レプリカントな日々。

2002年12月24日(火) クリスマスイブだそうで。


 クリスマスイブだそうですけど、四日間遊びたおしたツケの洗濯やら掃除やらに追われているオヤジです。
 何故か今年は頂き物が多くて、山のような食べ物を前に途方にくれております。
 取りあえずナマモノを集中的に完食する方向で、ついで冷凍出来るものは冷凍して新年の友人たちとの宴会に供出する方向でなんとか冷蔵庫に全てを収容しました。
 ケーキを毎日2コも食べるのは結構辛いです。

 ということでクリスマスイブの夜、一体いつから日本でクリスマスを祝うようになったのか、などというテーマはやめて、少しだけ宗教と恋愛を考えてみたりなんかしたりして。

 小田茜ちゃん演じる女性と禅宗(臨済のはずなのに面壁してないのは何故?)の僧侶との純愛を描いている昼ドラの「ピュア・ラブ」では、「年に一度イルカを見に行く」という七夕のような「約束」をして、茜ちゃんは納得をします。
 「年に一度イルカを見に行けるだけで一生生きていける」と。
 陽春さんは「私は僧侶でなくなったら私でなくなる」と、そんな中途半端な折衷案で茜ちゃんの一生を縛ることに罪悪感を感じてしまいます。
 「ふさわしい人と幸せな結婚をして欲しい」とは言うのですが・・・。
 しかし、あのデリカシーの無い医者はなんとかならんものですか・・・俗世の、もう少しお茶の間の主婦に受けそうなロマンチックな設定は出来なかったものなんでしょうか。
 あれでは誰でも陽春さんを応援したくなっちゃいます。

 僧侶であるということ、悟りを目指して座り続けることが彼にとってのアイデンティティであるなら、やはり結婚は難しいのかもしれませんね。
 そんな男に惚れた茜ちゃんはどうすればいいのか・・・。
 この問題は答えなど出ないものですが、ふと、キリスト教でいう「世俗内禁欲」という言葉を思い出しました。
 パン屋はパン屋として仕事に一生懸命精を出すことが、靴屋は靴屋として一生懸命仕事に精を出すことがキリストの教えに叶っているという考え方ですね。
 いわゆるプロテスタントというやつです。

 茜ちゃんに欲情することが「業」だというなら。
 経済的に「あなたを幸せに出来ない、あなたの稼ぎで暮らせない」というなら。
 それも叉俗世の物の考え方なのではないかと、ふと思ったりもして。
 一番の疑問は「体を維持する最低限の食事をして」修行に励むというものです。
 私も永平寺には「体験コース」で行きました。
 あの暮らしでは・・・そりゃあ欲望など消えるでしょう。
 当たり前のことです。
 簡単な話、クスリでも打てばあの境地?には簡単に至れるわけです。

 ならば。
 奇麗なお姉さんの美しい足を見ながら、ご馳走の並ぶテーブルを見ながら当たり前の暮らしをする人間の方が、より一層禁欲的ではないんですかね?
 わざわざ山奥に隠れて人様の銭で質素な飯を食うなどという卑怯なマネをせず、堂々と「働いて飯を食い」ピューリタンのいう「清貧」「貞潔」(あう、あと一個忘れた)といった強い道徳心を持って生きればよいのではないかと。

 そう、これは私の一方的なかつ個人的な自己満足でしかない価値観ですね。
 でも、彼らの生き様もまた一方的かつ個人的な自己満足でしかないと感じます。
 いや、仏の道はそんな理屈など越えた所にあるらしいですが・・・。

 明日は大阪オフレポを書いちゃいます。


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