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インターネットの世界を浮遊していると、様々な個性に出会う。 私の通う多くは、日常の断片を切り取ったような素朴なものがほとんどだ。それは決して完成度で言えばまだまだ未完成なんだろうけれど、際立った創作性や思想に出会って目を見張る場面 はしょっちゅうだ。
でも時々、文章のそれらに少しの消化不良をおこして満たされない感覚が残って立ち止まってしまうのも事実。 日本語の読み書きができる人間ならば誰しも文章は書ける。言い回しや使い方の妙で個性は如実に現れる。 でも私がどうしてもこだわってしまう胸にかかるもやは、やはり小説という形を追い求めているからなんだろう。 表現の極みがそこにあると思えてならない。
創作の世界はフィクションであり作り物の世界だと思う人は多い。 けれど作家が魂をかけて書いたと感じられる作品に出会った時、私はそれを芸術の最高峰だと思って疑わずにいる。 例をあげれば、宇野千代氏の「おはん」にも、宮尾登美子氏の「蔵」にも、村上春樹氏の「ノルウェーの森」にも、その文章から発せられた閃光はきらびやかに輝いて人の心を奪わずにはいられない力に満ちていた。 それは情景描写が魔法のように巧みで、繊細な心情描写の為せる小説の世界だから実現されたのだろう。 訴えかけてくる壮大な絵を見て鳥肌がたってしまったり、迫ってくる音楽の波動に押されて涙が流れてしまったりする力と同じ威力が、文章の芸術、小説にはある。 色彩が鮮やかに浮かぶ文章、音がざわめきだす文章、景色が脳の中に鮮明に描かれる文章。それらは多彩 な彩色で描かれた絵画での再現のように、幾種類もの音が合わさった多重層の音楽のボリュームのように、雄弁に心に焼き付かせることができる。
誰もが気軽に手掛けられるインターネットに浮かぶ文章を読んで、それが表現として劣っているというのとは意味が違うのだけど、文字の羅列に魂を削る技が見たくて、私はつい欲をかいてしまうのだ。 そしてそんな私自身が、今、魂を削る技は生まれず満たされていないことが歯がゆい。
私の下に、神様はまだ降りてこない。
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フィル/ フロム・ジ・イノセント・ラブレター
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