独白2
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ホントに久し振りな感じがして何とも言えません。 つーか実際久し振りなんだけど。 なんか最近頭がおかしくて…。いや、頭がおかしいのはいつものことなんですけどね。 今週はいろんなことがありました。つーか週末。 頭がいっぱいになるくらい膨大な量の情報というかが入ってきてパンクしそうでした。つーかしてたのかな? 周りに迷惑掛けすぎです。せっかく新しい友達も出来たのにね。ああ。もったいない。失礼なことしてきらわれてなきゃいいけど。
楽しいことがいっぱいあって、会いたい人にもあえて、未来を期待できるモノを見に行ってきて。 しあわせいっぱいのはずなのになんでかこんなに気が重い。 これってさー。Mですね。
つーことで久し振りの本日のお題は『しあわせの絶頂に死』です。
気取った題材だ。 しばらく書いてなかったらどんな風に書いてたかわからなくなっちゃったよ。
東京いって、行ってる間中もうこのまま新潟帰らないでフッっといなくなりたいという願望にかられた。 基本的にマゾ体質の私は自分でもどこかおかしいんじゃないかってくらい不幸に酔いたがる。 コレは本当に不幸になりたいわけじゃないんだよね。まったく。大半の人間もそうなのかもしれないけど。 コレに逃げることはとても楽だ。 でもこれはしあわせになりたがってることを如実に表してるんだよね。 なったらなったでいやなくせに。 だってしあわせになっちゃったら後はもう坂を転げるように下るだけでしょ。 これ以上のしあわせは期待できない。 人間は欲張りな生き物だから「これで十分」なんてモノは本当は無いわけだ。 だからがんばって自分の不幸自慢をして、自分で不幸なことを見つけてそれに浸る。 「私にはもっと『しあわせ』があっていいはずだ」 ホンットに滑稽。バカらしいことこの上ない。でもこれは大半の人間がやっていて、例に漏れず私もやっていることだ。 不幸の程度は人によってまちまちだけど、大した不幸でないくせに、さも大袈裟に周りに出している人間ほど滑稽だ。
私は今回東京にいって、カカサスオンリーに行って、とっても仲良くしてもらってる住葉さんと会えたり、ネットで知り合ったキルメニイさんと会ったり、板尾さんとの誤解もとけて、飴リンゴのお二人ともお話できて、将来明るい道に繋がる建物も見てきた。
なんかね、もう不幸なところ見つからなかったよ。 住葉さんところに泊めてもらって、久し振り(といっても1ヶ月だ!)に話せたりして、「むしろ私いいのかな?こんななのに。」 と思うぐらい。気が引けるくらい。 そんなことやってたら不幸なところいちいち探してるのがホントにバカらしくなった。 本当は私は人よりもやる気が無いから、一生懸命生きてる人に申し訳ない(そう思うことすら傲慢な)くらい不幸に触れていない。 努力もしてないのにしあわせを願って、不幸なんて無いのにあら探しをする。
しあわせだなあと思って、次の瞬間に思ったこと。
このまましあわせだと思えて、些細で滑稽な不幸探しをしないですむのならこのまま消えたいくらいだった。
そして私は今新潟に帰ってきて、本をよんで、学校にいかないで、不幸を探してる。 結局私は欲張りで、傲慢で、自分の今後に多大な期待を寄せた潔くない人間だった。
綺麗にありたいとは思わない。けど、潔くありたい。
行動にはまだ出せるほど人間が出来ていないけど、せめて言葉だけでも示したおきたいと思いました。
なんだか本当に要領を得ない文です。結局何が言いたいのかまったく判らないし。 いつもこんなになっちゃうよ。 あー。ここの日記はいつも根暗なことばかりだねえ。 つーか体のいい逃げ道だよ…
更新出来ました。 heisiさんの「鏡」です。私が寝ている間に送ってくださいました。 ありがたいね。せかしたのに。私がライセンスとるからって。 彼女もほしがっていたライセンス。私は将来もくそもないので取りに行きます。 彼女は将来有望なので取りに行きません。 でもサイトのためにきちんと文を書いてくれます。 私がつくりたいと我が儘いったのに。長年の付き合いだからもう熟年夫婦のようなんで恥ずかしい言葉は言えないけど感謝してます。
さて、今日はなんというか朝から昨日の日記を見てしまった友人Y(朝に書いたのに凄い子だ)は気分が優れなくなってしまわれたよう。 昨日の日記読んで気分悪くなった人すみません。
私は人一倍言い訳が多いんです。しかも自分で言い訳だと判っていて言う。 言い訳をしなければいけない行いをして、それについて言い訳をして、更に言い訳の言い訳をする感じ。 無限に広がる言い訳の輪。 それは言い訳の時もあるし、理由付けの時もあるけど、基本的にはものすごく理屈屋なんですね。 感覚の中では別に気にしないけど、いざ、言葉に出したときには理屈にあってなくちゃいやらしい。 『千と千尋の神隠し』で、「愛だよ愛!」みたいなこと作品のなかで言われていたけど、考え出すと、なんで千が白のためにそこまでするのか、それは愛なんて言葉で片づけていいのか、そもそも愛って? ぐらいまで考えて、理由を付けたがります。 自信がないんですよ。要は。
『嫌いになること』で私は人に対する感情は好きかどうでもいいといいました。 でも、人に言わせると私のある種の「どうでもいい」は他のひとの「嫌い」になるのだそうです。 それでも私が「嫌い」ということが出来ないのは、 相手を否定することで、自分も否定される。 相手のすべてを否定する時に生まれる責任感のようなモノが怖い。 そういうことなんだと思います。 自分はやっぱり弱く、自分勝手です。
そして、もう1つ私が「嫌い」といえない理由は、そのある種の「どうでもいい」人に会った時、私はきちんと笑えてるんです。 わざとでなくて。 きちんと笑って、話すことができて、普通に「じゃあまたね」って言えるんです。 そういう風に出来る相手を、「嫌い」っていうんですか? 私にはわかりません。
本当に言い訳の多いことこの上ないのですが、本当は私は潔くありたいのです。 あがくのがカッコ悪いといいたいのではなくて、潔くありたい。 今日、学校の友達に(あまり親しくない)「カイヅさんは強いね」といわれました。 そんなことはありません。 でも、誰もが認めたがらないことを、私は潔く認めることができる人間になりたいんです。 自虐的にならないで。
今日の日記は補足のような感じになってしまいました。 ここはどんどん自分の王様の耳〜な感じになりつつあります。 本当に独白なんですよ。だから身内には見てもらいたくないんです。 心配されたいから書いてるんじゃないんです。なぐさめて欲しいから、私の浅はかさを否定して欲しいからじゃないんだって。そんなときは自分で言うから。
「ああ。こういう人なんだなあ」と普通に受け止めてもらえれば嬉しいんです。
今日帰り道遊んでみたりして色塗ってません。 バカですよ。つーかまたしてもほとんど寝ないで学校ですね。もー…頭悪いんですが。でも自分のせいなんですが。 時計の針が●回まわってた? そんなこと知りません。気付かなかったんだもの。 知らなかったんだから仕方がないでしょ。 みんなと遊びたかったんだし仕方ないでしょ。
そんなことでは許されないこともあるのです。
と、言うことで本日は「知らなかったでは許されない」ですよ。
あああ。でも書けるのかな?あと一時間で学校行く準備だ。つーか昨日も書かなかったからさー。 昨日は寝てたんだけど。 まあいい。がんばる。日本語おかしくても(いつもだけど)許してくれるといいな。
今日私は相変わらず鈍感で、言わなくても良いことを言いました。 それは「知らなかったから仕方ない」とは言いたくない。 実際知らなかったんだけど。 知らないからといって許されるわけではないこともあるんですよ。 それは自分が「許せない」のが大半ですが。たいていの人は「この子は知らないんだから仕方ない」で許してくれるんです。 でも、完璧には許せていないのが普通で、「知らないのは判ってるけど許せない」って気持ちがあるはずなんです。 私の今日の発言は正にそれ。 好きな人にはそんな些細なことでも「この子悟れないのかな」とかおもわれたくないんだよ。 私は究極の我が儘女だから。 知らなかったからっていってその人の言いたくないことにつっこんだり、痛いとこつくのはダメなんだよね。 つーか自分勝手に後悔してるだけなんだけど。 ただ単に自分が勝手に「言い訳」したくないんだけど。 「知らなかったんだもん!」って。 むしろこれが言い訳なんだろうけど。バカだよね。 要するに救いをもとめてるっってゆーか、誰かに 「あんたさー、最低だよ。そうゆうこというなよ」 って言ってもらえれば私には救いなんです。そしてこれを言うのが本人だったならば本当に救いなんですよ。 安易な考えに逃げてる私。だけど、好きな人相手だけに言って欲しくないこと、つっこまれたくないことは「聞かないで」とか「アンタのそういうところ嫌い」とか言って欲しい。 かなりの我が儘で、相手がそれを言うのがつらいことなんか考えてないけど。
悟れ、気付け、心配してよ。
それを全面に出してる人には頭をつかって何を望んでるかなんか考えたくないの。私は。傲慢でしょ。それは。 そんなのにね、付き合いきれないよ。 言わなきゃ判らないことなんかいっぱいあるのに、自分から言わないで、聞かないで、「そんなの知らなかったから」って言い訳してるのはずるい。 自分の見たいこと聞きたいことだけを見たがるのは人間として仕方ないんだと思うけどね、私だってそうだし。 だからといってそれが通用しないこともあるんだよ。
そんな人たちはいいんだよ でもね、気付いて欲しくないから私に何も言わなかった人なのに、それを考えずにつっこんだ話をするのはバカだ。考えなしだよ。 知らなかったからではすまないの。だって実際相手は気分悪くなってるんだしね。 それを私は「知らない」からって無理矢理相手に流さしているのがせつない。 かなりの個人的意見なんだけど。つーか自分が悪いのに自分勝手だ。 自分の気分が悪くなるからってね。
無知の知。 確かにそうだ。知らないことを知っているというのは凄いことだ。 私がもっと知らないことを知っていれば良かったんだよね。 本当に。誰に謝ればいいのか自分に怒ればいいのか。 どっちも無駄だよね。 そうやって自分はあくまで自分のために生きていることを実感しました。
いつものことだけど、私の話はものすごく極端です。偏屈だから。実際相手はなんて思ったか判らないけど、私だったらそうって話。 そして相変わらずわけのわからない話です。 日々私は後悔ばかりの毎日。そんで誰よりも言い訳が多いから誰よりもそれを少なくする努力が必要なんです。
題名内容にまったく関係ありません。 だから題名って何書けばいいのかさっぱりなんだってば。 さて、今日はホントにいい日ですね!! あー恋の上級ライセンス取得出来そうですよ。ホント嬉しいです。 てか、オンラインの方いっぱいいかれるみたいなんで会ってみたい人とか見てみたい(正直に好奇心)人とかいっぱいなわけですよ。 そして私信だけどあなたに会いに行きますよ!!
でもまあ人生というのはいいことばかりではないものです。 今日(やっぱり日付の上では昨日)は朝っぱらから校長の話ですから。 私は彼の話が聞くのはそれほど苦になりませんが(半分寝てるから)、「嫌い」です。
つーことで本日のお題は昨日に続く形で『嫌いになること』です。
嫌いになるのは難しい。 好きになるのと同じで、嫌いになり続けるのは難しいものです。 てゆーか、疲れるでしょ。嫌いになり続けるのって。 好きになり続けるのと違って楽しくないし。 私はなんだかんだ言って嫌いな人ってのはあんまりいないんですよ。 苦手な人=嫌いな人になるならそれなりにいるけどね。 部分的に嫌いな所のある人はいます。 つーかいないのはおかしいって。
私は今日校長の話を聞いていました。 彼はとっても不思議な人で(私にはとてつもなく不思議で仕方ない)校長なのに話が薄っぺらい気がします。 なんでそんなこと言えるのかなーとか思ったりするわけ。 今日の彼の話は、 「先日、ある先生が生徒に何故勉強するのかと聞かれて、咄嗟に答えられなかったそうです。(中略) 二宮金次郎の銅像があるように、昔は勉強したくてもできなかった。しかし、昔の人はそれでも向上心がありました。働きながら勉強したのです。 夏目漱石の『こころ』でも言われている『向上心のないヤツはバカだ』というのはつまり、『向上心のないヤツは人間ではない』ということです。 私の答えを言わせてもらうと、人間は生まれ持っての向上心があります。だから勉強するのです。」
私流にかなり省いて、極端に言ったかもしれませんがこんな感じのことを言っていました。 どうですかね。 私はそれまでも彼の話をよく聞いています。てか、文句をいったり、けちを付けたりして聞いてるわけですが、結果的に彼の考えは私に合わない、だから私は彼の話は「嫌い」になりました。
でも嫌いになるのは疲れることです。いちいち嫌悪感を抱いたり、相手の言葉にいちいち反応したり。 「嫌いになる」ということは「好きになる」ということとほとんど大差ないのかもしれません。 相手のことを考えたりするわけですから。 だから私は、嫌いと言う時は、その人のことをきちんと判ってから言いたい。 だってどうせ相手のことを考えるのなら疲れない方がいいでしょ。 それで好きになるかもしれないし、新しいことがわかったら見方も変わるかもしれない。 てかなんにも知らない癖に好きという資格があるのか?と同じようになんにも知らないのに嫌いという資格はあるのかってかんじ。
究極の理想論だけどね。本当に。気持ち悪いくらい。
私は本当のところ自分の感情は「好き」か「どうでもいい」になるんですよね。 むしろ心の底から嫌いってモノや人に出会ってみたいくらい。 「嫌い」と「どうでもいい」ならさ、嫌いのほうがいいと思うんだけどねぇ。
ああ、でも私はものすごくやきもち焼きなんで、「ジェラっちゃうよ!!」とかいって嫌いと言うときはあります。相手のこと知らないくせに。 良くないことです。後から実は全然普通の人だったってことありましたから。
理想ばかりを追いかけても仕方ないと思いつつ、日々向上したいと思う。 何も勉強だけじゃないと思うんだけどね。
今日の日記はホントにホントに内容薄いくせに長くなっちゃったよ。 もっと考えてから文にしろって感じだ。やっぱ湯船に浸かって考えるといいんですかね。日本語って、考えるのって難しい。 いつもにまして薄っぺらくて長い文、読んでくださった方に多大な感謝です。
なんだか久しぶりな気がするのですが実際はそんなに久しぶりじゃないんですよねー。てゆーか今まで二つも日記書いててお前気持ち悪いよって話なんですが。
さて、テストも終わってやっとこここの日記かけますよ。書きたいことは結構あったんですけど、言葉にはしにくいことばかり。 私はよく湯船に浸かって考え事をします。 どうでもいいようなくだらないことばかりですが。 つーことで今日のお題は『考えること』です。
「コギト・エルゴ・スム」 よく使われる言葉です。私の好きな漫画家の榎本●リコさんも、一目惚れしてしまった都筑●雨さんもこのことについて書いてます。 私も人並みに「考える」ということを意識して。
いつも無意識にしていること。考えること。 大したことじゃなくても「考えること」によって私という人格が出来て、他にまったく同じ「考え」がないことにより「私」という存在が確立されるんだと思います。デカルトの言葉を私流に訳すと。 反コギトは私の中にはない。存在するから「考える」のではなく、「考える」から私という存在が認められるって訳。
でも「考える」ということは自分一人では出来ないんですよね。 自分がいて、他人がいて、そうして初めて「自分」「他人」を考えるわけです。 そうして「考える」ことにより、「私」の存在をより明確なものにしていくわけです。
今日(日付では昨日)私は仲の良いS籐さんと、heisiと一緒に買い物ついでにモスにてお茶をしていました。 その時S籐さん、heisiと 「●●さんが凄い勢いで上手くなるのはやっぱり賞賛が欲しいからだよね。」 という会話をしていました。 でも、その時私は(すでにこの話題をここに書くつもりだったのですが)ふと、自分もそうなのかな?と「考えて」みました。 確かに上手くなったらいろんな人に見てもらえるけど、見てもらってどうなの? 見てもらうことに何か意味があるのか。 確かに誉められたりするのは嬉しい。 それはなんでか。
それは「私」という存在が「考えた」結果、「マンガを書く、絵を描く」ということを選んで、それによって自分の「考え」を他人に認めてもらう、つまりは「自分の存在」を認めてもらいたいからなんだと思います。より多くの人に「自分の存在」を認めてもらいたいわけだ。 ということはカカサス書こうが太山空書こうがようは自分を切り売りしてるんだよね。 そして私がそうだってことは他人もそうであって、他人の「考え」に触れて感動したり、それについて「考え」たりすることによって「私」という存在が確立されるわけです。
要は他人があっての自分ってことなんだけど。 人によって表現方法は違うだろうけどね。
今日も私はいろんな人の日記や(好きな人のは毎日チェックしてるという変態ぶり。)考察、マンガなどを読んで、更にここで自分の「考え」を言葉にすることで「私」という存在を確認するわけです。
ありきたりな言葉になってしまったのは私の「考え」が薄っぺらく、まだまだ「考える」量が足りないからなんだと思います。
でも、日々私に「考える」機会をくれる住葉都さま、いつも身近にいて我が儘きいてくれるheisi、「考えた」ことを聞いてくれるS籐さん、他にもいっぱい「私」という存在を構成してくれる他人に、心からのお礼を言いたい。 滅多に言える機会ではないので。
他人がいるから「考える」。「考える」から存在する「私」。
理屈こきっぽいけどこれが私なんだよ。 なんて。そんな語れるほど自分のことでも解ってないけど。
ここの日記に書いてあることはあくまで私個人の意見ですから。 まだまだ未熟ものなんで理屈が通って無かったり偏屈っぽかったりしても笑ってくれたらいいなあ。 とゆーことで今日の日記も長いね。誰が読むんだろう。私か!?自己再確認。
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