あなたが今日という一日を振り返り、やり直したいことを思いつかなかったのなら。 あなたが生きてきた時間を振り返り、何一つ失敗という失敗を思いつかなかったのなら。 あなたにこの話は必要ない。
これは、後悔する生き物のために遺された、何かなのだろう。
1997年5月1日 14時
穂島(ホジマ)と書かれたネームプレートを乱暴に白衣からはずすと、ゴミ箱に叩きつけて男は外へと出て行った。 例年よりも暑い一日になるだろうと、今朝のニュースで言っていた。確かに建物を出た瞬間に感じた風は、生暖かくて湿気を帯びている。 穂島は歩きながら白衣を脱ぎ、バイクの座面下へと押し込む。代わりに取り出されたフルフェイスのヘルメットをかぶり、慣れた様子でまたがってエンジンをかける。 「そんな残酷なことを選ばせるのか。それとも、何も知らせずに送り込むのか。どちらにしろ」 穂島は最後の言葉を飲み込んで、バイクを滑らせた。 何を言っても変わらない。 世界を変えられると思っていた小さな子供の頃とは違う。 ひとつだけ、決定に逆らうことが出来るとすれば、それは最愛の息子を手にかけるくらいだ。 「どんな形にしろ、生きていて欲しいと願うのも」 エゴだ。と、また、声を飲み込んだ。 偽善でも良い。口に出したくないほどには、良心が残っていたのだと思いたかった。
1997年5月1日 18時
クリームイエローの外壁に、埋め込んである小さなライトに明かりが灯った。まだ辺りは夜とはいえないくらいには明るいが、薄暮の中の家明かりというのも良いものだ。特に、自分達のように血のつながりの無い家族ならなおさら。 ライトは北斗七星を模した配置になっており、道行く人の目を楽しませることもある。 瞬(シュン)はそんなライトを見て、足を速めた。 「今日は遅くなるって言ってたのに」 母の再婚相手である父は、亡くなった母も勤務していた保育所に勤めている。母とも自分とも15ずつ年の離れた男が、父になったのは半年前。急な事故で母が亡くなったのはその3ヵ月後だった。 母の葬儀が終わり、骨になった姿を見たときだけ、二人で泣いた。 それから、本当の家族になった気がする。 「ただいま、優(スグル)さん」 「ああ、お帰り」 ひよこ柄のエプロンが似合う30代というのも珍しいが、それは「保育士」のプロ。見事に着こなし、お玉を持ってリビングから顔を出す。 「って……どうしたの?それ?」 優の額には、大きなガーゼが貼られていた。 「ちょっと帰りにひっくり返っちゃって……近くの診療所に寄ったら、大げさに」 眉尻を下げて曖昧に笑みを浮かべる父と対照的に、瞬の眉はつりあがった。 「バイクは危ないって……そう言って俺には免許取らせないくせに。なに転んでんだよ」 「ごめんよ。そんなに……本当に反省してる。ごめん」 優の声が少し低くなったのに気がついた。 涙が出そうだった。 「着替えてくる」 乱暴に階段を駆け上がり、部屋のドアを閉めてからベッドに突っ伏した。
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