2012年06月18日(月) |
雨/バングラデシュ/コーマック・マッカーシー |
昨日、BSの再放送で地球アゴラをみました。テーマは「雨」。世界一雨の降るインドの某所、ハワイの原生林、バングラデシュを結んでの放送でした。 興味深かったのはバングラデシュ。
この国の書店で文芸といえばほとんどが詩なのだということ。書架にはずらりと詩集が並び、詩の市民サークルも数多くあるとのことでした。
そもそも近代小説というスタイルは近代ヨーロッパそしてアメリカの産物であり、日本や中国にも古典はあるものの、いわゆる「国民文学」として成立するのは近世以降となります。 たぶんバングラデシュは様々な理由から欧米の文芸的影響が少なく、「国民文学」は詩であり続けているのでしょう。
詩は道ばたで朗唱でき、地面に書くこともできます。歌であり嘆きでもあり歓喜でもあります。生活にぴたりと寄り添った形で発展してきたのではないでしょうか。
番組で市民サークルの一詩人が「雨」をテーマに自作を朗読したのですが、その日本語訳を聞いていて、なんと瑞々しく鮮やかな官能だろう、と感心したのでした。
個人的には「雨」は濃い緑を連想させ、空気の汚れを洗い落とし色彩を鮮やかに映えさせるもの。植物の生命力を強く感じさせるものとしてありました。 雨=官能というかたちは自分の背後を突かれた気がしてぎくり、としたのです。 つまり雨は自由。それを思い出したような。
そのような雨を今まで読んだ作品から思い起こすとデュラスの雨がいちばん印象的です。仏領インドシナの雨。街路の雨と暗い室内で濡れた二人の身体がシンクロしたときの自由。 もうひとつは大江健三郎さんの「雨の木」。舞台はハワイ。母性の象徴のようにいつも濡れている木。
そう。デュラスでもそう。いつでも濡れているありよう。
しかしテレビで朗読されたバングラデシュの詩はそれらよりももっと慎ましく、もっと輝いていてもっとなまめかしく、もっと自由に聞こえてきたのでした。 すばらしかった。
ところで併読中の本だけれど、このなかでもっとも詩を感じさせるのはコーマック・マッカーシー。とこを切り取ってもそこから叙事詩が始まっていくような文章に思えます。 悪いけれど他とは別格です。
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