パラダイムチェンジ

2006年11月05日(日) 「死にたい」とつぶやく衝動

のっけから変な話をして申し訳ないのだが、私は時々、唐突に
「死にたい」と独り言をつぶやく癖がある。
そうつぶやいている時の私は、ひどい鬱状態に襲われている訳では
ないが、テンションは下がり気味で、割と真面目?にどのように
死ぬのが一番人に迷惑をかけないか、という事を考えたりしている。

だからといって、多分、本気で死のうとは思っていない事も、心の
どこかではわかっていて。
もしも、何かのタイミングが合った拍子に死んでしまうことはある
のかもしれないけれど、「死にたい」とつぶやいている時の私は、
同時に「死にたくない」とも思っているのだと思うのだ。

それは多分、「死にたい」んじゃなくて、そう思っている自分が、
「生きている実感」に乏しいときなんじゃないのかな、と最近思って
きて。
つまり、「生きてない」気がするから思わず「死にたい」を衝動的に
つぶやいているのかもしれない。

で、じゃあ「生きている実感」ってどんな事なんだろう、とも思うの
である。
それって多分、感動すること、心が動かされる事なんじゃないのか
な。
つまり、心が動かされる事が多い人は、自分が生きている、という
実感は無かったとしても、少なくとも「生きてない」と思うことは
少ないんじゃないかな。

で、感動することっていうのは、たとえば、泣ける映画を見に行く
事とは、ちょっと違うと思うのである。
本当に心を動かされるっていうのは、例えば、普段見過ごしていた
風景の中で、自分が澄み切った青空に包まれていると思った瞬間で
あるとか、今までできないと思っていたことが、何かの拍子にふっと
できたりする瞬間であるとか、そんな些細な自分の日常の生活の中で
何かを発見することのような気がするのである。

で、そういうのって、最近TVでもよく見かける脳科学者の茂木健一郎
の提唱している、「クオリア」とも関係しているような気がするのだ。
「クオリア」について、簡潔に説明する能力はないんだけど、人間の
脳の中には、そういう「クオリア」という質感を取り扱う領域があって
例えば、美しさであるとか、そういう感覚は、クオリアによって
起こされるらしい。

でね、大切なのは、そういう些細な事の発見をするのは、その人本人
だということの様な気がするのである。
つまり、何かそういう発見をして、心を動かされたり、感動した人
っていうのは、その直前とは、質的に変化している、という事でも
あり。

で、あるならば、身の回りにある世界の中で、いいなあ、と思う事、
自分が行動したことについて、よかったなあ、と思えることを積み
重ねていけばいくほど、その人は質的にいい方に変化していく、と
いえるんじゃないのかな。

で、重ね重ねいえば、それは何も特別な事じゃなくて、身近な物事
から、そういうものを発見できるセンスを磨けば磨くほど、多分、
感動ってしやすくなるんだと思うのだ。

で、そうなっていけば、自分が「生きてない」と思うこと自体が少なく
なっていくと思うのだ。
というより、事実、私自身が最近「死にたい」とつぶやくことが少なく
なって来ているのを実感しているのである。

例えば、自殺はいけない、と言うことは簡単だと思う。
でも、個人的に重要なのは、自殺に向かう人の、死ねば楽になる
という所で固定してしまっている心に、様々なことに心を動かし
感動できる余裕を持たせるだけの、きっかけを作る事なんじゃない
のかな。

だって、例えばあなたの網膜に映った景色の美しさは、あなただけの
物なのだから。

うまくまとめられなかったので、この辺で。


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harry [MAIL] [HOMEPAGE]

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