独白2
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2002年02月09日(土) 昔日記

なんだか結構書くのをサボっていた気がします。
別にサボるとかサボらないとか関係無いんでしょうけど。本当は。
どうしたってここは自分のために書いているのだから書かなくなれば後で困るのは自分なのです。
どう困るかは解りませんが。
と言うのもここを(というか日記を)書くことの意味が私にとって明瞭なようで明瞭で無いからですね。
他の人はどうか知りませんが私は日記を書くのは日々のメモのようなものだと思っています。
私は物忘れが激しいので…

表の日記は主に行動を、ここは日々の出来事から思ったことを書いていっているつもりです。
別にポエマーな訳ではありません。(誰かに言われたわけではないですが)
ポエマーな日記って言うのは自分的に嫌です。
気持ち悪いというか…恥ずかしい??人の物も。
日記というものは個人の感情の現れであるのだから別に他人がどうこう言うモノでも無いのですがね、そうやって書いてる人は普段からそんなやって物事を考えているのかなあと思うと…恥ずかしいですね。
私は率直な意見というか物言いが好きです。
こういう人間は何か話を書くのには向いてないのかなあとよく思いますが。

話を書く人や漫画を描く人はみんな言葉が綺麗です。
つーか私が好きなのは大抵言葉が綺麗というか、わかりやすさよりも印象を残すような書き方をする人が多いです。
それと同じに多いのが、設定っていうのですか?
こういう話を描くための設定。設定があって話が成り立つのではなく、話を描くための設定を感じるものが多いです。
要するに必要性を求めているのですが。

でも人間を書くのならば大抵話がかぶるものなのですよね。
価値観の違いにより変わってはくると思いますがこれだけ昔から人について文や映画や漫画が描かれているのだから。
そこをうまくするにはよりうまい言い回しとか、設定のうまさとか。
つまり技術が必要になるわけです。
それが創作なんだと私は思います。

創作はいろんなものが昔からされています。
私はものを読んだり映画を見たりするのが好きです。
昔から人は自分の考えや意見、夢、希望などを形にしてきました。
それらのものがあるのにも関わらず昔から言われてきたことを私がわざわざ言葉にする必要なんかあるのでしょうか。
確かに昔のモノや、抽象的なものは解説がつきますが。
でもそのように書いたと言うことはわざわざ直接的な物言いからではなく感じて欲しいから作者はそうしたのですよね。

私が日記と言う名を付けてしていることは単なる解説に(しかも自分の)過ぎません。
私がしなくても世の中には今それを描くものが沢山でています。
私がしなくても。
そういうことは私が居なくても世界は全く変わらないんだということなんだなあと漠然と思いました。
悲観しているわけではなく。
特別になりたければいかにして技術を生かすかということと、どの技術が一番自分に合っているかと言うことなんですね。
でもどんなに頑張ってもダメなものはダメでしょうが。
なんの取り得もない人はいるものです。

世の中には必要のない人間もいる、と言いたいわけではありません。
私は要らない人間だとか、そんな逃げの言葉を言うつもりは全く。
人間には必要ない人間はいないと思っています。
個人レベルの話では居るでしょうがね。
ただ全ての人間の意義がそのままイコール価値には繋がらないとは言えると思います。

私がくどくどと言うことで得をしている人もいるかもしれませんが、それがお金になるわけではなく、私が居なくなればその役割を果たす別の人間が出てくるのだろうなあと思いました。
必要でない人間は居ないと思います。
でも人は必ずしもその人でなくても、その人と同じ役割をしてくれるのならば構わないのだろうなあと思いました。

今私を必要としてくれる人が私をいらなくなっても、(もしくはその逆も)新しい誰かが役割を果たしてくれるから要らなくなって、お役目が終わった私を誰かがまた要ると言ってくれるかもしれないし、今度は誰も必要としないような人間の役割かもしれない。
私がしなくても。
そういう言い方もできうるかもしれません。
でもそういうことではなく、自分がしていることを知っている人がいるのならば、それはその人の役割なんだろうなあと思いました。

長い上に訳の分からないこの文も本当に(言葉の上だけでなく)なにやら役割があると嬉しい。
私が書くことに意味が持てるようになったら嬉しいですね。


2002年02月02日(土) 昔日記

今日から学校ありません。
本当は昨日からだったのですが、私がアホなために今日になりました。
昨日(1日)は表でも書いたように雪が降っていて寒かったです。
私はコートを着込んでマフラーを巻いてまるで雪だるまのよう。
カッコ悪いですね。

で、今日(1日)は昨日から楽しみにしていた「ジャンヌ・ダルク」でした。
期待はあんまりしていなかったんですけどね、やっぱり声優違った。
朝新聞見たんでわかってたんですが。朴さん…
ミラ・ジョボヴィッチは松本利香がやるのが当たり前なんですかね?
でも「フィフスエレメント」が金曜ロードショーでやってたときは違ったんですよね。
まあそんな事はどうでもいいのか…でもカットされてた部分もありましたね。
ビデオ借りてこようかなあ。朴さんの声で「私につづけ」って。
かすれ声がやらしい。

内容。
この映画見るの3度目なんですよね。
好きなんです。何が?と言われると、救われるのが。
画面の彼女が救われることで、私も救われるかもしれないと言う希望がわいて、救われる。
信じる者は救われる。彼女が羨ましいですね。
「救うべきは体ではなく私の魂」と言う言葉。
色々考えると行き詰まるのですが、正にと言う感じ。共感はできます。理解はできませんが。
映画の結末は彼女が救われて終わり。だから好きなんですね。
何に苦しめられ、何から救われたのかというのはまあ人それぞれないけんでしょうが、私は私がそうだからでしょうか。
彼女は自分にある矛盾から救われたのだと思っています。
私にとって救いとは矛盾を許されることであり、希望とは矛盾をなくすことです。
それは本当にできることでは無いと思っていても、やろうとする。
もうここから矛盾は出てきているし、どうすることもできない。

どうすることで許されるかは人それぞれだと思います。
それがどうすることで決定するかはわかりません。
でももし、神が居ると仮定するならば、それは神が決めることであり、運命であり、生まれることから死ぬことに至るまで全て決まっている。
運命論ですが。
何をするにも自分が生きている限り自分の選択によって全てが決まっていくと私は思います。
どんなに自分で選択したとしてもその選択基準が神サマの決めたものならば全てはもう決まっていると思う。
私には居るか居ないかはわかりませんが。
いたとしたら救われる。居ないにしても救われます。
要はハッキリとする事が重要なのですが。

人は信じることができれば救われるのですが、(他人がどう思うともそんなことはわからなくなるのだし)それを信じるに値するものかを決めるのは自分です。
でもそれを決める価値観がすでに自分のものでは無いとしたら、救われるのも救われないのも既に決まっていることです。
許す者は誰か。
それは自分であり、自分を決定付けた神であると。
神が居るのならば。

リュック・ベッソン監督がどういう意図で作ったかは私には理解はできません。
でも私が監督の作ったジャンヌから思ったことは本当に単純なことです。
それ以外感じることもできないし、見ることもできませんでした。
彼女は理想を持って、理想と現実の間で信じた事との矛盾が生まれ、その矛盾をなくすために懺悔をした。
彼女にとっての救いは他人に許しの言葉を言わせる事なのだと思いました。
自分の矛盾を言い、それを「許す」と言われただけで許される。
それは神が決めた事であり、彼女が決めた事なのです。
すべてのことは行った時点でほぼ許されている。
全ては自分の決めた事なのだから。
でも救われるという意識を持つか持たないかは、ゲームのようなものなんでしょうね。

全てのことは自分の意志ではならないでしょう。
でも無意識に決められた事にもなにか必ず理由があるものです。
それが明瞭になっていないだけで必ず何かあると私は信じている。
例えば「神が決められた」と言うことも理由になっていると思う。
神が居るかは別問題なだけであって。

なんだかもう当たり前な事ばかり言っています。
でもこれは私の中で当たり前なだけかも知れませんが。
私は言葉にしなければ逃げていくような気がしてなりません。
だから書いています。
長い上にどうでも良いことですみません。

謝ることで全てが許されると思っています。
許されないと思うならばやっていません。
そんなものなんでしょうね。
それにしても言葉が…でないです。
言い出したらきりがないですしね。バカだ…


2002年01月31日(木) 昔日記

今日は全く寒くてかないませんでしたよ。ホントに。
もう2月になると言うのにですよ。寒い…
でも今年は特に雪が積もると言うことも無かった気がします。
年々少なくなる雪。地球温暖化ですね。
みなさん資源を大切にしましょう。
とか言いつつも私は夜中に電気を煌々とつけ、パソコンを使い、灯油ストーブをつけています。
なんたることでしょうか!!はあ。頭が悪いですね。

人に言うことは簡単です。とっても。
ただ自分ができているかと言われるとなんにも言えなくなりますね。
自分ができて無かろうとなんだろうと文句自体ならいくらでも言えますが。
そういうのは自分勝手と言うのでしょう。
自分にできない事を他人に任せて、それができないとバカにするのは。
自分にできないことを認め、他人に請い願う方がまだましだと私は思うのですが。
それは価値観なのでしょうね。

所で2月1日に「ジャンヌ・ダルク」があります。
私はこの映画好きなんですよね。好きって言うか…うん。好きなんでしょう。
つーか吹き替え誰がするんでしょう!ビデオのままがいいですよ。
私は朴さん?あの人の声すきなんですよね。
ホントに吹き替えで見たときあの後半とか。ミラ・ジョボヴィッチに合う人だと思うのです。うまい。
あの映画後半とか終わりとか気分が悪くなるような感じが大好きです。
いや、気分が悪くなるのが言い訳では無いのですが…。ねえ。
正に自分の御都合で。臆病な私は救われます。

長くなりましたが本日のお題。『臆病』です。

私はとても臆病です。実際は何に怖がっているのかわかりませんが、臆病なのです。
自分でここの文を書き始めたとき、書いてるとき、本当によくそう思います。
私はここで自分なりの真実とか、自分を形成するものは何かとか、そのまま感じたこととかを書いています。
その書き方の気持ち悪いこと。つーかもうホント詭弁。
結局私は私の見たいようにしか見れていないのです。
言葉はいくらでも誤魔化すことができると思います。
私がここで書く文は自分的に真面目にやっているようで、自分にもここまでは正しいと思い込ませるような文の書き方をしていますが、本当にこれは詭弁でひとたび見方を変えれば脆く崩れ去るような砂の城なのです。
私が「ジャンヌ・ダルク」を好きなのはそのせいなんでしょうかね。

見方を変えてみると。
私は自分でとても逃げ道のある言葉をよく使います。
私が辞書を持ってよく言葉の意味を調べているのは臆病だからです。自信がない。
そしていろいろな事に対する言い訳をしています。
全く持って自己弁護ですね。都合の良いことにしか気付かず、見ない。

私にとって他人の」の指摘はたいして苦になりません。
この言葉ひとつをとっても見方を変えるととてもおかしい。
何故、苦にならないのか。
それは私が相手を見ていなく、元から聞く気が無いからだと思います。
自分に都合の悪いものは無意識に都合のいいものに変換するようにできているのです。
つまりは逃げです。逃げている。
それは端から見たらとても滑稽で、でも臆病な私は滑稽であることを認めて口に出す。
「無知の知」と言う言葉があります。
この言葉を初めて聞いたとき私は何か得たような気がしました。気のせいでしょうが。
無知の知というのはソクラテスが知らない事を知っていると言うことは他の人寄りもすこしばかり賢いと言う話だったかと思うのですが。

無知であることを知るとはきっと私なんかが「自分バカです」とか言ってるのとは全然訳が違うと思うのですが、私は少しばかりこれを聞いて安心したのだとおもいます。
私は世間的に価値の薄い人間です。
臆病な私は無知であることを知っているから少しは賢いのかなという根拠のない思い込みをして、それによってプライドを保っている。
つまり自分が真に地を這うような頭の悪さで無いことをひけらかしているのです。
あまりに馬鹿馬鹿しい方法で自分のプライドを守っています。
自分で無知と言い、それによって価値を付けている。
だから他人にバカにされればそれなりに怒り、諦め、自己弁護。

ここをなんのために書いている?
要するに自分が無知であることの言い訳。責任逃れ。逃げ道。
意味はないと言いつつも(自分的に)意味があるという。
要するに自分が特別だと思いたいが臆病風に吹かれた軟弱者は大きく言うこともできず、ただの文字の羅列にたより、自分の口からでは言えない事を言ったつもりになって悦には入っているのです。
パソコンや、ネット世界をツールとして使えていない。
誰にでもでき、顔も見えなく、普段の生活を知る人はごく僅か。
臆病者ですね。

何故自分をこんな風に書くかというと、私は臆病者で、ここに書くことで言い訳をし、他から指摘を奪うためでしょう。
他人に言われると頭にくる。(理不尽な怒り)だから自分は自分でわかってやっているのだよ、と言うわけです。

誰か開き直りと認めることの違いを教えてください。


2002年01月28日(月) 昔日記

※載せようか迷ったのですが、未熟な私は載せてしまいました。
個人的な感情です。本当に幼稚な。

時間が無いのです。
時間がないとはどういったことか。アホなことを言っております。
要するに学校に行くまであんまり時間がないと言いたいのです。
さっさと書けばいいものを…どうせ大した日記でもないくせに…。
最近他人様の日記をよく見る機会に恵まれます。恵まれると言うか…。
いくらでも見ようと思えば見れるんですけどね、面倒くさがりとでも言いますか、数ある中で私好みの人の(なんだそりゃ)日記を探すのは大変なんですよね。
だから私はいつも好きなサイトさんの日記を読むんですが、最近はとってもおもしろチャットによく顔を出すようになったので日記読む機会が増えたんです。
なんだかんだ言って私は日記とか他人の文とか見るの好きなんだなあと思いました。
そういうことだけは関心があるというか。

それというのも最近いつも通っていたキルメニイさんのサイトは閉鎖だし(元々仮閉鎖だったんですが)マキダさん所も仮閉鎖、住葉さん所は日記が消えるしでホント寂しかったんですよね…。
キルメニイさんのサイトはホントはた迷惑なお方達のおかげでってことで、腹立だしいこと限りなし、ですよ。
日記サイトさんを回っていたりするとよく見かける言葉汚く罵られたとか叩かれたとかそういう話。
今日もチャット覗いたら「精神系の日記はきもい〜」とかいうお題があげられてたとか。
そういうモノを見てると世の中割り切らなくてはならないモノが沢山あるもんだなあと思います。

つーことで本日のお題は、『割り切らなくてはならないこと』です。

私はいろんな事を割り切って考えてる方だと思うのですが、それはやはり至らないことづくしです。本当に。
割り切って考えなくてはならないと言うことは割り切れていないと言うことなんですけどね。
バカって言った方がバカだというのはバカの相手をすると言うことはその人本人も程度が低いんですよ、と言うことなんだと思いました。
昔の人は凄いなあと思います。そして私はバカなんだなあと思います。

下手にプライドが高いと言うことはとても無様ですね。
真にプライドの高い人間は非難と言うことをしないんだと思います。それの相手をすることすらバカだと見下しているから。
要するに叩かれた場合は見下す態度を取るととても合理的なんですね。
非難する方は相手にされなくて飽きる、非難された方は向こうが程度が低いんだと思ってプライドも保たれるし被害者になり得ると。周りは同情してくれるし。
そういうところはけっこう割り切ります。私は。
下手に出たからと言ってどうにもならないですしね。
自分という者は。ただ真摯な姿勢を演じることは重要だと思います。
この場合される方は他人に迷惑を掛けていないのが前提ですけれども。

でもそれは自分の身になったときのも有効なんです。
私が割り切らなくてはならないのは私が他人によって楽しみを貰っていると言うこと。
私はあくまで受け身です。消費者はあくまで受け身だと思います。
要求はしてもあくまで作る人の自由だから真に自分の欲しいモノを求めるならば自分で作るしか無いと言うこと。
それを怠る者はそれで我慢しなければならないし、そうでなくても消費者には「選ぶ」と言う権利が与えられている訳です。
それ以上を望むのは我が儘なのでは無いでしょうかと私は自分で思っています。

でも至らない私は正直に言います。

なんでやめるのかなあ?悪いことしてないと言うのならば誰に何言われてもやめないでよ。なんで私の楽しみをとるわけ?私が見ていると言うことよりも期待していると言うことよりも叩かれないと言うことが大事なの?それを認める認めないにしてもやめると言うことは見ていた私も程度が低いということ?

ホント無駄にプライドが高いです。無駄です。合理的ではありません。
昔のことにこだわる、無いものをねだるというのは。
人生は長いです。厭なことも沢山あるでしょう。
でも割り切って、うまくかわして生きていくのが合理的かつ理想的だと私は思うのです。
例えば気に入らない教師相手にもヘコヘコするのも賢いです。
それが出来ない人間が、どうして出来る人間をバカにできるのでしょう?
できないのなら出来ないで悪いことはないです。
ただ割り切って出来る人間は賢い生き方が出来る柔軟な人だと思います。
人を見下すのもまた完璧ならば合理的でしょう。
見下すというより憐れむ方がさらにいいと思います。
相手を憐れむ事で相手は利益を得ているからです。
喧嘩においてなら無駄な言い争いをすることもなく、例えば介護ならば面倒を見て貰えます。
憐れむ自分が好きだ、もしくはなんて感受性の強い…、それを思う人が介護するべき人に対し優しく接することが出来る。
結果相手は介護して貰い、自分は気分に浸れているわけです。
確実にいいことだと私は思うのです。自己完結。全てはそれだけに。

人によって価値の置き方が違うのはわかっています。
だから批判されたサイトさんの中には批判されないと言うことが、否定されないと言うことが他の事よりも価値のあることだったんでしょう。
「私を憐れむな」と怒る人も憐れまれて得ることよりもプライドの方が価値があったのでしょう。
人の価値観はみんな人それぞれです。
それをきちんと割り切らないではうまくいかないんですね。
私は未熟であることを知っています。割り切るべきなんです。私は。
世の中必要でないものはないと思いました。社会的悪もまた必要悪なのですね。

うまくいかないものですが。
批判的態度を取る人が低俗だと言いたい訳ではありません。
批判的態度を取る人を低俗だと割り切った方がうまくいく、ということです。
私が求める答えはきっと0か100なのです。
全てを捨てるか、全てを取るか。


2002年01月25日(金) 昔日記

なんつーかやはり寝っ転がって本を読むよりもパソコンに向かっていた方が肩は凝るみたいです。
ここ4日位寝てばかりでパソコンにも比較的少ない時間しか向かい合ってなかったので少し楽になりました。(もちろん当社比)
しかしまあなんて言うのですか。落ち込むとは言いません。逃げることばかり最近しています。
考えることの放棄。たちが悪いですね。
そんなやってぼけーっとしてるから麦茶を股間にこぼすんですねえ。
なんて間抜け…。ここのサイトの運営もなんか全て私が悪いのかなあとか。
まじめぶったところで糞の価値も無いです。言葉が悪いです。
別に私は真面目なつもりはないです。
どんなに一生懸命したつもりでもあくまでつもりであります。
あとから見ると穴だらけです。
最近はここを書くとき辞書を片手にですよ…
頭悪い…

最近シャーマンキングの17巻を買ったのですよ。表に書いたかと思うのですが。
やっぱりおもしろいのですね。最近のジャンプもかなりアンナが可愛くて仕方ない感じですし。
最近の、と言う言い方もどうかと思うのですけれど。ねえ、S籐さん。
アンナは前から可愛かったです。マンキンは前から凄かったです。
話がそれましたが。こんな所でこんな話をしても全くの無意味なのは知ってるんですが…つい。未熟。
で、武井さんは凄いと思うのですよ。凄いんです。
おこがましいというか、思い上がった話をさせていただくと、私が彼を凄いと思うのは、彼の描く主題?テーマ?(同じだし…)人生観とでもいいましょうか。が、私の持っているモノと同じである。
しかし私も持っているそれらのモノを、彼はきちんと世に出している、私はそれが出来ていないだけであってつまりは同じなんですよ。
凄いと思うのは私の延長線だと。
思っていると思うのです。

全くふざけた話です。

数日前の日記に書いたとおり、私は大きく見て人が不平等である事はないと信じています。
しかし、それは(言い訳じみた言い方ですが)大きく見た時であって、世の中、社会、それらを通じての感覚では無いのです。
上に書きましたとおり、私はおこがましくも武井さんと信条が同じであると思っています。(それは私の感覚で、彼の作品を見ての印象であるので、信条が同じである訳はないと知りつつも)
その信条が、本当に真理であり、真実であると言うことはありません。
少なくとも私はそう思っています。
しかし、その信条から描かれた作品が世に出て、多くの人がその作品に価値があると考えているわけです。
私もその中の一人であり、価値を認めているし、同じ事を思う。

でも私の書くこの文が同じ価値を持つわけでは無い。

なぜなら人は社会の中で平等では無いからです。
あれが悪い、これがいいというのではなく、人が社会適応性を換算したときに、価値が変わる、つまり平等では無くなるのだと思います。
才能、努力、そのようなモノがあって価値が生まれる。
価値があると言うことはお金になる、お金になると言うことは一人で生きていける。だから一人で生きていけると言うことは良いことと言われるのではないのでしょうか。
「生きているだけで価値がある」とはまわりまわって(他人の助けが必要だとしても)「価値があるから生きていられる」と言うことなのかなあと思いました。

でも人は生きている間に職を選ばなくてはならないし、先細り人生というか、どんどん選択の範囲が狭まるにつれて価値を感じることも少なくなるのでは無いのでしょうか。
私は今、選択の範囲をまた狭めるような立場です。
狭めたことにより価値のあるモノを育て、一人で生きていくためのモノを取得するべく学ぶわけです。
学んだモノは社会的に価値のあるモノで、そのモノに比例して貰えるお金が違ってくる、つまり私の価値が決まるのです。

それと私は随分前から絵を描き、文を書くことを選びました。
でも私はこれを社会的に価値のあるモノにしようと思っていません。(つまり職にする気は無いということ)
私はこれをお金に換算出来るモノではないと思うからです。(それだけのモノではない)
でもそれを表現する事に私が価値を感じている。社会が価値を感じていなくても私が価値を感じているわけです。

社会的に私は武井さんと同じ訳ではない。
彼の作品は社会的に価値があり、私のものは私的に価値がある。
人は社会に入ってこそ価値が(値打ち)が決まるのだなあと思いました。
たとえ信条がきちんとしてようとも、才能、努力が加わってできあがったものにだけ価値が生まれるのです。だから凄いと思う。
社会の価値観もかなり曖昧ですがね。

若さというのは本当に怖いと最近思います。
冷静に見つめる、信条を固めることにより頭が固くなろうと、限界を感じようと私は不安感からそうしようとする。
いろんな事に興味を持ち、若い人から見るとこれがつまらない人間なのだなあと思いました。
私もかなりの未熟なものですから若いと言えば若いのですけれども。
夢と若さは比例の関係なのかと思いました。


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