独白2
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『価値観と正しいこと』
世の中大変なことだらけです。疲れた… 今日のこのお題…書いたらもうここの裏の意味がないというか、ここを閉めるときに書こうと思っていたお題なのですが。 アホですね。つーかこのお題はきっと絶えず書き続けなければならないと私はおもうのです。(そして同じ事をいう) 社会と私の接点というか、私がここに生きている限り考えなければならないことというか、意識していなければならない事というか。 全ての根元とでも言いましょうか。 私がわざわざ今日書くというのもここが日記だからなのです。 考えが纏まらないのできっと何度も日を改めて同じ話をするかもしれません。 でも私はここを自分の日記だと思って書いていて、誰がどう思ってもエンターテイメントなつもりはないのです。(悪意はない)というかなってないでしょ。
さて、今日私が実感したのは本当にありきたりなことなのです。 この前妹がどうしてもといって泣いているところを見たのですが。 私にはこの感覚が凄く不思議で、親にも「オマエはホントにそう言うところないからなあ。執着というのはないわけ?どうしてもこれがやりたいってことはないわけ?」と言われました。 私もそのときは自分にはこだわること無いのかなあと思ったのですが。 ただ生きているだけだと思ってました。 だから問い続けてるのかなとか。
そんなことはなかったんだなあ。 そして自分の感覚はやはり他人には理解できたくて、私はいつまでもどうしようも無い人間だと言うことがわかりました。 私は正しいことが知りたい。 でもそれを考えると同時に正しいことなんか無いのだと思いました。 本当に。 私の中の正しいことは世に通用しないのでしょう。 私がいくら友達に誉められたとしても私が選んだ友達なのだから認めてくれる人を選んだに過ぎないのでしょう。 だから見ず知らずの他人の意見が欲しいのだし、批判も批判として欲しいと私は思うのですが。
何よりも私が欲しいのは真実であり、正しいことなのです。 そして例え私が他のどの他人にバカにされても無様であってもこれだけは絶対に正しいと思うことがあるのです。 他人に間違っていると思われても、私には正しいことなのです。 これは私が考えて出した結果です。価値観なんです。 私がいるから考える。考えている私は真実なんです。 それを放棄すると言うことは私の存在意義がないのと同じです。 それを放棄する事は私には出来ない。 無様でも頭が狂ったように見えようと。 私は妹と違った所で価値を感じているだけなのです。 どれが正しいわけでもない。大きな目で見れば。ただ私の中での正しいことはある。 ただ私が価値を置くところがわかるというような、執着するような場面が無いから無いと思うのですね。少し見えずらいところに価値があると考える。 結局は価値観なんですね。
でも私は正しいことをハッキリとわかっているわけでは無いのです。 「これだけは」と言う物が私の中にあったとしてもそれが何もなくなった私の真実かはわかりません。 無駄な感情を入れずに、それでも正しいことを事実に基づいて話したいし考えたい。 何より邪魔なのはプライドですね。自尊心。 私はこれをなくして、人の話をきちんと聞ける人間になりたいです。 でも人の話を聞かない人間の話は聞いても無駄な気がしますが。 ただそうやって思い込もうと(自尊心が)させている場合もあるので一応聞くには聞いた方がいいのですよね。 でも私はやっぱり未熟な人間で、完成されたものにはほど遠い。 ほど遠いから理由もなく(あるとすれば自分と違うこと)自分が正しいと他人に言えるのかしら。 でも口に出さないと本当に正しいと自分で思い込むことができない。(と思う時もある) ぶつかるくらいなら関わらない方がいいんですよね。 自分と違うことを言ってる人に対してバカにする必要なんて全くないわけです。 ただ自分と違うことをバカにしないとやっていけないんでしょうね。 私はそれを無くしたい。 そうすることでなにが正しいのかわかればいいのにと思う。 表では不思議に思うといっていてもバカにしているのでしょうね。 未熟です。 でもしたいことを全て出来るとは限らないし、努力も必要でしょう。
ただ私がそう言う姿勢をとっていても、私が一生懸命になっていても、他人は価値を感じるところが私と違うので批判はされるんでしょうね。 それが当たり前で、それに対して私が「理不尽だ」と怒るのは本当にお門違いなわけです。 それと同時に自分が常に正しいと言い張り、人に押しつけるのも全くのお門違いなんですね。 ましてや自分の中の優劣を優先順位を他人に押しつけて恩着せがましく物事を言い、人は平等ではないと言いきるのも私はおかしいと思う。(本人早く気付いてほしい。ここを見ることなんか無いだろうけど。言っても通じなかったしね。聞く気も無かったみたいだし) 人は確かに平等では無いでしょう。 ただそれは自分の中の順位であり、他人の中ですべてその通りではないのです。 人を地球規模で、宇宙規模でみて、人以外の何であると? 私にはそれがわからないし、小さな規模で(ましてや他人の順位)見た意見を正しいとは言いたくない。
他人が理不尽を受けているとき、私は私と違う意見だという理由から苛立ちとか見下す態度を取りたくなります。 でも私は本当はその態度を取ってはいけないのです。(よく我慢出来ずにする。私は未熟だということ) 他人がどうこうでなく、私が取ってはいけない。 でも、理不尽の対象が私ならば、例えば私が正しいことはないと思っていても、個人の問題だから、相手と私の問題だから自分の正しいと言うことをどんなに無様でも頭が悪そうにみえてもバカにされても言い続けるのでしょうね。 ここが私の執着すべき所で、喚き散らしてでもこだわり続ける所。つまり価値を感じるところなのです。
矛盾ですが。矛盾と私は思いません。 時と場合とでも言いますか。 やはり内と外の話なんですよね。 ただ内と外の感覚は個人によって異なる。
他人の大切な物なんかわかるわけが無いのです。 私がどうしても欲しかった言葉を、何故、あの人が言わなかったかと言うと、あの人の中で、あの人を構成するためにどうしても必要だった自尊心が、どうしても捨てられなかったのでしょうね。 私はその自尊心をどうしても無くしたいです。 自分の感情というフィルターを通しての見方は正しい物を見れないと思う。 でもそれと同時に私が人で、感情がある限り正しい事は見えないのでしょう。 見えたとしても私の中の正しいことなのでしょう。
他人に興味を持たれるというのは、より多くの人に興味を持たれると言うことはそれだけ自分と似たような(同じではない)人が多いということ。 その中にいるならば優劣、優先順位が出来ても大した問題にならないけれど、ひとたびそこを出ると感覚が違い、価値観がちがって衝突するのでしょうね。 必要なのは他人は他人であることをよく自覚し、常に気分良くいたいのならば自分の輪をつくるしか無いのだと言うこと。 人はこれを「井の中の蛙」という。 これは逃げなのですか?逃げることは悪いことだと?これはしてはいけないことだと? それは私には声を大きくしては言えません。 それが私の矛盾であり、不明解なところでもあります。 私は凝り固まった頭のくせに、井の中出ていこうとして外からの叩きにあうわけです。 賢くない生き方なのでしょうね。
正に人から見たら本当に「だからなんだ」というここの文も、私には意味のあることなのです。
ホントに肩懲りすぎで死にそうです。 連日連夜ずーっと飽きることなくパソコに向かっている私が悪いのですか。 悪いんですね…。パソコに向かっているくせに日記書いてないあたりが何とも言えません。 何をしていたかといえば表の日記にくっつけたようなふざけたものを作っていたのですけれども。 ネットの波に乗るのというのもまた大変楽しいことであります。 いやー…ハリーポッターって大変ですね。
ああ、それにしても本当に…せつないですね。せつないというか… 今日も私は住葉さんとお電話していたのですが、彼女はとても聡明なお方だと私は思います。 いや、聡明であるのか?そうであると私はおもうのですが、もはやそれすら疑わしい。 矛盾した物言いですがそうなのです。 私は彼女を聡明だと思う。 でも彼女を聡明だと思う私が疑わしいわけです。
哲学は疑うことからとは言いますが…。 まあこんな学問は本当にすこぶる(というのは普通通じないらしい。とてもと言う意味)意味の無いことなのですよね。 しかし意味のないモノでも意味はあるのです。 大きな範囲で見た場合は意味がないのです。 でも私はここの日記でわざわざエセっぽい哲学もどきな日記を書いている。 哲学をして真理を言葉で表そうとするなんてモノは無駄なんです。 ただ私がここにある。それが全てを現していて、それだけが全てなんです。
私がここに存在している。 ただそれだけの事を言うのに、私という存在が、感情が、能力が、体がここにあるということを言葉にするのになんの意味があるのか。 そこに体現している、全てはここにあるのに。 生きている意味を説いて、なんの意味があるのか。 答えは大きな目で見て無駄なんですよね。(ここで私は無駄と言いきらないで問いかけの形を取る) でも私には無駄ではないのです。 そこになんの意味があるのかは解りませんが、少なくとも私がこのことを問いつめると言うことは、私には意味のあることだということだと思う。 言葉で表すのはとても難しいです。 言葉で人(の全て)を表すというのは機械で人間一人を作る事よりも難しいのではないでしょうか。
例え話を。 言葉は機械です。人は人です。 機械で人を作るにはとても広い場所が必要です。それだけ人の体は効率よく出来ている。 そしてどんなに精密に、どんなに一生懸命頑張っても機械では(この場合生物的な部品は使わず鉄、ゴムそんなもの)人は作れないのですね。 当たり前です。基本的な素材が違うのですから。 要するに言葉では絶対に表しきれないということ。 でも例え人を作ることはできなくても、機械はそこにあるんです。 機能があるんです。実際に動くことができるのです。 言葉にそれは出来ない。 そこに体現する事すらできない。 そして元から違うもので現そうとする。 それはもう勝負はきまっているのですね。
『言葉で愛を確認しようともがき、結局、言葉に殺されたね』
今日ここを書く前にたまたま(というか毎日覗いているサイト様なんで…)読ませていただいた文にあったもの。 無許可なんですが…すみませんすみませんすみません!問題あったら消します。 話がそれましたが。 そうなんですよね。私は言葉に負けているんです。 私が頼っている言葉と絵。そのどちらも私に勝ものではないのです。 私の使う言葉は、私という体現するものの感情を全て表す事はできない。 言葉で感情を解き明かそうとして、結局負けてるんですね。 (使わせていただいた言葉の前後が必ずしも私の言うような話ではありません)
私が言葉を使うとき、わからない事、曖昧な事が出てきます。 私は仮説を立てるわけですね。 仮説です。合っているかもしれない。間違っているかもしれない。 でもどんどん進んで仮説の仮説、仮説の仮説の仮説といくと、最後にはなんにも残らなくなるんですね。 昔の人が精子(卵子かも)の中にはすでに完成された小さな小さな人が入っていると言ったのと似ていますね。 小さな人には小さな人が。小さな人の中の小さな人のそのまた中には小さな人が。 最後には結局なんにも残らないわけです。
でも私はここに体現しています。(無になるはずがない) でも私はここに存在しています。(人類は随分昔からいた)
無駄だとわかっているのに私の感情は私に言葉にする事をさせるわけです。 無駄なのに意味があるのですね。
人の言う意味のあることとはどのようなことを言うのか私にはわかりません。 ただ私の中には曖昧な「内と外」(この感覚は小野不由美の屍鬼を読めばわかると思いますが…私の大好きというか…影響されたというか。そんな作品です)という感覚があり、その都度意味のあることかどうかなどが決まるわけです。
また長くておよそ日記とは言えないものになってしまいましたが。
おもしろ題名から始まります。 隣で親父が納豆を食っています。 はー…なんつーか眠いですね。今日S籐さんに「夜に寝ると眠くならないよ」と教えていただいたにも関わらず昼間寝た。 だから眠いのかしら。
今日はアレですよ。 マンガ本買ってきたのですねー。 久し振りにBLですか?いや、前から好きな雰囲気な作家さんのなんですが。 初コミックと言うことで買ってしまいました。 そこに(と言うか本の題名)「いとしいとしというこころ」ってかいてあったんですよ。 それを私はそのまんまの意味で取っていたのですが、「いとしいとしというこころ」→「糸し糸しと言う心」→「戀(恋)」と言うことだったらしいのですよ! これはたまげましたね。 漢字って言うものには意味があるのだなあとか。 恋というのを辞書で引くと「恋しいと思う心」としか書いてなかったのですよね。 しかし漢字にはこんな意味があると。 そういえば「愛」は「心を受け取る」とか言うのも聞いたときありますしね。 昔の人は考えたものですね。
けっこう私は言葉遊び?というのかなあ。 そう言うものが好きなんですが、名前っておもしろいですよね。 いろんなものに名前が付いて初めて意味を持つみたいな? いや、どうでしょう。 意味があって名前が付くのか。
ということで本日のお題は『名前を付ける』です。
名前を付けるというのは、つけた時点で言葉の策略にはまっているように思います。 策略って変な言い方ですが。 なんていうか…言葉の限界? 私が普段一生懸命使いたがる(私に)「滑稽」と言う言葉。 この滑稽と言う言葉にしても、(ばかばかしくて本気で相手をしていられないこと)私が思う滑稽と言う言葉が、他人にそのままの意味では伝わらない。 伝えようと頑張って、言葉の意味を説明しても、その説明でまた新しく言葉を使うから、延々説明しっぱなしに。 あー。名前がついた感情ひとつも満足に使えないきがします。
同じ意味なのに何個か名前の付いてる言葉。 これもまたなんというか…。 これはニュアンスで微妙な変化をだしているのかな? どっちにしろ人の感覚で異なるわけですが。
名前を付けるという行為はとても安易でいい加減だとおもいます。 私はこの前本を買いました。 その感想とでも言いましょうか。感じたことなんですけれども。 例えば「コイツはバカらしいなー」と言う事も、ひとたび自分が思い込むために名前を付けたとする。 「愛おしい」とか。 そうすることによって、名前を付けた途端に「ばかばかしい」と見下した言葉は「愛おしい」と言う言葉にとって変わるのです。 いい加減ですよね。 山田詠美のいう愛おしいとは馬鹿馬鹿しいとか見下したような感情のような気がしてなりませんが。 それもまた私の感覚で感情に名前をつけているに過ぎませんが。
例え話をすると、名前というのはホットミルクの上に張った膜のようなものに感じます。 ホットミルクは個人の感情。カップは個人の体。 カップはいっぱい種類があって、ミルクは同じミルクでも成分が違うわけです。 でもみんな膜が出来る。 膜は名前で、みんな共通に出来るとする。成分は違っても。 感情があって初めて名前がつくわけです。 憎しみの感情も、本人がわけあって(例えばプライドだとか)愛情だと思い込みたい場合に出来る膜は愛情の膜なのですね。 同じ執着の感情も、個々のミルクの成分が判断基準だとすると出来る膜の名前が変わるわけです。 言葉と感情の境は曖昧です。 感情も言葉でしか言い表せないし思考も言葉で行われるから。 固まりかけのミルクは名前に入るのか感情に入るのか。 自分の話なのにわからないものですね。
なんだか今日も訳の分からないたとえ話と訳の分からない話。 だからなんだと言ってしまえばそれまでの日記(といえるのか)です。 言葉って難しいなあ。 私はいつも言葉の策略に落ちていて、言葉に負けている感じ。 無駄な勝負事なのかな。
測らずとも今日アップしたheisiの文となんかリンクしている感じ?? 彼女と私の感覚の違いがよくわかりますね。
今風呂場でピアスを落として大慌てでした。 つーか長いヤツだからって油断してました。 一応人からもらったものなので。
明日は早いので寝ようかとも思いましたがバナナがあったので食って日記書きます。 誰もバナナ買ってきてくれなんていってないのにー!(私ぐらいしか食べない) いや、食い物の大切さをもう少し噛み締めた方が良いでしょうね。私は。 つーかまずいものが嫌いなのではないのですが、やっぱ食べるのだったらおいしいものがいいのです。 当たり前ですが。無理にというか…お金無くても頑張っちゃうんですよね。 お金無いときはもはや食わない。…アホですね。 まずいものなんか食ってたまるかー! って思っているわけでは無いのですが、食わないと言うことはそう思っているのでしょうか。 これってやっぱりプライドなのかしら。
本日のお題は『自尊心』ですね。
私はプライド高いくせに人から否定されるのはそんなに苦では無いというふざけた矛盾人間です。 例えば「オマエのやってることは無駄だらけでオマエに存在価値なんか無い」とか言われるのも結構苦にはならない。 つーかむしろ興味を引かれる。 私の頭はこういうことに関してはとても優秀なのかはわかりませんが、否定されるととても都合良く解釈するというか変換するというか。 便利なものですね。 プライドは高いけれど手段は選んでいられないという現状からこうなると言うこともありますが。 否定の言葉も楽しいものです。(変態ではない)
私が苦手で、一番自分のプライドの高さを思い知るのはそんな事では無いんです。 私の周りには同人やってるせいか年上の人が少なくありませんでした。 と言うか私とタメか上しかいなかったんですが。 私は若い人が苦手です。 というか年下…。 苦手というかね、ホント自分のプライドって高いんだなーと思うのが嫌。 だからといって年下の人を見ないとか認めないとか言うことはないつもりです。 ただ、私が年下の人を見ないようにすることはたまにある。
私は見ないようにすると言うことが逃げと言うか、プライドが高すぎるというのです。 ウザイ。 カウンタの話でもそうですが、最も考えなければならないことは、私の歳や相手の歳、表に出ている数字などではないんです。 それをわかっているのに私のくだらないプライドから正しい(正しいと言うのもおかしいですが)見方ができないというのは本当にくだらない。 結果的には自分にも良くないです。
見えていないというと身内。 私は自分の周りの人たちが凄い人たちだと思っています。 でも私はくだらないプライドを持っている。 私は私の持っているプライドから正しい見方が出来ていないかもしれない。 プライドが高く、自分を特別と思うと言うことは、自分の周りも特別だと思うと思います。 自分が仲のいい人なら特に。身内贔屓ですね。 私は私が特別でないと言うことを知っています。 ただ、これは「他人にとって」私は取るに足らない人物だと言うことで、「私にとって」私は特別ではないといっているわけではないのです。 内と外。 知っていてもどうしようもなく、その結果身内贔屓が起きるんですね。 私がそのくだらないプライドから仲のいい人たちを正しく見ることができないというのは滑稽というか無様というか…失礼なんでしょうか。 近くて遠い。 赤の他人だったら本当に客観的に見ることができるんでしょうね。 自分が関わった時点でもう客観的には見ることができないんです。
私は身内の人を買いかぶっているんです、ということが言いたいわけではなく、私のくだらないプライドがあるせいで正しく見えていない(おかしな言い方ですが他に適当な言葉が思いつかず)かもしれないといいたいのです。 では真実とは?と言われると痛いですが。 人の感覚とは曖昧なもので、大勢の人がいいといっても全員がいいとは言わない。 真実と言うものはわからないものなのかもしれません。 少なくとも自分に対して自分が弁護していると(私は思う)いうことがある限り、自分のことであっても判断の基準が無くなるわけだから真実はわからない。 疑いだしたらきりがないですが。
真実に一番近いのは事実を見た他人の意見だと思います。 ただそれも近いというだけで真実では無いと思います。 個人の感情がはいってきますから。 必ず信じられるというものは、私がここに存在して、考えていると言うこと。 「コギト・エルゴ・スム」ですね。 そこにある。あると言うことは事実では無いかもしれないけれど、あると「私が思う」ことは真実だと。
ここでの私の落とし穴というかここが無駄なことの証明というか。 あると思うのは真実。 では何故あるのか。 そこを考えるから無駄な循環になるわけですね。 私がこう思う、といっても証明のしようがないから絶対に憶測の域を出ない。 私の中の真実は他人の事実にはなり得ない。 私は私の無駄な感情というか保護の感情があることを知っている。 だから私の中の真実が、私の中でさえも真実かどうか疑う気持ちが出てくる訳です。
きっとこうやって疑うことすら完璧ではないからこそなおさら。 無意識に疑わずに認めていることもある。気付かないだけで。それが何かはわからないからこそ。
どんどんお題を無視して話が進みます。お題をつけなきゃいいのかなー… あー…しかし倫理取っておけば良かったな。 本当に。なんで私のコースは倫理とれないんだろう。 つーか倫理って文系なのかよ!? 独学で勉強したいところです。
全ての事柄がハッキリしていなければ判断は出来ません。 私がすでに勉学(学校で学ぶこと)を放棄している時点で私の中での真実は既に見えないと言うことが約束されているんです。 全てにおいて中途半端。
ところでカウンタ回ってます。 ホントに私は自分一人で回す気満々だったので嬉しい限りです。 ありがとうございます。 堅苦しく無駄にありきたりなことを難しく書いている誇張日記ですみません。
結局昨日というか今日というか…寝ました。 ホントはここを書こうと思っていたのに寝て、学校行ったふりして、本屋行って、パン食べて今に至ります。 書いておけば良かったなー。 なんか12月はパソコンが壊れたり長期で家を空けていたりとあんまり書けなかったので頑張ろうと思っていたのですが、よの中うまく行かないと言うか、人というのはそうそう変われないのですね。
で、今日は本を買ってきたのですよ。表にもかいたのですが。 いやいや、マンガ本ではありませんよ。 久し振りに買ってちょっと嬉しいですね。本。 私は本屋にいるとホントに1日そこで時間がつぶせるくらい本大好きッ子の本の虫です。大分偏っていますけど。 でも読んだ本は少ないですね。好きな本を何度も読むのが好きなんです。映画もですが。あと好きじゃないとあんまり印象に残らないというか。 今日は根暗なくせにまだ読んでいなかったのかという太宰治の『斜陽』と前々から読んで見たかった山田詠美の『蝶々の纏足・風葬の教室』『色彩の息子』を買ってきました。 まだ全然読んでいないんですけどね。よかったらたぶんここで感想とか書くと思いますが。 まーなんて言いましょうか。 これは文庫3冊なんですが、ご飯をよく外食ですませ、(今日もジョ●ンのパンだ)なにかとお金をよく使う私はアホですね。 新潮文庫の本は安いですけどねー。 もっと私は貧乏だと言うことと金遣いが荒いと言うことを意識していなければなりませんね。
つーことで本日のお題は『意識しなくてはならない事』です。
私は本を読むのが好きなのですが、(クラスの中でも1番かもしれない、なんて)気分が乗らないと言うか、読まない時は本当に読まないんですよね。(でも活字に触れているのはパンピのこよりは多いと思う。なぜなら私はオタクだから) でも一定時期とまではいかなくても本がどうしても読みたくなる事があるんですよ。 そう言うときはホントにずーっと本を読んでいます。授業中は寝て、家でもバスの中でもずーっと。 それはある時は自然に、ある時は意識的に作り出されるような状態なのですが。
私は頭がとても悪いのです。 だから本を読む。 私は常に意識していなければならないことを忘れがちです。 私は本当に思い上がった頭の悪い人間であることを常に意識していなくてはならなくて、世の中にはたくさんの人がいるという事と、私の存在が絶対に特別になることは無いと言うことを意識していなくてはならないのです。 本を読むことによって、それを思い出して、私のこの足りない頭に新しい空気とでもいいますか。 新鮮な空気を入れることによって腐れかけた頭の中身をどうにか保っているわけです。
私は何事にも関心が少ない方なのですが、それでも自分なりに「井の中の蛙にはなりたくない」とか考えるわけです。 関心が少ない人間というのは今置かれた状況だけで満足して、井の中の蛙になりがちだと私は思います。 だから。私は本当は周りに目を向け、広い感覚で外を見るように意識しなくてはならないのです。 出来ていないのですが。
私は自分の性格、能力、思考から自分がいかに器量のない人間かよくわかります。 自分で限界を決め、臆病になるくせに、私はプライドばかりが高い。 それを意識しなくてはならない。 私は他人が虚勢を張るのを見ていると、とても滑稽に見えるときがあります。 というのは、気になる人間と気にならない人間がいるのですが。 私は私が虚勢を張っているのがとても滑稽で仕方ない。 だから常に自分を下に持っていくようなことを意識しなくてはならないわけです。 意識しなくてはそうやって持っていけないというのは、私がプライドが高いと言うこと。
自分が滑稽であることを他人に知られてくないから下に持っていっているのに、そこでプライドを覆い隠すようなことをしてればそれもまた滑稽だ。 結局は隠していることには変わらない。 ただ私は私が「頭が悪い」と言うことよりも、「プライドが高い、虚栄心が強い」と言うことの方が恥だと感じるわけです。 他人に言わせれば同じ事でも私の中では違うらしい。
何よりも意識しないといけないのは考えることです。 私は本当に頭が悪いというか感受性が無いというか。 何を見ても、何を読んでも考えなくては本当に無駄になってしまうわけです。 私は意識しなければ何を見ても大抵特に考えることなくようなボンクラ頭の持ち主です。(これは遺伝のような気がする) 全ての事柄は信じること、思い込むことから始まると(私は思っている)同じように、読んで、見て、それだけではなく考える。 そこから始まるんだと思います。 自然と良いものはよいと感じられる人が羨ましい。 私はそれを出来るだけの感性を持ち合わせていなかったみたいです。 だから自信がないのですね。 好きと言うことに。この話はまた後日しそうですが。 なんだかんだしていなかったリンクの話ですが。
私は裸の王様みたいな人間だと言うことを、ここで書くことによって更に意識するわけです。 意識してるから滑稽で、していないと身動きがとれなくなって、だから演技過剰のバカみたいになるんですね。 生まれつき頭が良くて感受性がつよかったらよかったのになーなんて無駄なことを考えてみたり。 考え方が違ったりこういう道を選ばなければ良かったなんて言うのも後の祭りですけどね。
取りあえず不幸に酔いたい訳では無く。 客観的な感覚で書いているつもりでした。 意識して。
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