独白2
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2001年11月01日(木) 昔日記

いや、何か寝過ぎなのは解っているのですが眠いです。
そして明日は学校サボって遊びに行くと思われるのできちんと寝たいですね。
で、今日は何を書きましょうかねえ。なんだか最近ネタが尽きてきた気もしないでもないです。
いや、なんつーか言葉の限界ってゆーか。
ただ単にこういう風に言葉にした物に対しての限界です。私の力不足からでしょうけど。
話を書くというのとこういう風に言葉にすることはやっぱり違うと思うんですよね。
私の友達はとてもマンガがうまい人がいるんですが、その人は本当に「感じさせる」ものを描くんですよ。
言葉にして理論的に書いていくのは大抵できると思うんですが感じさせるのは難しいと思う。歳をとっていくうちに余計に。少なくとも私は。
私はその人のマンガがとても好きで、彼女の描く女の子はものすごくかわいくて大好きです。
とってもかわいい女の子を描くし、凄いマンガを描くんです。
私にとってそれは私ができないことであるからとても憧れで、羨ましいことです。

つーことで本日のお題は『憧れとなりかわること』です。

微妙に落ちてない前置きですね!しかも長いし。

憧れというのは辞書で調べたところ、「物事に惹かれる気持ち」と書かれていて、もちろん私は今までそういう意味だときちんと解っていたはずなのに最近不思議に思います。
私よりもとても素晴らしい絵をかいて、凄いマンガを描いている人はたくさんいます。
私は案の定そういう人たちに憧れという感情を持つわけです。
憧れるということは、いずれ私もそういうのが描きたいなあってことなんですけど。
と言うことは私の目指している先はその人だと言うことになるんですよね。
まあ実際は憧れの人なんか一人だけでは無いんであんまり極端になることも無いと思いますけど。

でもそれって結局の所マネなんですかね。
だって先にそれをやっている人がいるわけでしょ。すでに。
そこに行くために今がんばっていて、自分と感覚が合っていて、自分より進んだものなんだから、そのまま延長していったら憧れの人と同じになってしまうわけだ。
人間そんなに正確ではないし能力の差もあるのでまんま同じになることは無くても似たものになることは確かだ。
それは憧れの人が少ないならなおさらだと思う。

私はその彼女の描くマンガが好きで、女の子がとってもかわいくて、憧れていて、それは私の感覚に合っていています。
でも彼女のようには描けないので、全然雰囲気の違う物になってしまいます。
これは能力の差なので仕方ないんですが、もし私にももっとレベルの高い能力があったら?
私は彼女のようにカワイイ女の子が描けて、凄いマンガが描けるようになるわけです。
でもそうしたときにはもう遅い。
たとえ同じような感覚で進んでいっても早く完成させた物が本物で、その後の物はマネになってしまうからです。

要するに「憧れ」とは自分が「成り代わりたい物」なのかもしれません。
なりたい物ではなく。なったところでマネと言われるだけですからね。

いくら感覚の種類なんか10人10色とはいっても似たような物なんかいくらでもあるし、重なっているところなんかものすごくいっぱいあると思う。
だからこそ個人の能力に差でも無ければ世の中マネだらけだ。
自分の能力の延長にいて、自分の欲しいものを手に入れている人を見る。
自分がそれを手に入れるにはなりかわるか、他の道を探したり、さらに上を行かなくてはならない。
憧れとはいい言葉のようで凄く自分勝手なただの妬みなような気がした。

だから何だという話なんですが。
個人の能力の差が、面白い結果を出すときもありますしね。
なんだかホントにだらだらどうでもいいことを書いています。
中身のない日記だ。


2001年10月29日(月) 昔日記

今日はテストでしたよー。正に「レ・ミゼラブル」!!
このままでいいのかと自問しつつ帰ってきたら日記を書く始末。
学習能力がありませんねー。
てかはやく書かないと母が帰ってきてしまいますよ。
いない方が落ち着きます。

だったらゆっくり風呂になんか浸かってないでさっさと書けばいいのにねえ。
お風呂で考え事好きです。ゆっくり何にも考えないで浸かってるのも好きです。
いつから好きになったのかなあ?
昔はお風呂あんまり好きじゃなかった気がする。

そういや今日モスでお昼heisiと食べてたらいっぱい中学生っぽいこがいました。
なんでこんな時間にいるのかなあと思ったらうちの妹は別の日だったけど普通は文化祭の代休の日なんだと思いました。
私はもう自分の中学の文化祭なんて覚えてないよ。
こういうのは思い出になってもいいはずなのに。

つーことで本日のお題は『思い出』です。

今日はずいぶん前置きが長くなってしまいました。
なんなんだかなあ。

で、思い出。
私はネットに載せる日記を書き始める前から小学生の時とか中学ん時とか日記かいてたんですよね。
なんで書き始めたのかはもう忘れてしまったけど、気づいたときには「忘れたくない」って思って書いてました。
その時からもう「日常は忘れるもの」とおもってたのかなあ?気味の悪い子供だ。

思い出ってのは基本的にホントに些細な日常のことは指さないんだと思います。
特別楽しかったもの、つらかったもの。
しかもそれは時が経つにつれてどんどん美化されていってる気がする。
つらかったことも、その時の心情は時が経つにつれて曖昧な物になってきてるから他人にいったり、「今はいい思い出だよ」とか言えたりするんですね。
でも本当に大切なことは忘れてしまうのが不思議だ。
思い出せなくて寂しいと思うぐらいならまだいい。
でも忘れたことすら忘れてしまうこともある。
美化された物だけを後生大事に「思い出は大切だ」なんていってるなんて滑稽ですよね。
てか私だけかもしれませんけど。私は人一倍物忘れが激しい。

そして思い出の中の人。ホントに美化されすぎ。
これは「冷静と情熱のあいだ」を読んで思ったんですけど。
他人に期待するのはいつもやっていることだけど、思い出の中の人に大きな期待をして、会ってみたら幻滅する。ホントに滑稽。
「忘れられない人がいる」
ずっと思っている訳じゃなく、時が経つにつれて忘れている間にその人は記憶の中で再構築されていく。
「忘れられない人」はいつしか別な物に成り代わっていくんですよね。
勝手に期待して勝手に幻滅。
思い出の中の人とは会わない方がいいんです。
でもまあ私にはまだ思い出になってしまう人はいませんけど。
ただ死人は思い出にならざるをえない。もう会うこともないし、会えることもない。
死人にも期待するから人間の希望的観測とは凄い物ですね。「あの人が生きていれば…」
とかいったりしてね。
期待もするし、忘れもする。思い出の中に生き続けるとは何という滑稽な言葉なんだろうと思う。記憶の中の死人はもうその人では無いのに。

なんだかんだと言い訳しているけれども私は要するに自分にも忘れてはならない物がある、本当に大切にしていた物を忘れると言うのは酷いことだ。
そういう感覚があるのだと思う。
こんな所で「思い出とは忘れる物だ」とか「忘れるのはは仕方ない」とか言いつつも私は2年前に死んでしまった犬(私の周りではこれしか死に事がない。)に忘れてしまった言い訳をしているだけだ。
実際のところ私が彼女に対して、愛情を持って接していたのはほんの僅かな時間だけだった。私は彼女が死んでからとてもそれを後悔した。そして彼女が死んだとき泣いた。
でも私は今彼女のことはほとんど思い出すことも無く、今いるサスケ(犬)に彼女にはむけられなかったほどのかわいがりようを見せている。(当時の私には彼女をかわいがるほどの余裕はなかった。)思い出すとしても私の記憶の中で再構築された物でそれは彼女ではない。

それを悪くない、仕方ないといっているのにこんなに罪悪感を感じるのはなんでか。
それは私も世間の人もそういう風に建前ばかりの綺麗事を教えられて育ってきたからだ。
認めなくてはならないことも、認めたくないと思う。
でも認めないとやっていけないことも既に解っている。
彼女が死んだとき、私が泣いたのは自分のためだし、(病気の彼女に延命を行って苦しそうにしていたのを憐れんでたりもした。)彼女がいなくなっても私は普通にたまにしか彼女を思い出さずにきちんと生きている。
そうなると解っているのにどうして私たちはそうやって建前を教えて育てていくんだろう。それに気づかなければ良かったと思うときもあるけれど、妙に納得してるのも確かだ。
要は自分がいかに綺麗な物かという風に見せるための自己満足に過ぎないんだなあと思った。

今日昼間にこの日記ホントにどうでもいいことを書いてしまったので載せるのやめようかと思ったんですけどなんか結局のせちゃいました。
日々どうでも良くなるここの日記。そろそろマンガ描きたいなあ…。


2001年10月27日(土) 昔日記

最近よく寝すぎるか寝なさすぎるかのどっちかを繰り返しています。
なんつー日々。無駄の多い日々ですね。
で、今日は休みなんでまだわりと頭のすっきりしている昼間のうちに日記を。
隣で母がサスケの(犬)毛を刈っています。
美容院がお休みだったとか。

時はとても素晴らしく平等に流れていきます。
私はこんな所で日記なんか書いていていいのか。
つーか生きてていいのか。

で、本日のお題は『生きている意味』です。

良い前置きが思い浮かびませんでした。ダメじゃん〜!
今日は母親と進路の話をしていたんですが、どうも私は生きる意志っつーかが足りないのが全面にでているらしく、母はキレた。

「あんたじゃあなんのために生きてるの!アンタ生きてても意味無いじゃない!アンタが生きてて役に立ってるの!?」

何のために生きてるかなんて解りません。
でも他人の役に立っていない人間は存在している時点でいないと思います。
例えば私はこんなにもいい加減で頭が悪くても、クラスの人に迷惑も掛けるでしょうが安心も与えるわけです。
「ああ、私の下にもこんなに頭が悪いやつがいる」
と言う感じ。
存在しているだけで他人の役に立っていないと言うことは無いんだと思います。
でも、それは直接「生きる意味」に繋がるわけではない。
息をしているからと言ってその人の存在に特別な意味が生まれるわけないのと同じに、人が必ずしていることには特別な意味が生まれるわけでは無いんだと思います。

なら生きている意味はどこで生まれるのか。

『自分の感情』
これは誰もが持っていて、誰とも全く同じモノはない。
これがきちんとあって、表に出せて、他の人に現すことができたら、生きる意味に繋がるかもしれない。
何か『自分の感情』で、どうしてもやりたいことができたら生きる意味に繋がるかもしれない。
でも私にはやりたいモノができるほど『自分の感情』がきちんと成立してない。あやふやな靄みたいなモノでしかない。
好き。嫌い。そんな簡単なモノしか判断する事のできないモノだ。
これをしたい、するべきだ。そういうものができるほどできあがっていない。

宗教というのは正にこのことかもしれないと思った。
自分だけの崇めるべきモノがいて、それに従う。=自分だけの感情があって、それに従う。
だったら私はどこかの宗教に入るべきなのかもしれない。
でもそれができないのは、今ある宗教は私の感情にあっていない。
小野不由美の「屍鬼」のように、自分のなかで絶対であるべき神が欲しい、でもそれは現存する宗教にはない。

誰かに導かれて、許されて生きていくことはとても簡単だ。
そして、その絶対であるものが私を導いてくれている時点で生きている意味ができる。
私の中で絶対な物が私の存在を認めてくれるだけで意味ができるんです。
ただそれは同じ「人間」であってはならない。
なぜなら人は「許す」ことも「導く」こともできるけれども、そこに無条件の、本当に自分の利益に繋がる物が無いと言うことがないから。
自分だけの絶対の物=自分の感情だった場合、自分を許す物は自分だから罪悪感はない。
でも自分を許す物がたにんであった場合、許されることで「許させている」と感じるかもしれないし、他人にとって自分は不可欠要素だから許していると無言の重圧を感じるかもじれない。

許し、認めるだけの存在が生きる意味をくれる。でもそこに感情があってはならないから「人間」では成り立たない。
そしてせの役割をしてくれるのが「神様」というもので、神様というのは要するに『自分の感情』なのだと思った。
現存する他人の感情である宗教に従うつもりが無いのなら「自分の感情」を確固とした物にするしかないのだと思う。

昔の人はこんなこと考え無かったのかもしれない。
生きることに精一杯の時代には。
でも今のこの時代は簡単に何も無くても生きることができる。
考える余裕があるから精一杯生きる前にぐだぐだ言っているのかもしれない。
生きている意味を問いただす時点で生きている意味をもう持てないのかもしれないと思った。

なんだか今日はとっても文がおかしい。
頭はハッキリしていたのに頭が悪いからきちんとした物になりません。
矛盾いっぱい。頭悪い。
でもぼーっと考えるより文と言う形にしたほうが自分的にまとまります。
何度も形にしながら書いていけば確固とした物になるのでしょうか。


2001年10月24日(水) 昔日記

尽きちゃいました。もう…せっかく更新したのにこんなに嬉しくないってどうなんでしょう。いつものことですが。
やっぱりカラーってのは時間かけてるんだからできあがりはうまくいってて欲しいですね。なのに。
毎度のことながら気に入りませんよ。大体時間かかったって言っても自分が悪いんですけどね。
だってとっても私は飽きっぽいんですもの。
ものすごい飽きっぽさでもって手塗りでやったためにさらに時間がかかってしまいました。ダメだー。少しやってはやめて、少しやってはやめての繰り返しです。
飽きっぽいっていうことは本当に怠惰だ。

つーことで本日のお題は『飽きること』です。

私はとっても飽きっぽいってのは上で言った通りなんですけどね、集中力が極端に無いんですが。
いっつも少しやっては〜の繰り返し。
しかも飽きっぽいだけでなく諦めもものすごく早いんです。
そんな私が友達に言われたこと。

「カイヅさんすっごい飽きっぽいのにオタクだけはずっと長持ちなんだね。」

結構ショックでした。オタク長持ち…??

オタクっつーかマンガ描くことはホントに飽きない訳では無いですよ。
実際私はあんなきったないtop絵一枚塗るだけでもあんなに時間かかっているのは何もとろくさいだけでは無いんです。
色塗りなんていう単調な作業は同じことの繰り返しで飽きやすいくせに手で塗るというのは緊張することです。
だから急激な眠気におそわれたりして進まないんです。
マンガにしてもそう。マンガ描きたい描きたいといっていても私はいつも飽き飽きしながら描いています。

飽きないのは「マンガを描くこと」では無く、「自己を主張すること」な訳です。
これは飽きたら話しにならないどころか存在できませんよ。
生きることに飽きる日は来るかもしれない。
でも生きている限り私は自己主張をする事を飽きる日は来ないでしょう。
諦める日は来てもね。
勉強は違った。飽きた。
大切だと思っていたものがふと、どうでも良くなる。
それが飽きることなんですよね。
そしてとっても怖いものです。

今まで好きで好きでめんどくさいことやっていたのにも関わらずふっとどうでも良くなるって言うのはどうしてなんだろう。

それが物に対してならまだいい。
それが人に向けられたときが一番怖い。
自分は今までこの人が好きで、一緒にいて、困らせるようなことをされてもカワイイといえる。
そんなところから「飽きる」となんでいままでこんなめんどくさいことしていたんだろう。になる。
よく子供とかに向けられる感情だ。

私がこの飽きるというのを怖いというのは自分が呆れられたり飽きられたりするような人間だと解っているからかもしれない。
自分の分身である作品が単調でつまらなく飽き飽きされるかもしれないような物であることが解っているからかもしれない。
だからそんなことが無いように、飽き飽きするような作業の繰り返しでもマンガを描いたり絵を描いたりをそれなりにがんばってする。
凝り固まって同じような解答しか出せない頭をフルに使って飽きられないような解答を出し続けるようにがんばっている。

でも何より怖いのは自分がこれらのことを「飽き」てしまうことだ。

こうやって自分のために虚勢を張る、一生懸命でなくても生きようとする事を飽きてしまうというのは「死ぬ」ことと一緒だ。
実際飽きてしまったらそんなことを怖いとも思わないことだ。
つまりは私は「飽きること」によって「死」ぬことが怖い。

飽きることが怖いのは特に人に関してだ。
物に対しての執着心を捨てても、人に対しての執着心があれば生きていけます。
少なくとも私は。
それが無くなると私は他人と干渉しなくなり、他人も私に干渉しなくなる。
他人がいることによって成り立っている私はそうなると自己の確立がきっとできない。だから存在できない。
そんな「生」はきっと飽きる。
他人に「飽きる」という感情をぶつけたとき、自分にもそれが返ってくることだということだと思った。

今私はやっぱり他人に囲まれています。
いつも一緒にいる人や、連絡を取っている人は飽きたくない。
その人たちは私にとって必要不可欠とまではいかないにしても、今私を構成するのにはいてもらいたい人です。
自分勝手な書き方をすると。気分悪くなったらゴメン。
だから飽きられたくない人でもあります。

こんなに飽きっぽい私も、人を好きになることは飽きない。
なぜならそれは自分のためだから。
どこまでいっても飽きずに自分勝手。
いっそ生きることに「飽きれ」ば良いのにと思う。
本能なのか何なのか、こんなにも「生」にしがみつくのはなんでなんだろうと思った。

今日も眠いためものすごく変な文書いていそうです。
ごめんなさい。
ここをかくことも飽きても良いはずなのに飽きない。ここを書いているのにマンガを描きたがる。
それはどっちも私にとっての自己主張の場だからです。
どっちにもできることとできないことがある。
だから妙に長続きするんですかね。
オタク長続きの秘訣。
いらねー…


2001年10月21日(日) 昔日記

表と同じ題名ですが。
ひねりようが無いんですよ、頭悪くて。
今日は二度目の「千と千尋の神隠し」を見てきました。
意外に混んでるんですね、まだ。
妹と母と見に行ったんですが、ギリギリではいりました。ラーメン食べてたら時間が…またラーメンです。
つーか今ウッザイことにパソコのある部屋に家族全員がいてうるさいことこの上ないです。さっさと飯でも食いに行って欲しいですね。

で、やっぱり二度目ながら良いです。飽きませんね。
凄いですよ。なんつーかね、歳を感じます。私は。
こーゆー話はデジマンガ描いてるときにいっぱいしましたね。
ついこの前の話なんですが。8月ですからね。
でももうホントに昔に感じます。たった2ヶ月が。
昨日昔の日記を読み返してました。中学ん時の日記ですけどね。
昔から時の流れがすごく気になってたみたいです。
「いまのままでいたいなあ」とか。

今の私は法律上ではまだ子供で、でも本当に子供かと言えば自分でも解らない微妙な歳です。
一人では生きていけない。だから子供だと思う。
でも大人と同じことをもう簡単に出来る。だから子供じゃない。
どちらかと言えばもう大人なんでしょうけどね。本当に一人で生きていけないかと言えば答えは『NO』ですから。

子供は羨ましい位他人のために動けるものです。
それは本当は自分のためなのかもしれないし、自分勝手が他人のためになっているだけなのかもしれない。
でも子供はそんなことを思わせることもなく他人のために動いてるように見せる。
私はいつからかその行動が他人のためだと思わなくなり、「可哀想」は同情で見下すことだと思うようになりました。
子供にはそんなことを考えている余裕なんて無いんですね。自分が生きるのに素直に一生懸命だ。
いつからか私はそれが出来なくなって、大人の教えた倫理と言う建前と、自分の感じてる現実の間に身を置いている。
そしてそれに気づいた私はもう昔のように振る舞うことは出来なくて、戻りたいと思う後ろ向き思考を持つことになるわけです。

「千と千尋の神隠し」の、一番最後で白が「トンネルをぬけるまでけして振り向いてはいけないよ」と言ったのはこういうことなのかもしれません。
トンネルをぬけるまでというのは、私たちが一生懸命生きなくてはいけない時間で、その後は振り返って思い出すような時間があってもいいだろうということ。
一生懸命生きなくてはいけない時に振り返るのは「過去に捕らわれて前に進めないよ」と言う警告のように感じました。
後で振り返って笑えればいいじゃないか。って。
でも弱い私には難しい。
振り返る頃までにはもう忘れていそうで怖いし、過去にこだわらずにはいられない。
忘れることで生きていけることもあるのに楽しいことだけは覚えていたがる。
でも楽しいことだけを覚えていても私は生きていけないことも知っている。
時が止まればいいと思っていても成長しなければ良いとは思っていない。
時が流れなければ成長する事もないのに。
我が儘で自分勝手です。

「千と千尋の神隠し」を見ていて、「時」と言うものとともに私が感じたこととえば、やっぱり『完成されたもの』というものです。
私は同人をしてます。今は描いていなくても自分のオリジナルなものは描いていません。
そして題材は(と、いうんですかね?)は週間連載中のもので、完成されたものではないんです。
あ、『完成されたもの』っていうのは『完璧なもの』とは違うんですよ。
完成されたものには取り入る隙もなく、所詮私のやっていること(同人活動)というのは人の作品に難癖を付け、寄生しているに過ぎないと言うことを実感しました。
他人の作っているものをいくらいじってとしてもそれはその作品の『同人マンガ』でしかなく、その作品がいくらうまくても、感動させても『同人マンガ』でしかないわけです。

そして完成されたものをいくら好きになったとしてもその作品は感情を持つわけでもなく私に何を返してくれるわけでもないし、いつもは好きになったら『同人活動』ができるけど、『完成されたもの』ではそれも出来ない。
『完成されたもの』で同人しようとすればそれはマネになってしまう。
ホントに意味を成さない活動なんですね、本当は。
本当に上を目指している人はこんなことをやらずにもっと自分のものをだしているんだと思います。
私の意見ですけどね。あくまで。
同人は同人で意味があるものなのでしょうが、その限界が見えているという話です。

宮崎アニメはいろいろなことをさりげなく表現していて、本当にすごいと思いました。
でも本当に宮崎さんが表現したいことを私が感じ取ったのかというとそんなことは無いと思いますけどね。
所詮自分の感覚でしか感じることができないものですから。
感じる自分が偉いというわけでは全くないんですが、母と妹の何の考えのなさをみて、ホントに見る人にも『考え』というものを持ってもらいたいものだと思いました。


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