窓のそと(Diary by 久野那美)
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2014年09月28日(日) |
カラスが飛び込んできた日のこと〜缶の階WSの前の話〜 |
缶の階WSの前、会場に1時間早く入った私たちは打ち合わせをかねた雑談をしていた。 どういう流れからだったか、表題の話になった。 「日常の中の劇的な一瞬を切り取って描くのが演劇だ」という話。 K君が、以前本で読んだエピソードについて話してくれた。
小学校の教室を舞台にするとする。 1年365日のうちの大半は、何気なく過ぎていく日常だ。 でも、たとえば、授業中に窓からカラスが飛び込んできた日が一日、あったとする。その一日はクラスにとって劇的な一日だったはず。普段とは違う顔を見せる子がいたり、普段の教室ではおこらなかったできごとが起こったり、普段なら言わないような言葉を交わす子同士がいたり…。それはたしかにそのクラスが内包している物語なのだけど、普段の生活の中では見過ごされてしまうかすかなものが劇的な一瞬を切り取ることで形になって現れる。
演劇とはそういうもの。どの一瞬を切り取るかが作り手の腕なのだ。
というような感じの話。
「久野さんはそうじゃないんですか?」と聞かれて、戸惑った。
そのことに対して特に否定的な考えを持ってるわけじゃない。言ってることもわかるし、そうやって作ったものを批判するつもりもない。でも、なんだか私は腑に落ちない…。なんでだろう。
もし、教室にカラスが飛び込んできた日を題材にして演劇作品を創るのなら、わたしだったらどうするか…。
「私は、たぶん…その日の出来事をセリフや物語にして演劇作品にすることは、しないような気がする…。」
というとK君が、 「あ、カラスが飛び込んできた日の前を描いて、そして、その日は飛ばしてその後のクラスの様子を描くやり方ですね。チェーホフ的とか言われてるやつですか?」
チェーホフ…。
チェーホフさんのことはよく知らないのでそこについて何もコメントできないのが情けないのだけど、いや、そうじゃなくて、そういうことではなくて…
私が<それ>を創るのだったら、たぶん、そんな劇的な瞬間を思い返す誰かの物語にするだろうと思った。
ある日、ふとその日の(カラスが教室に飛び込んできた日の)ことを当時のクラスメイトの前で話題にする。卒業する時かもしれないし、卒業して何年もたったある日のことかもしれない。 あの日は楽しかったね。こんなことやこんなことがあったね。もし、あんなことがなければ〇〇さんとは友達になってなかったかもしれないね。
でも、思ってたような反応は誰からも帰ってこない。 他の誰もそのことを覚えていない。 そんな出来事はなかったという。飛び込んできたのは猫だったじゃないかという人もいる。当の〇〇さんも、自分たちは前の学年のときから仲良くしてたじゃないの、という。目の前に鮮やかによみがえる記憶を誰とも共有できずに戸惑う。
それだけじゃない。そこから始まったはずのあれこれがどれもほんとうはそこから始まったのではなかったとしたら、自分を構成している何もかもが根拠を失うような気がする。ひいては今自分が立っているこの場所、これから向かっていこうとしている先のことさえも後ろ盾をなくして宙に浮く。
もはや、実際にカラスが飛び込んできたのだったかどうかは知るすべがないし、そのこと自体はどうでもいいような気がする。自分はおそらく、たくさんの劇的な瞬間を経て生きてきたのだろう。そして、その劇的な瞬間の劇的さは、とても個人的なもので、自分以外の誰にとっても意味のない劇的さで、けれど自分はけっしてそう思わなかったからこそ、自分にとって劇的な瞬間でありえなのだろう。ということに思いを馳せて窓の外を見る。
Hさんが、「つまり、<劇的な一日>と規定されたところから始めるのでは違う気がする、ということですか?」と言った。
そうかもしれない。 私が描きたいのは、たぶん、たしかにそこにあったものではなく、 あったのかもしれないけどなかったのかもしれない何かなのだと思う。
それが一般に演劇的な考え方なのかどうかわからない。 違うのかもしれない。 わたしにとっての「劇」は、日常を淡く描くことでも<劇的>な一日を切り取ることでもなく、強いていうなら、あるような気がする何かを求めてひとりで彷徨い歩くようなことなのかもしれない。彷徨い歩いて探さないと(探したとしても)どこにあるのかわからない、そもそもあるのかどうかもわからないような、何か。
カラスのことを考えながらぼんやりしていると、そおっとドアが開いて、一人目の参加者の方が入ってこられた。
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