独白2
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2001年10月20日(土) 昔日記

本日第3土曜日真っ昼間。今日は文化祭の代休ですよ。
先週私が無理矢理行かされたね…

昨日は住葉さんと電話してたんですが私が眠くてリタイア。
今日は早く起きれましたね!!とかいって9時間も寝てたんですが。まあ平日でも平気で9時間くらい寝る日もあるんでだから何だという感じですが。
平均3時間だったり8時間だったり週によって変わりますね。オタク。

話変わりますが今は平日の真っ昼間なため母が私の後ろをうろうろしっぱなしです。
別にいつもここには見られてまずいことは書いてないんで見られても良いんですが、見られてることを意識せずにはいられません。
私は普段は見られてることなんて意識せずに突飛な行動ばかりとっているんですがね。少しは意識しとけよって感じの。
「見ましたよ。」と言われて恥をかくまえにはじめから意識していましょう。

つーことで今日のお題は『見られることを意識する』です。

ここの日記は裏ってこともあるのかあまり見られてるってことを意識してなかったんですよ。私的に。
いっつも語り口調な変な文体は自分用の日記(小学生のときとか中学生の時とかの)でもそうだったんで、他人に向けたもんではなかったんですよ。
でも最近同じこと書いてばっかいるような気がして読み返してみたんですよね。

意識してんじゃん!!はは。笑えないけど笑っちゃう。
「誰も見てないだろうし。」
ってそれって見て欲しいってことでしょ。かなり意識してるよね。
書いてるときには気づかないもんなんだなあ。気づかないふりをしていただけかもしれないけど。
でもそれは誰かにむけて語りかけてるわけではなくて、誰かに見て欲しいんですよね。ただ単に。
それによって返事が返ってきたり、接触を試みてくれる人がいればそれは嬉しいけど、今まで私を知らなかった人が、私という存在を感知してくれればいいんです。
そういうものでしょ。
他人と一緒に生活するってさ。
自分が見てると同時に他人も自分を見てるんです。

私は普段いろんな人、ものを見て、いろんな感情を持って、見下したり、尊敬したり、感動したり、色々するわけです。
その時にいわゆる負の感情?
「嫌い」「気持ち悪い」「バカじゃないの」とか。
そういうのも持ったりするわけです。やっぱりね。
それは私にとって、私を構成するのに不可欠な要素になるんですが。
それを認めないで綺麗事ばっかりな自分は嫌だし、そうやって認めることで自分への逃げ道を作っているわけです。
「だってそうするしかないんだもの」ってヤツ。
それは今は関係ないことですけど。

で、私はその感情を表にあまり出すこともなく、可も不可も言わずにいることの方が多い。
それは私が見ていると同じように他人も私を見ているし、世間体だったり、周りとの調和だったり、常識のなかでここでは言ってはいけないということを考えているからです。
自分のためにね。

他人が私を見て、「うわ、嫌なヤツ!」とか、「この人バカだ」と思われるのはあまり快いものではない。
まあ普通はそうだわね。自分を良いふうに見て貰いたいわけだ。
だから見られていることを意識して、迂闊なところで変なことを言わないようにしている。
まったく人間というのは程度が低いっつーか。
またしても例に漏れず私もやってるんですけどね。
でもそうやって生きていくのは賢いんじゃないかな。何も考えずに口に出してばっかりの人より。
他人との関係は良好!みんな気持ちよく生きれますね。大勢の人が集まる社会ではそういうのは本当に大切ですよ。
できないと集団で攻撃されますしね。

でもそうやってずっと生きていくのは疲れる。にこにこしてばっかなんてさー、自分疲れて嫌になってたら本末転倒。自分のためになってないよ。
だから私は「見られていることを意識」して、自分の安心できる場所を作って息抜きをする。

まあ私の場合自分の興味無いことにはホントに無頓着なほうだから悪口なんかほとんどでないけどね。
自分と自分の感情をよくしてくれるっつーか、そんなことにしか興味ないんだなあ。自分勝手。
つーかそういう性格?だから結構にこにこ貯めてるようなこと無いかも。
集団で攻撃されちゃいますよ!賢くない生き方だ!

なんか何を言いたいのか訳が分からなくなっていしまいましたね。
要するに賢く生きましょうってことなのかも。でも自分の安心出来る場所を構成してくれる人には正直に生きないと無くしてしまうので気を付けましょう。

自分でも訳わかんなくなってきたよ…。
今日はもう諦めて。
また日付が変わった頃にでも。


2001年10月18日(木) 昔日記

題名がいつものごとく思いつきません。
何かいつもテキトーなこと書いてたけど今日はまったく全然思いつかない。
大体小題を付けるのは得意でないですよ。
文を書くこともあまり得意では無いのです。
しゃべることは好きだけれども得意ではないし。
好きなことはあっても得意なことは少ないねー。
私はとても偏屈でどこか人よりずれてるらしいので伝達もまともにできません。
喋れても伝えるのは難しいですね。

で、本日のお題は『伝えること』です。

前にも同じようなことしたっけ?なんかもう根本が同じなんで言ってることも同じで内容も同じに見えます。つまりは無駄なんだけど。
まあいいです。

私たちは意志を伝えるために言葉を持ってる訳ですが、この言葉ってものは本当に大切なものです。
当たり前だけど。無くてもコミュニケーションは取れるし、手話っつー手もあるわけですが、それにしたって「言葉」がないとなりたたないものですね。
ジェスチャーにしても。
なぜなら人は考えてから伝えるわけです。
どうやって考える?
言葉を使って。
言葉を使って考えて、言葉、もしくはそれに変わるもので相手に伝えるわけだ。
しかしこの言葉ってのはとても簡単で伝わりやすい一方、とても難しく伝わりにくい。
それは言葉は簡単に真実でないことを伝えることが出来るし、相手によっては本当に気を遣って言葉を選ばなくては妙な誤解を招いてしまうから。
でも私たちは言葉を使い、意志を相手に伝える。
それは本当に相手に伝わっているのかな?
簡単なことは伝わっているんだと思う。
「あれ取って」、「ここに来て」、とか。普通に話して伝わって無いことは無いよね。
でももっと複雑なことは?
「私はいまこれこれこういうことのために不幸だ」
「ああそうだね、そういうことってあるよね、つらいよね」

これってホントに伝わってるの?
私はそうは思わない。
結局人は自分の価値観でしか物事を考えられないし、「わかる!」といって話があったとしても、一部分だけかみ合ったに過ぎなく、後はかってに互いに自分の思い描くことを考えているだけだ。

自分の思い、考えが100%相手に伝わるなんてことは無い。

言葉以外の表現方法がある。けどそれにしたってそれを見たときの人の受け取り方は様々だ。
本を読む、映画を見る、絵を見る、舞台を見る。
それをしたときの感想はみんなが一緒になる?必ず作者の言いたいことが伝わってる?
自分で都合のいいように解釈しているだけだ。
それでも私たちはこの不完全な言葉と言うものにすがって、これを使って相手に伝えていかなくてはならない。
特に言葉は言葉でも文字だけのメール、手紙はホントに不便だなあと思う。
ここもね。文字ばっかり。しかも私は言葉をうまく使うことが出来ないから余計に。

だからこそ相手に本当に伝わって欲しいものは出来るだけ、100%とはいかなくてもそれにできるだけ近づけられるようにするべきだ。
本当に伝えたいのなら。

人間はもとより不完全なものなのだから、人間が使う『言葉』と言うのも不完全で当たり前なのかもしれないですね。
それでも私は言葉の力をかりて自己だけで完結したいと思うのです。

なんだか今日はものすごく眠たくて頭が働きません。
変なことを言っている…はずだ。
でもそれを確認出来ないほど眠い。
明日…補足とか、修正とかできちんとしたものに直したいなあ。
何かもっといっぱい書きたいことがあったはずなのに忘れてしまいました。眠い…


2001年10月17日(水) 昔日記

本当に頭に来るパソコンです。
なんだってさっきまで繋がっていたのにいきなり繋がらなくなるんですかね。
まったく…困ってしまいますよ。
そんなに私にここの日記を書いて欲しくないんでしょうか。
今だけなのにねぇ。
やる気のあるうちだけなんですよ。
世の中自分がやろうとしたらそれだけで良いんですよ。
どこまでも自分でやろうとすることが一番難しいんです。

つーことで本日は『やろうとすること』ですか?
微妙に違うかもしれないんですが。
簡単にいうと今日私は学校で講演会があったんですよ。その感想?
かなり前向きなおじさんが(丸山●治さんだっけ?)でてきて講演してたんです。
講演っつーのか?あれは…?わかりませんが。
とにかく前向きで、良い講演でした。

でもね、私は相当なひねくれ者らしいんですが。

「ナンバーワンよりオンリーワン」
だ、そうです。
何かの中で一番になる必要はない。自分だけの一番があればいいじゃないか。
何も一番になる必要なんかんない。

そうですよねー。私もそう思います。
一番になる必要なんか無いんですよ。

だからといってね、他人と自分を比べずにはいられないんですよ。
だって他者はそのためにあるんですよ。私の中では。
比べることで確認して、自分を確立するんです。
違うことだけを確認するんでなくて、その時に優劣も確認するんです。
自分が自信をもったものだからこそ他人よりも優れたところを照明したいんでしょ。
他人は自分を映す鏡のようなもので、自分が自信を持って良いのかな?私にはこれが向いているのかな?
そんなことを確認するにも他人と自分を比べずにはいられない。

「自分に合わなかったらやり直せばいい」

そんなことが出来るのならば人間困りませんよ。
流れていく時の中で、同じ時は一度も無いんです。
昔読んでいた本の感じ方が変わった。人への対応が昔と違う。
成長するにつれて変わるのだからもしかしたらやっぱりこれは自分に合っているのかもしれない。
というか合っていてほしい。

自分に合うか合わないかすらまともに決められない。
希望的観測と未練がましさが残り、ずるずると続けていく。

今までこれしかやってこなかった。
他に何をすればいいのか解らない。でもこれが自分に合わないことは解る。

やり直すなんてことはそう簡単には出来ないんですよ。
このままずるずる続けた方が楽なときもあるんです。
そして、楽な方を私は選びます。その結果は見ない。考えない。

「本気でやれば何かが変わる」

そうですね。本気でやればいろんなことが変わるし、楽しくなるし、他人にも自分にも認めてもらえます。
だけど生きている人のうち何人が本気になれるかな?
何事にも一生懸命やっていくことは良いことだってみんな解ってるんですよ。
それでも人はそれができる人間と、出来ない人間がいるわけです。
本気でやって、その後は?認めてもらえるとは限らない。
その後で言い訳を考えるよりも、やる前から言い訳を考えた方が楽なんです。
「私やってなかったから。」
出来ないことを認めるより、やらなかったことを主張する。
いつかできる、今やらなくても後でも出来る。そうやって逃げている人の方が多いんですよ。
本気でやれば何かが変わることぐらい、みんな解ってるんです。
講演を聴いて、変われた人もいるでしょう。
でも大半は聞いて、一瞬前向きになるけれどすぐに元に戻るんです。
もしくは、「何で今まで自分で気づかないようにしていたのに、なんで気づかせるようなことをするんだ」と、聞くことすら放棄する人もいるはずだ。

丸山先生はこういう人たちをどう思うなかな?
可哀想なヤツ。もったいない。
そう思うのかな?
そうやって思ったとしたら、自分と他者を比べてることになるよね。
「可哀想」
自分の価値観でもって、自分より劣っている。だから可哀想と思う。
「もったいない」
自分の価値観でもって、時間の浪費をしている。だからもったいないと思う。
自分の中の物事の基準に他者を当てはめて、勝手な判断を下して、自分はそうでないことを確認して安心する。自分はその人より優れていると確認する。

実際丸山先生がどう思っているかは解らないけどね。

やろうと思うことは誰にでも出来るんですよ。
だけどそれを行動にだすことが出来る人が何人いる?
行動にだした人は下を見ない。他者と比べて上を見る。
そうじゃないんですか?

私がいつも極論を言っているのは解ります。
丸山先生がとても良いことを言っていたのも解ります。
でも私はそれを上辺だけと感じました。

やろうと思うことは誰にでも出来る。
でも、やろうとする事は簡単には出来ないと思いました。

そして、私は認めてもらいたがっているくせに、やろうとする事の出来ない人間だと思いました。

つーかなんて長い感想文でしょうね。誰が読むんでしょうね。今日は日記に直に書いてないんでどれくらい書いたか解るんですが、2ページ半…?…以上?
恐ろしい!よくこんなに自分の価値観で物事を自分勝手に語れるものです。
自分にびっくり!!
もうここのページほとんど愚痴ページですよ。
ごめんなさい。
そして、この前の日記で気分悪くされた方にも。ごめんなさい。


2001年10月15日(月) 昔日記

今朝はheisiが寝てる間にきったないtopにかえて、イノ描いて、heisiの小説をupしました。
なんつーか…また夜に飲んでたんですけどね。しかもheisiがくるまえから私は飲んでて、heisiは昨日は珍しくビール1本しか(しかも缶)飲まないわで私一人であたまぐるぐる。
しかもあんたバカじゃねーの!?と怒られそうなことに酒飲んだ後で我が家のサウナに入りながら風呂に入りました。
久し振りに温泉でも行った気分でheisiと仲良く。
ぶっ!!気持ち悪い人たちです。自分で言うなって感じだが。
だいたいうら若き乙女は温泉でも互いに隠すほど乙女なんですよ。普通この年は。
おばん臭くサウナに入って水風呂に入ってですよ。
でもね、やっぱりおばさん染みてても体は若いんです。

heisi乳でけぇ!!細いし!もー私どうすればいいんですかね。
乳ねーよ!

そんな彼女と日々連れだって歩いている私は釣り合ってないこと間違いなしですよ。惨めですよ。

つーことでまた前置きが長くなりましたが、本日のお題は『釣り合い』です。
毎度訳の分からない前置きが入る…。

釣り合いって自分できにしてないつもりで本当に気にしてるものなんですよ。
つーか何でこんなに気にしてるんだろうってぐらい。
それは私が好きな人たちは例に漏れず凄い人たちだからなんだけど。
一緒にいて、会話をして、グチをいったり言われたり。
こういうことやってるとね、何で私この人と仲良くしてるんだろう、とか思うわけです。
何でこの人私と仲良くしてくれるのかな?とか。

人は無意識にでもなんでも他人と自分を比べだがるもんだとはわかっています。
それが自己を意識することに、他人は自分と違うことに気づくためには必要なことだということもわかっています。

と、いうかそれをしないと生きていけないでしょ。少なくとも私はそう。
ただ、そこで自分と違うことだけを確認するだけではなくて、どちらがより優秀かを考える辺りが釣り合いを気にする原因だと思う。
その時に、より上を見る人は前向きだといわれて、下を見下す人は高飛車といわれるんであって、どっちも根本は一緒なんですよね。

私の場合、そのどちらをするにも欠けている。
上を見るほど前向きでもないし、上をみて進んでいくと言いきる自信がない。
それほどに私は意志が弱くて、努力ができない。
要するにダメ人間なんだけど。
それに、下を見るほど上にいない。
他人を見下すことは心の片隅でやってるんでしょう。
でも、それを表に出して、態度にだすことはできない。
だって私はものすごく狡賢い。
その時は上に立っていたとしても、後から越されたときに、惨めになるのが耐えられない。
だから心の底から「あの人私より下手じゃん」とかいえない。
だから自分は下に、下に、と言う形になるんだよね。

自分が最初から最下層の人間だと思って行動する事は私にとってとても楽だ。

いくらでも言い訳が出来て、自分が前に進めたときに、少しの進歩しかしていなくても簡単に嬉しくなれるし、満足出来る。
それが悪いことだとは言わない。
けどそうやって逃げているくせにちゃっかり人を好きになって、一緒にいてもらってるのが自分で理にかなって無いと自分で解ってるから釣り合いを気にする。
一緒にいていいのかな。って。

結局自分が最下層にいると楽だからそこにいるくせに、それによってできた上の人との階級の差を自分の罪悪感から気にしてるだけなんだと思います。

何もかも認めて、他人を下に敷いて、下から越されると言うことに脅えながら、日々上を目指す努力が出来るほど私は人間がなっていない。
だけど一人でいることが出来なくて、他人を勝手に好きになってる。
期待はしてないつもりです。ただ好きなんですよ。私は。
私が勝手に好きなんです。
むしろ最下層の立場から言うのならば「好きにならせてください」になるんです。

でも一緒にいてもらえると、今度は自分が釣り合わないと気づく。というよりはじめから気づいてたのに気づかない振りをしていたにすぎないんですけどね。
悪循環の繰り返し。

だから私が好きになる人は一緒にいれて、嬉しいけれどものすごく気分爽快になれる人は実はいません。
普段はいろんなことに眼をつぶってやり過ごしている。
けど蓋をあけてみれば自分勝手のオンパレード。
でも自虐的になることは私にとって楽なことになるのでいいんです。

なんて陰湿。
私のいってる好きとはどんなに言葉を飾っても要は自分のためなんです。
『好きになること』で言ったのは本当のことだけど、根本はここからきてるのです。

私が普段好きだと言っている人に。

ごんめんなさい。ありがとう。

こんな所で言っても仕方ないんですけどね。
特に身内は見ていないはずですから。私が個人的に教えた人以外は。
こんな所でもちゃっかり逃げてます。言っていたらきりがないですけどね、ここがある以上。

なんだか今日の日記(と言い張るか…)はかなり私信じみた内容になってしまいました。
誰への私信か本人わかってるかな??
お互いにこれをやっていたら結局先はない気がします。
だからといって変われるものでもないけどね。


2001年10月13日(土) 昔日記

書きたいんですが昨日は寝てしまいました。
はは。いやー、寝過ぎですね。
起きたんですよ。一度。電気もつけたんですが「やっぱいいや。」って寝ちゃいました。根性無いです。書きたかったんだけどなあ。

で、最近保健室によくいくのですが、体育の先生がいるんですよね。
体育の先生っていうのはどうも頭が堅いって言うかなんつーか。
私はとっても苦手なんですが、今回もまた言われる訳ですよ。私みたいなやる気なしたグータラ娘は。
「アンタダメだよ。『現代と若者』(だったかな?)って本読みなさい。」
…はいはい。解ってますよ。現代の若者はなってないってやつでしょ。
今の若者は特別なんでしょ。あなた達の中では。

つーことで本日のお題は『特別であること』です。

友達がサイトを作って、そこにカキコしに行ったらレスで、私がやった性格診断てすとやったよーっていわれたんですよ。
私は彼女がどんな結果がでたか見に行ったんですね。ついでに自分のやつもどんなだったかみたわけです。
判断結果で一番多いのが私の診断されたものでした。
それなのにその所には「「みんなと同じ」であることに価値観をあまり感じず、…」とかいてありました。
皮肉なものですね。
一番多く診断されやすいものにみんなと同じには価値観を感じないんだそうですよ。

今の若者は他の年代からするとわかりにくいのかと思われます。
まあ人間わかるといってもホントに表面的なものしか解らないでしょうが。
それにしたってわかりにくいと。
でも私からすると、今、私が、「今の若い人」に分類されるからわかりやすいのかもしれません。つーか自分のことならですが。
自分のこともどこまで解ってるか解りませんがね。
一生懸命ここで私の怠惰を現したかったのに意外に他人には「がんばっている」を表現してると思われがち。
ということは私がまた無意識に表面に膜でも作っていかにも自分はがんばってるんですよって思わせる文を書いてるのでしょう。
そんなことにも気づかない私。いやだなあ…。
まあそんなことはおいといて。

人は誰でも(私的意見)特別に見られたいんだと思います。
それが特に今の人たちには多い。と、思う。
それは今の時代の人たちは自分に何か自信があると言い切れるほど強くないからだとおもう。
これは時代とか関係ないんじゃないのかなとか思われるかもしれないけれど、私はそうは思いません。関係あると思う。
自分が自信があると言い切って、失敗するのが怖い。そんな妙なプライドだけは高くて、なのにいろんな情報がいっぱい入ってくる今の世の中だから身の振り方もわりとうまい。
みんなと同じ身の振り方をして、大したヤツじゃないと思われる。
それは自分が招いたことなのに気に入らない。

滑稽だ。でも私はそれが自分にあてはまることがわかってる。
今の時代の人間は繊細なんかじゃない。
引きこもり?ふざけんな。
引きこもってないで家出くらいしてみてください。
自分が今の所から逃げることで、すべてを再構築する自信がないから逃げることもしない。ただ見ないだけだ。
自分は特別だとか、自分がまず自分のことを認めてないのに他人が認めるといたら、相当な努力と世界観が必要なんでしょう。
自分の今までやってきたことを認めることも出来ないのに他人が認めてくれるのをただ待ってるのはずるいことですよね。
自分を心から「まだ至らない」と思ってる人はやっぱり違う気がする。
そりゃ下は見てるでしょう。人間ですから。
でも上も見てる。影響されたものは、自分のものに変換出来てる。
きっと。私の希望的観測かもしれませんが。

そんなことも出来ずに、ただ「すごいなあ、すごいなあ」で自分は何もしていないのに他人を否定して(しかも表だっては出来ないくせに)自分は特別だけど、今はできてないだけだと逃げる。
そんなに特別でありたいくせに、自分はなにもしていない。
見ているだけはとても楽なんです。
マンガを描く。「私もーすっごい下手だわ。どうしたらあんなん描けるんだろう」
「あの人とてもうまいよね。すごいなあ。」
「やっぱり私読み専だわ。」
それで?じゃあさ、いつ、どこで、どうやって私は表現するんですかね?
「頭の中では出来てるんだけどさあー」
頭のなかを輪切りにしてもマンガのネタなんか映ってないんですよ。

他人がやってても普通に見える。
他人がこれをしてても別に気にならない。
でも私がこれを自分でやっているととても気に入らないのは、「がんばって生きている」からでも「正直に生きている」からでもない、ただ単純な話。

私は自分をより低レベルな人間だと思っていたい。
自分の不幸を探していることで自分を騙していたい。
それに気づいていることで、自分が特別だと思いたい。

これをこの人の個別な生き方だ、といってしまえばそうなのかもしれない。
でもこれではだめだ、これじゃあ何のために生きてるか解らない。
そう思うのは世の中がそういうのが主流だからだ。
そしたら世の中が変わったら、これが当たり前になったら、何が特別?
大体今の世の中だって特別になりたいというのは他人に認めてもらいたいからだ。
そしたら本当に「特別であること」ってなんなんでしょうね。

今の時代に生きていない人間の書いた今の時代の人間の本。
「世の中の主流」について書かれた本なら読まなくても大体のことは予想がつく気がします。読んでないのに偉そうだけど。
私が見たいのはもっと、実用的な生きるための(逃げるための)ことが書かれたものだったりします。

なんだかどんどん話がずれてますね。相変わらず文の書き方が下手ですみません。
一生懸命書いてます。自分のために。


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