お笑い芸人の島田紳助氏が突然引退してまだそれほど日がたっていない。が、あれほどテレビを賑わしていた彼の姿が消えるやいなや、「テレビ」は急速に彼の記憶を消し、何事もなかったかのように振る舞っているようにみえる。
彼が引退の理由としていた「暴力団との関係」には全く興味がなかったのと、彼の番組を最近、全然見ていないのでとりたてて思うところはなかった。
「最近、全然見ていない」とはいえ「ヘキサゴン」の初期は見たことがある。また、いわゆる「おバカブーム」を作りだしたことぐらいは知っていた。それでもただそれだけのことだと思っていた。くだらないと思っていたし、違和感も感じた。だから見なかった。
しかし彼が本を何冊も出していたことは知らなかった。
京都新聞9月20日朝刊の「視点」というコラムに「島田紳助と現代の空気」と題して北海道大学准教授の中島岳志氏の文章が掲載され、ぼくはそのことを読んで初めて知ったのだった。 そして内容を知って驚いた。
ぼくが島田紳助という人物に違和感を感じたのは彼の著作に現れた「思想」故だなと裏打ちされたように思えたからだ。
どんな「思想」か。 中島氏は島田紳助氏の本を読み込んで、彼の「思想」のアウトラインを描きだしてくれている。(以下「 」は中島氏の記事からの引用。中島氏は「 」の言葉の多くを紳助氏の本から引用している)
簡単にぼくなりの言葉で言えば、自己愛に基づく共同幻想だ。 彼は「心と心でつながる透明な共同体」を指向する。それには「島田紳助が大好きであること」という前提条件がある。 (ここでまず絶句。幼稚園の仲良しグループの話ではないのだ。) とまれ、その意識のもと「知識はないけれど心が純粋で情熱的」なファミリーが形成されていったのだ。
一方、価値観を相容れない人間に対しては冷徹で厳しい態度を貫く。 「ほとんどの人間は別にいなくてもいい人間です」 「私の人格は、相手によって決めることにしています」 という言葉のように、価値観を共有しない人間を徹底して排除する。
そしてまた島田紳助氏は徹底して「勝ち組」を標榜する。とにかく勝つことにこだわる。その勝つことも「先天的に決定されている」というのが彼の思想だ。前世に規定されている、というのだ。
まあ思うのも考えるのも自由だけれど、ぼくには違和感だけが残る。
中島氏は次のように問いかける。
…島田氏が抱きしめる自己中心的な「感動の共同体」よりも、異なる他者を包摂する「開かれた共同体」こそが現代に必要なコミュニティーではないか。…
この問いかけにぼくは「是」と答える。 なぜか。なぜ「紳助的」なものがダメなのか。ぼくが思うにそれは結局硬直して滅びるからだ。中心の生死が周縁を引きずりこみ、一緒くたにつぶれていく。「裸の王様」の周りには未来はない。そう未来がない。
はたして現在、社会のなかで上記のような「紳助的」なるものがもてはやされているのだろうか。 そのことははっきりとはわからない。 しかしそういう「身ぶり」をしている人たちがいる。それはわかる。 原発事故周辺や地方自治周辺や新興宗教周辺やそれこそ町内会にも。
思うに、世界史が教訓として、また様々な世界の文学が「考えることをやめたらそれまで」と教えてはいないだろうか。 考えるべきは「紳助的」なものからの逸脱だと思えるのだが。 そして「開かれた共同体」を担えるほど、私たちはしなやかでタフであるのか。そのことも同時に。
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