル全盛期の余韻が消えやらぬ頃。
当時この三人の中で、いちばん勢いがあったのは、吉田栄作だったと記憶しています。
CDデビュー即大ヒット、即紅白歌合戦に出場したほどですから。
(織田裕二もその後ヒットを飛ばしましたが、吉田栄作にはそうとう遅れをとってのチャートインでした)

三人の中でも一番「カワイイ」顔立ち、和製マイケル・J・フォックスとでもいうべきルックスをしていたことが、吉田の人気の一番大きな理由だったといえそうです。

ところが何年かのうちに、彼のその勢いは急に失速します。
なぜでしょうか?

彼は自分の人気ぶりにやたらと自信をつけて、「自分は大物」という意識を誰はばかることなくちらつかせるようになりました。
これに一番気分を害したのは、ほかならぬ彼をスターダムにのし上げたファンの女性たちでした。

「カワイイ感じだから応援してスターにまでしてあげたのに、そんなゴーマンなオトコだったなんて、私たちを馬鹿にするにもほどがあるわ」

と、いうことです。

おまけに彼は何を勘違いしたのか、「日本ではオレの大きな器を生かす場がない」とでもいわんばかりに、アメリカへと役者修業に旅立ってしまいました。

これが裏目に出て、その後彼はすっかり「忘れられたスター」となってしまい、気づいたときには、日本のどこにも自分の戻るべきポジションがなかった、とこういうわけです。

一方、加勢大周もまた、デビューして数年後に大きなつまずきをしてしまいます。

彼もまた自分の人気に自信をつけて、「独立」を考えるようになります。
ところが、所属事務所から独立するにあたって、今まで通り「加勢大周」という芸名を名乗ろうとしたところ、旧事務所の社長から、「その芸名は、自分が腐心して考えたものだ。使用まかりならん」とクレームをつけられ、法廷での係争にまで発展します。

一時は、加勢大周と、旧所属事務所が擁立した新・加勢大周(現・坂本一生)が同時に芸能活動を行うという、異常な事態にまでなりました。

結果的には、もともとの加勢大周が、その芸名の使用権を認められ、現在に至ってはいますが、その一件ですっかり「ミソをつけた」というのが、実状です。
彼の人気も、デビュー当時にくらべるとすっかり下火となってしまったのです。

その後加勢は、活動の拠点を日本から台湾に移すことで新たな人気を獲得し、なんとか活路を開いたように見えます。
が、それでも旧事務所とのトラブルはいまだ解決していないようで、つい先日も旧事務所に損害賠償として6600万円を支払うよう、東京地裁の判決を受けています。
当然、解決にいたるまでは、今後かなりの年月がかかりそうです。
よくよくトラブルと縁の切れないひとなのでしょう。

これらの件に関しては、一概に彼に非があるとは思いませんが、最初の「独立」のときはよくよく慎重に事を運ばないと、富も人気もすべてパーになりかねないことを、もう少し自覚してやるべきだったように思います。
スキャンダルというものは、なんら非のない、いわば被害者側でさえも大きなダメージを与えてしまうものだということですね。

さてその間、もうひとりの御三家、織田裕二は実に地道に仕事に励んでいました。
彼は87年に「湘南爆走族」で映画デビュー、その後いくつかの作品に出演しましたが、器用にはこなすものの、これという当たり役もないままでした。

そんな彼のイメージを大きくアップさせたのは、91年に放送されたTVドラマ「東京ラブストーリー」でした。

柴門ふみさんの漫画を原作としたこのドラマでは主人公カンチとして、奔放な帰国子女リカ(鈴木保奈美が演じました)に翻弄されながらも一途な愛をつらぬくという役柄を好演、これまでは人気の面で他の二人に水をあけられていたのを、一気に盛り返したのでした。

そして同年夏公開の映画「就職戦線異状なし」に出演、「若い世代の代表選手」的なポジションを得るようになります。
そして、最近の「踊る大捜査線」「ホワイトアウト」にいたるまでの活躍ぶりは、皆さんご存知のところです。

もともと、後のふたりにくらべると、さほどハンサム・タイプではないことも、むしろ大いにプラスになっています。
いわゆるカッコいいヒーローよりも、等身大の、普通の若者たちにも共感できるような役柄をおもにもらい、地道に演ずることで、彼は人気を徐々に伸ばしていったといえます。

私生活でも、それこそホモじゃないの?といわれるくらい女性の噂が少なかった(うまく隠したのかも知れませんが)ことも、彼の「好青年」的な印象を高めたといえそう。

そしてなにより、彼が好感を持たれたのは、彼自身の言動にまったく「驕り」が感じられない、ということだと思います。

スターには、人気を得ることで天狗となりダメになっていくタイプと、人気を得ても淡々と仕事を続け、決して偉ぶらないというタイプにはっきり分かれると思います。
もちろん、前者のスターとしての寿命が後者にくらべて著しく短いのは言うまでもありません。

後者のような、人間としての「カワイイ」部分が欠けていては、いかにカワイイ顔をしていても、平成御三家のだれかさんのように、人気がどんどん下がっていくものなのです。

演技、ふりによって「カワイイ」男に一時的に「なる」ことは、さほど難しいことではないでしょう。
ですが、長年「カワイイ」男で「あり続ける」ということは、存外難しいものです。

さまざまな場面で、さまざまなひとたちが、彼自身の「素」のキャラクターを観察し、その情報は光なみの速さで伝わり、あっというまに皆に知られるところになるのですから。
ムリに演技してみても、早晩ボロが出てしまう、そういうことです。

そういう意味で、織田裕二は最終的に、素の「人間性」で勝利を手にしたといえそうですね。

この「平成の御三家」の事例ひとつをとってみても、ただ顔がカワイイだけではダメ、むしろ性格こそ決め手にほかならないことがよくわかります。

ということで、若いみなさんも、見かけのカワイサを磨くことにばかり血道を上げず、内面こそ磨いていただきたいものです。


...

「コワイ男」から「カワイイ男」へ - 2002年11月04日(月)

すでに二回にわたって書いてきたように、オトコにとって異性から「コワイ」という印象をもたれることは、いまや数多くのデメリットこそあれ、メリットなど何もない。

ところが、オトコどもは実に長いあいだ、自分が「コワイ」奴であることを、ことさらにアピールし続けてきたように思う。
それは何故かといえば、「戦乱」の時代が長らく(何千年、いや何万年か)続いてきたことが大いに関係しているだろう。

とにかく少しでも相手に「コワイ」と思わせる、つまり威嚇することが、日々これ戦(いくさ)の時代には不可欠の「自己演出」であった。

そのためには、「笑顔」など、オトコにとって不要のものであるとされてきた。
ニコリともせず、ひたすら「コワモテ」で通すこと、これがオトコの行動規範のすべてであった。

その「戦乱」の時代が、前世紀の後半、世界的にもようやく終焉を迎えるようになった。
それはまさに、「価値の転換期」でもあった。

日本では1945年8月の敗戦以降、オトコどもはオンナたちにとって「コワイ」ものではなくなった。
オンナたちは、オトコたちの腕力を恐れることなく、男女平等を謳歌出来るようになった。
二度と「戦う」必要がなくなった日本にとって、「コワモテ」のオトコたちもまた、不用品となったのである。

そして、オンナたちは、「愛玩出来るオトコ」「カワイイ男」こそ一番好ましいと考え、そういうオトコたちにむらがるようになる。
最初はアメリカ軍の白人兵士たちに。
彼らが撤退するころには、ウェスタンやロカビリーの歌手たちに。
その流れの上に、グループサウンズ、さらには現在のジャニーズ系アイドルたちがいることはいうまでもない。

他のオトコどもがどんなに眉を顰めようが、オンナたちは、彼らに対して黄色い嬌声を上げることをやめようとはしなかった。
そのうちに、武骨なタイプのオトコたちのなかにも、彼らのように女性にモテるほうがいいかなと考え直すものがひとり、ふたりと出て来る。
自分の過去のやり方を捨てて、新しい時代の流儀に従うようになる。
だんだん敵方へ「寝返る」男性が増えていったのである。

そして、何十年もの歳月が流れ、今や異性にカワイイといわれるために、ありとあらゆる努力を惜しまない男性が「多数派」となった感がある。

彼らは髪を染め、逆立て、眉毛を抜いたり剃ったりして書き入れ、ピアスをし、永久脱毛をほどこし、朝食を抜いて少しでも体重が増えないよう気を遣う。
そして、もちろんファッション雑誌を読んで、身だしなみや流行りにも気を配る。
まあ、涙ぐましいばかりの努力(笑)。

その「熱意」を、別のところに向けたらどうなんだ?なんていうのは、オヤジ世代の発言。
若い彼らとしては、ただただ女性に無視されたくないばかりに、やっているのだ。
いってみれば、死活問題(笑)。

ただ、僕が見るところでは、若い彼らのそういった努力も、どうも「空回り」しているんじゃないのー?という気もしないではない。
あまりに「カタチ」のうえだけの「カワイさ」をアピールすることしか、彼らの思考回路にはないのだ。

考えてみればいい。
男性が、ある女性を「カワイイ」と思うとき、それは単に彼女の容姿のみを「カワイイ」と感じているわけではないでしょ?

もちろん、「整った顔立ち」は重要にして不可欠な要素ではあるが、それだけでは十分条件とはいえない。
どんな美形であっても、ふだんはブスッとしていて、自分の恋人や夫の前でしか笑顔を見せない女性なんて、カワイイとは思えない。

やはり、愛想のよさ、惜しみない笑顔こそ、カワイイ女の第一条件。
あるプロの写真家によると、どんな「不美人」「非美人」でもいい感じに撮ることは可能だという。
つまり、彼女の「笑顔」を撮ればそれなりに見られるものだ、というのだ。

そのくらい、「笑顔」とは、最強の切り札、リーサル・ウェポンなのである。
雑誌アンアンの最新号で、女性の好きな女性タレントの第一位に松嶋奈々子さんが選ばれたそうだが、彼女などはまさにあの値千金の「笑顔」だけで、現在のポジションをつかんだといえそうだ。

その反対に、笑顔がよくないと、どんな端正な顔立ちの女性でも、「カワイイ」とは言われない。
一説では「ブス?ッ」としている女だから「ブス」だというらしいが、それはオトコについても同じことが言えるのでないかな。

男女の経済力の格差がほとんどなくなった現在、女性は生きていくために男性に媚びを売る必要はなくなった。
苦虫を噛み潰したような表情の、偉そうな態度を取るオトコに、ムリにへつらうことなどないのである。
そういう「ブスなオトコたち」は無視して、自分に対して愛想のいい男性を選べばいいのである。

かつて、
「オトコは度胸、オンナは愛嬌」
ということばがあったが、これを当世流に言いかえるなら、
「オトコは愛嬌、オンナはIQ」
とでもいうべきか。

アメリカでは、身分証明書・免許証等、ポートレート写真の基本は、日本とは違って、「満面の笑顔」が基本だという。
まだまだ過渡期の日本では、「ちょっと気取った、冷たそうな感じのオトコ」に人気があるのだが、流れは着実に変化し、「笑顔のカワイイ、素直な感じのオトコ」のほうにスポットが当たってきている。

まずは、一日一回、鏡の前に立ち、笑顔の練習から始めてみよう。
これまで女性に縁が薄かったモテナイ君も、これで人生、劇的な転回をとげるかも。


...

カワイイ男とコワイ男 - 2002年10月24日(木)

漫画家・柴門ふみさんのエッセイに、「女性は実は、かわいい男性が好き」という主旨の文章があったと記憶している。

具体的にいえば、女性はシンガーでたとえるなら長渕剛よりは吉田拓郎のほうが好き。
なぜなら、長渕は「コワイ」感じがするから。
拓郎は、長渕にくらべると「カワイイ」感じがする。
だから好き。と、こういうことなのだ。

この話、動物にたとえてみるとわかりやすいかもしれない。
ヘビやトカゲや恐竜が好き、という女性はまずいない。
やはり、パンダやラッコやアザラシのほうが人気がある。
なぜなら、後者のほうが「カワイイ」から。

では、カワイイとはどういうことなのか。
さらにもう一歩ふみこんで考えてみよう。

カワイイとは、言いかえれば、「保護本能をくすぐる」、そういうことではないかと思う。

赤ん坊が「カワイイ」とよばれるのは、あまりにも無力で大人が保護してやらないことには生きていけない、そういう存在だからである。
赤ん坊が「オレ、ひとりでも生きていけるから、構わないでくれ」みたいなことを言い出したら、全然カワイクナイだろ?

「助けて」「かまって」のサインを、何のためらいもなく出し続ける、この無防備さに、大人たちは思わず手をさしのべてしまうのである。
カワイイとよばれる生き物や人間は、おしなべてこの「保護本能をくすぐる」ようなキャラが強いと考えていいと思う。

長渕が「コワイ」といわれやすいのも、あの目つきが爬虫類っぽくてコワイということもあるだろうが、つまるところは、「オンナなんかいらねえ」みたいなツッパったところがあるからだ。

そういう意味では、かたくなに再婚を拒んで独身を通している高倉健サンなども、やはり女性にとっては近寄りがたいものがあるだろうね。
なんか、「大丈夫、オレひとりで生きていきます」みたいな感じだもんね。

一方、「カワイイ」と呼ばれる男性たちは、いたって情けないところがあって、すぐ助けを求めちゃう。
「ボクちゃん、ひとりじゃ生きていけない、助けて!」みたいな。

たとえば吉田拓郎サンが健サンとは対照的に、何度も結婚を繰り返すのは、そういう、「弱さを隠せない性格」も大いにかかわっているのではなかろうか。

誰かと結婚していないとダメ、という「さびしんぼう」な性格ゆえに、彼は何度だって結婚してしまうのである。

たいていの男性は「弱音を吐いては、男がすたる」という妙なプライドがあって、相手に自分の弱さを簡単に見せられないものだが、「カワイイ」とよばれる男性は、そのへんの「しばり」がまったくといっていいほど、ない。

そのへんを、女性は実に敏感に察知する。
さすが、子供を出産し母親となることを運命づけられた「性」だけのことはある。

相手の顔色、目つき、口ぶり。
そういったものだけで、この男性は自分にとって「コワイ」存在なのか、「カワイイ」存在なのかを一瞬にして峻別してしまう。

コワイ男は、当然ながら敬遠し、カワイイと思う男は思いきり愛玩する。
そういうものなのである。

見た目は男っぽく、同性から見れば「いいヤツ」でも、まったくもてない男がときどきいるが、そういう男はたいてい、女性から見れば「コワイ」と思われているのだろう。

でも、ちょっとした工夫で、その「コワイ」という印象を変えることは、実は可能だ。
そのへんのことは、次回で考えてみよう。


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カワイイ男 - 2002年10月22日(火)

最近流行りの男性タレントは、ごく少数の「超美形」(Gacktみたいな)を除けば、基本的に
「カッコいい」
よりは
「カワイイ」
男がメインストリームだという気がする。

たとえば、三瓶クン。
たとえば、ユースケ・サンタマリア氏。
たとえば、えなりかずきクン。
他では、藤井隆もそうだし、一応アイドルの草?剛だって、どちらかといえば「カッコいい」というよりは「カワイイ」系。

キャイーン、ナイナイといったお笑いタレントが基本的にアンチ・ハンサムなのは当然としても、一般タレントでも好感度が高いのはどちらかといえば、「カワイイ」」系。
岸田健作クンとか、加藤晴彦クンとかが代表例。

彼らを見て、ひとは
「ハンサムだなー」
とはあまり思わないだろうが、
「カワイイ」
と思うひとは多い。

彼らはいわば、マンガのキャラクターのようなもので、みんなが一緒に「遊ぶ」ことができる「おともだち」なのである。

そういえば、年配の男性タレントにも「元祖カワイイ系」はけっこういる。
かの坂田利夫師匠はまあ別格としても、漫談の春日三球師匠、シンガー・ソングライターの吉田拓郎さん、マジシャンのマギー司郎さんといったあたりは、その代表選手だな。

彼らは、顔がまずカワイイということもあるが、愛すべきキャラクターをもっていることがなによりも大きい。
アイドルだって、いくら美形でも性悪だったら人気がすぐ落ちてしまうように、カワイイ系男性タレントも、やはり「性格」が決め手なのである。

さて、具体的に「カワイイ」性格の男とはどういうものか?
それは次回以降で考えてみたい。


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ネットで日記を公開する意義 - 2002年10月21日(月)

表題の件について、少々考察してみたいと思います。

えー、僕のところはほとんど日記の体をなしてはいないのですが(笑)。
(いってみれば、「日替りエッセイ」というところです)

この「エンピツ」のさまざまなページを観察するに、いくつかの傾向にわかれるように思います。

1 自身のセックスも含めて、赤裸々な事実を吐露している(あるいはそういうように「見える」)もの。

2 基本的にはホンネで語っているように見えるが、プライヴェートの核心(つまりセックス等)には触れないようにしているもの。

3 「趣味」の世界にのみコミットしているもの。

4 特定の読み手を完全に意識して、「ブリっ子」「演技」しているもの。

こんなところでしょうか。

この中で、特に「投票ランキング」で上位に入るのは、もう圧倒的に1のタイプでしょう。
特に、「不倫」「過去の豊富な異性経験」などを告白しているものが、人気の上位に来ているように思います。

僕の推察では、1のうちの(全部とはいいませんが)かなりの割合は、「ネタ」だと思っています。
「ウソ」ではないにせよ、かなり事実をデフォルメしているのではないかな。

彼(彼女)らは明かに「読まれる」ことを快感としていて、読み手がさらに「おーーっ!」と唸るような挑発的・扇情的な表現に走っているとしか思えないのです。

だから、あまり、好きにはなれない。
読んでいて、アタマがだんだん痛くなってくる。

本来、日記とは、書く当人だけのためのものであって、他者に読ませる(読まれる)ことを前提としたものではない。

他人に読ませる(読まれる)時点で、それはもう「日記」ではなく、別の何かになってしまっているのです。

ですから、「人気のある日記」を目指して、日記を書くなどという行為は、どう考えても「倒錯」以外のなにものでもない。

だから、僕が好感を持てるWEB日記とは、

「こんなの誰も読んでくれないだろうけど、とりあえず自分の備忘のために書いておこう。たまには誰かがふらりと訪れて読んでくれてもいいけど、別に感想とかを聞きたいとは思わない」

という、書き手の淡泊な姿勢が感じられる日記だけですね。

結構、読み手の「ウケ」を意識しつつ書いている僕が言うのも、ちょっと矛盾した発言だとは思っていますが。

ま、けっこうあざとい内容の日記が増えてきたように感じたんで、ひとことだけ。












...

最近いいなあと思うのは - 2002年10月20日(日)

最近テレビ・映画を見ていて、いいなと思う女性を列記してみる。

吹石一恵 (育ちがよさそうなところがいい。実はかなりナイス・バディでもある)

ベッキー (レベッカ・レイ・ヴォーン) ハーフにしては小柄なので子供っぽいコかと思いきや、けっこう自立した考え方が出来る、オトナだ。同世代の日本のコギャルどもなんかより、ずっとしっかりしている。)

鈴木杏 (彼女も小柄でお子ちゃまっぽい外見だが、芯が強く、根性がありそう。芸能界で生き残っていくためには、それは必須なのだ。)

白石美帆 (美人だが、美人過ぎないところがいい。茨城弁が抜けず、田舎くさいところもまたご愛嬌。隣りのお姉さんの代表選手。)

今山佳奈 (明るいし、健康的。まちがってもエンコーなどに走らない。自分の娘がこういうコだったら、世のお父さん族は安心だろうね。頭がいいのに、それをひけらかさないという感じもグー。)

平山綾 (いかにも数年前までは、栃木の田舎道を歩いて学校に通ったという感じ。都会にはいないタイプ、そこがいい。やや「天然」、やや「プッツン」。それもまた、彼女のよさ。)

乙葉 (イメージはまさに「南アルプス天然水少女」(笑)。こういうコが、ケガれに満ちた「ゲーノーカイ」に入って、本当に大丈夫なのかよ!?と、オジさんは真剣に心配している。ヘンに業界に染まらないで欲しいわい。)


つまり僕は、同性に人気の高い、「長身・長足・元モデル・ファッションリーダー」的な女性タレントには、ほとんど興味がないのんよ。

たとえば、いまの「旬」で言えば、米倉涼子。
古くは江角マキコ。梅宮アンナ。

あんな繊細さのかけらもない、「大味」な女、「ガサツ」な女どこがええんや!と思ってしまふ。
彼女たちの「ファッション・センス」にしたって、ほとんど「プロの入れ知恵」によるものなんだから、感心するほどのものじゃないと思うね。

とにかく、「周囲によって作られた魅力」に惑わされるほど、視聴者側もバカではない。
「素材」こそが一番大事。
本人の性格のよさ、心遣いの繊細さといった、中身のよさなくしては、「いい女」とはよべない。
そこんとこ、タレントを送り出す側も、ゆめゆめ忘れないで欲しいな。








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自己チューな人 - 2002年10月09日(水)

約1か月のごぶさたスマソ(汗)。

世の中には、けっこう自己チューな人がいるものだが、僕の知っている中で一番ひどかったのは、某小売店(宝飾品関係)の店主だったな。

その男はオーナーのくせして、めんどうなことを出来るだけしたくないということで、「社長」の肩書を自分の女房になすりつけて自分は専務となり、
「なーんにもセンム」
などとくだらないギャグを飛ばすようなサムい男だった。

彼との出会いをあまり詳細に書くと、誰だか特定できてしまうので、そのへんははしょらせてもらうが、とにかく、彼とかかわった数年の間には、ろくな思い出がない。

彼の道楽はアルトサックスを吹くことで、それも「下手の横好き」の典型のような腕前。

学生時代には某私大のブラスバンドで吹いていたそうだが、そこから一歩も進歩していない(むしろ、年々退歩しているように見えた)。

そんな腕前のくせして、「自分のバックバンドが欲しい」などと考えたあたりが、そもそもの間違いの始まり。

彼はお店でのもうけを元に、副業としてこじんまりとしたジャズクラブを経営していたのだが、そこで弾いている(つまり彼に仕事をもらっている)ピアニストに声をかけた。
さすがに、表芸(ピアノ)でバッキングをしてくれというのは気がひけたので、そのピアニストが趣味としてやっているドラムスを叩いて欲しいとたのんだ。
当然、日頃仕事を与えてもらっている身分としては、ムゲに断れず、バンドに加入することになった。

ピアノのパートは、そのジャズクラブによく来る常連のお客に、ジャズピアノを弾くのが趣味というひとがいたので、そのひとを誘った。
彼はなかなか性格温厚なひとだったので、ふたつ返事で引き受けてくれたそうだ。

専務はさらに、いっちょ前にホーンでアンサンブルをやりたいと考えて(というか、ワン・ホーン・バンドとしてやっていく自信などなかったのだろう)、テナーサックスとトロンボーンも探した。

テナーは、ジャズクラブでウェイトレスのバイトをやっていた女の子のBFがなかなかの腕前だったので、彼を引きずりこんだ。
トロンボーンは、大学のブラスバンドの後輩を、これまた誘い込んだ。

さて、そこでバンドがスタートとなるはずだったが、ひとつの欠くべからざるパートが欠けていた。

それは「ベース」だった。

そのベースが決まらないがために、バンドは何ヶ月も「凍結状態」だった。

だが、たまたま僕がギターを弾けることを知った専務がある日、こう声をかけてきた。

「●●さん、ギター弾けるんでしょ」
「え、まあ、少しは」
「じゃあ、うちのバンドのベースやってよ、ボン、ボンって適当に合わせるだけでいいからさあ」
そんな感じだった。ほんと、テキトー(笑)。

要するに僕は、専務の「ダンナの道楽」のために、まんまと「つかまった」のであった。

ところがこのバンド、とにかくいいだしっぺの専務がまったく頼りにならない。

彼の吹けるのは、スイングジャズの、しかもメロディの簡単な曲ぐらいしかないのだ。
ちょっと難しい曲に挑戦しようとしても、専務の「これは難しいから吹けないなあ」という一言で、たいていはオジャン。
デイヴ・ブルーベックの「テイク・ファイヴ」のリフすら、満足に吹けないのである。
なんとも情けない。

しかも、専務はディレクター役を、ピアノのひとにまったくまかせっぱなし。
なぜなら、自分のプレイで手一杯状態だから。
まったくテメーの道楽のために始めたバンドなんだから、そのくらい自分でキチンとやったらどうなんだ!という感じだった。

自分のパートのことだけでアップアップ、的確なディレクションもできず。
そのくせ、ひとのプレイには適当な印象論で文句をいう。
もう、最低。

なんだかやっていくうちになさけなくなってきたが、とりあえず、発表の場があるというので、何回か練習をして、一回相乗りのライヴに登場した。
出来映え初お目見えということもあって、ひどいものだったが。

それはまあいい。
そのライヴ以後、どうも専務はあまり自分からバンドをやろうといわなくなった。

そしてしばらくすると、どうも彼は「このメンツじゃだめ」と考えているらしいことが、それとなく伝わってきた。

アホか!テメー!!

ま、こちらとしても彼とお付き合いするのは願い下げではあったがね。

彼によらず、管楽器、特に主旋律を吹く管楽器をやるひとは、

「他のメンバーは、俺を伴奏するために存在している」

なんて考えている「自己チュー」な人間が多い。

それでも、本当にうまけりゃ、すべて許されるだろうが。

下手なくせに平気でひとをかき集め、うまくいかなけりゃ他人のせいにするようなヤツに付き合うことくらい、バカバカしいことはない。

そういうひとに、最初は親切心を持って対し、ひどく裏切られた経験って、貴方もありませんか?








...








 

 

 

 

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