独白2
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今日はホントは学校のある日なんですよ〜。はは。 いや、今日(16日)行って、18日卒業式で終わりです。制服のある学校生活。 あっという間でしたね。10代の時というのははやいですねえ。
つーか今日ビューティーコロシアム見てたんですけど。 私もでたいなあ。いや、まじめな話なんですけどね。 私は自分の意志がとっても弱いので誰かの責任でないとうまくいかないみたいです。 ああ、駄目ですねえ。思いっきり足りてない。 足りてないんですよ。本当に。(言われなくてもわかる) 何がって言われるとなんでもといいたくなりますけれど。 人のことがうらやましいと思います。ねたましいとも思うし贅沢だとも思います。 人のことばかりです。自分のことではなく。 こういう時即物的になりますね。手ー握って欲しくなるとか。 それでも「これじゃないあれじゃない」といって終りでしょうけれど。
S籐さん、私は精神系を目指しますよ、ここの日記で。 って言うかもう元々そうだと思っていますが。 リスカしてしまったとかもう死にたいとかは言いませんけどね。 そんなことを思ったとしても人が見るところで言ってどうするんだという感じです。 それよりも私が足りないことを自分で言って自分で馬鹿にして誰かに許してもらおうとしているところのほうがよっぽど気持ち悪い。 要するに『誰か』は誰でも駄目で、神様いませんか?といいたいわけですが。 住葉さんに神様神様言ってたら意外といわれましたが。
とにかく足りないんですよ、いろんなことが。 時間もそうですが。時間。 こんなにもてあましてるのになんで足りないかというと私がいつも考えている時間と言うのは案外短いんです。 とりあえず今は4月10日までのことを指しています。 そういう感覚しかないんですね。近くのことしか考えていません。 老後とか学校卒業したらとかそういった予定とか目標とかないんです。 だから足りない。いくらあっても足りないんですね。 目標がまったくないわけではありませんが、それは私がなりたい人のことであって私がなりたいことではないんです。 人に成り代わることができるかっての。 それにもうそれだと遅いんです。その人達(複数だし)は私の年代ではもっとましなことを考えていたと思うし10にも近かったと思う。
足りないと思うのは私が他人に期待しているからなんだと思います。 過剰な期待ですが。別に対象があるわけでもなくただ自分でない人に対しての期待です。
私が楽しくないと思う。面白さが足りないんだなと思う。あの人は楽しそうだなと思う。あそこにいったら楽しいだろうと思う。 でも当事者は楽しそうではない。ああ贅沢モノだな。なんでうまくやらないんだろう。
誰かが私にその状況を与えてくれたらいいのに。
なんて傲慢なことも平気で考えられます。 足りないから分けてくださいって感覚ですね。 気持ち悪いなあと思っても考えないようにはできてないんですよ。私の頭は。 許してますからね。私が、私を。 私が自分でそう嫌悪することで自分で自分を嫌いになって?嫌いになっても自分は自分で?ああ、結局これがしたかったんですねってこと。 自分は自分なんだから諦めましょうね、ってさ。 そうでもしないと切ることもできないなんてね。いつだってそうですね。
本当に悪いと思っているときはしないものです。 それと同じに本当にどうでもいいことは頭に浮かんでこないということです。 ということは私が本当に学校をどうでもいいと思っているのならば今日(15日)「ああ、明日学校あるなあ」なんてことを思い出しもしないということです。 結局私は「若い」ということと「学校生活」ということとか。 回りの大人がすでに持っていないことを持っていることで優越感を感じていたんですね。 自分もいずれなくなるものを大喜びしてるなんて馬鹿みたいだ、とか言いながら、元々足りない私からさらに足りなくなるのが屈辱だったんでしょう。
結局時の流れだからとか何とか言いながらこだわっている自分が気持ち悪いです。 そういうことを平気で言えるのが凄いですね。 昔はきっと言えなかったんですよ。時の流れだから〜とか。 大人になることが「できないことが少なくなる」と思っていた自分はやっぱり凄かったんだと思います。 「できないことが少なくなる」んではなくて、「できないことは最初から欲しがらない」ということだったんですね。 やりたいこともなくなりますよ。臆病で。 でも臆病な人を甘やかしている人を見ると少なからず頭にきます。自分も甘やかして欲しいくせに。 甘やかしている人を見るとね、「アンタはそいつを甘やかすことで何かを得てるんですよ。それは優越感ですか?それで満足?」とか。 こうやってどんどん足りなくなるのにもかかわらず、新しく得ることもないです。 なぜなら私が、自分で、得ようとしないから。 怖いとか、嫌だとか言うのはどんなときでもわがままだと思う。 でも同じく欲しいとか寂しいとかいうのもどんなときでもわがままだ。 私が今欲しいのは甘やかしだけれどもそれは許すことではなくて罰に値することだと思います。そこら辺プライドが高いというかなんというか。 欲しい欲しいということは誰でもできます。誰でもできるけれどあまり人が欲しがらないものを探してそれを欲しがって自分を特別視するのはどうでしょう。 そうやって言うことで自分の言わせたい言葉を言わそうとしているのはどうでしょう。
最近自分と人との距離のとり方がいまいちわかりません。 最近気づくなんてとっても遅いんだろうなあ。 というか人と自分の接し方、理由、合理性、道徳性、世間体とか。 そんなことばかり考えるからわからなくなるのかな? いや、そんなのオタクやってるからわからなくなってくるんでしょうが。 なんせいわゆる恋愛感覚のおかしなところだからね。 ああ大笑い。 何がおかしいんでしょうかね。
もう少し、でもいいので愚痴じゃない努めて第三者を目指した言葉でいろんなことが話したいですね。 元々ない統一性というか、辻褄というか。 そんなものが最近特に皆無です。テーマを決めようかな。また。
ところで引越しのために片付けしてたら昔の日記が出てきました。(これはもっていきます…) そこに「恋がしたいですね(口調はこことほぼ一緒)」と書かれていて大笑い。私はどうも人に依存したがりなようです。わかっていたけど。 まったく成長していなくてなんだか泣きたい気分ですね。 自分を哀れんで。状況はまったく改善されないのに。あっはっは。
本当に久しぶりな日記です。 私は昔から日記を書くのは大好きだったんでこんなに間あけてしかも再開するなんて不思議な感じです。 書かないときは丸一年ぐらい書かないんですが。今までの状態では。 というかあんまりここは日記書いている気がしないんですよね…だからかな。でも日記って感じがするから表面的には毎日書かなきゃっては思うんですが。
突然ですが(さっきS籐さんとは話してたんですが)私は最近恋愛したいんですよ。レンアイ。 神様がどこにいるのか本当にいるのかわからないんならせめて恋愛がしたいんです。まあすぐ飽きるんでしょうが。 今はKOI☆がしてみたいんです。 正直なところ私は今まで恋愛したことなかったんですよ。 本当に。友達同士でそういう話をしたときも(小学生)周りの子が「○○君が好き〜」とか言うのにあわせて「私は○×君が好き」とはいっていてもすでに「ああ、自分思い込みで好きって言ってる」とか思ってたもんで。 恋愛したことありません。したいんですが。
なんでこんな話を言い出したかといいますと、表ではよく言っていたんですが今「ホイッスル!」好きなんですよ。 だからいろいろなところ回っているんですが。 中学生のことだからですかね?みんな恋愛恋愛って。 友達と恋人の区別はセックスするかしないかだと信じて疑わなかった私には友情が恋愛に変わるってのが不思議で不思議で。 恋愛感情なんて思い込みに他ならないと思う反面、それに依存できるのがうらやましく思いました。
今の時期はなんといっても別れのシーズンなわけですよ。 別れのシーズンに女子高に通っていた私には何のコイバナもなく。 別れて惜しい人も特にいないわけです。だいたい別れるからなに?って感じ。 本当に縁がある人にはこれからも会うだろうし会いたいと思う人にもこれからもあえると思うので。 会うのが大変になるね、とかならわかるんですが今生の別れみたいに思う人の気が知れません。 まあ卒業式に泣くというのは別れになくんじゃないんでしょうけどね。 時間の流れの節目だから泣くんでしょうが。でもそんなこといったって時間は毎日いつでも今でも流れてるんだし。 そんな時の流れにいちいち涙してたら毎日泣いてすごさなきゃじゃんと思うので私はきっと泣かないでしょう。 ちなみに卒業式は18日なんで春コミ行けません。はあ…
そんなこんなで私は今むしろ別れというより「切る」ということが大変なんです。 卒業式は節目なだけであって別に通過するただの風みたいなもんで。 そんなことから連絡をぱったり取らなくなるということはないんです。 だから「切る」。これからまだ付き合いたい人には連絡を自分から取る。そうでない人は切る準備。そういうことです。
興味を持っただけの人はね、切りやすいんです。 「好きな本がありました。でも一回読んだし、好きだけどまあいいか。荷物になるし諦めよう」でおしまい。 いつの間にか一緒にいた人はなかなか切れないんですよね。 あるのが当たり前でないのが不自然。 そういう人は興味があるから寄ってったってわけでもないみたいです。いつの間にかそういう仲になっていったと。 気づけば好きも嫌いもあんまりなくて、いつでも切れるのに切らない。だらだら続くような人。
そうじゃないんですって。恋愛って。 恋愛はいつでも興味を持つとかじゃなく唐突にひとつの物に10置けるらしいですよ。 それがうらやましいんです。 結局は思い込みでも、(少なくとも私はそう思う)10置けるんだったら凄いうらやましい。 実際のところは何でもいいんですがね、私は0か10になりたいんです。
「視野の狭さは夢中を生きるものの特権」
もうこればかりです。 うらやましいしねたましい。 みんなある程度夢中になれるものが欲しいから恋愛するんじゃないんでしょうか。夢中になれることが安心なのか、視野の狭さが安心なのかわかりませんが少なくともそういうものに依存していることは確かだと思っています。 スポーツ、勉強、仕事、それから恋愛。 特に恋愛は他のことをするよりもお手軽で?一人じゃないから安心で?誰でもできるわけで。 私はそれじゃあ足りなかったみたいですが。 でも足りないのは私なんでしょうかね? やろうと思っても夢中にはなれなかったし。 10にはなれませんでした。 まあやろうと思っただけですぐなれるもんなわけないんですが。
今の私は10でもないし0でもないんです。 たいていの人はそうでしょうが。つーかどっちかの人はいないと思うんですよね。10に近い人、0に近い人はいても。 10か0に近ければ近いほどいいと思います。0でもいい。 10になるには視野の狭さが必要で、だから特権。 じゃあ0になるにはどうしたらいいんでしょうか。 私は0か10じゃなきゃ意味がないんです。 だから恋愛じゃ足りなかったんです。 でも今言う恋愛は10になる恋愛のことなんですよ。 神様がいるのかいないのかわからないなら10になる恋愛がしたかったんですよ。
さっきから言ってるのはどうも抽象的過ぎるような気もするんですが。 10か0というのは、なんにもないか、なんでもあるかのことを言っているんです。 何でもあるというのはまず不可能なんですが、もし自分に見えているものがたとえば恋愛だったとする。 知識では他のものがあっても恋愛しか見えてなかったら。 10になれないこともないと思うんですよね。 きっと私みたいになんでもほいほい切っちゃうような人間には無理なんでしょうけど。少なくとも他人に10置くのは。
なんとなく夢が見たかったんですよね。 プライドの高い人間には難しい。 とりあえず恋愛は。 他のことも一生10に近づくこともに近づくこともないでしょうが。 0になろうとしているくせに10も欲しがっってたら無理です。 意識しないでも10を欲しがらなくなるよう無意識を心がけましょう。 表面に現れない意識の重大さ。
新しいパソコに向かってやっていると今までのパソコと色が違うということをよく思います。 この日記の色も微妙に違うし。ピンクだよう〜。
なんだかんだといいつつもものすごく久しぶりな感じがいたします。 実際最近ここ書いていなかったんですけれども。 書くことがないというだけなんですけれどもね。 私はどうも人より鈍感なほうなのかもしれませんが考えるきっかけになるものがなければ考えることもないし、刺激がなければ腐れるばかりです。 でもみんなそんなもんかな?よくわかりませんが。
学校がないです。勉強もしてないしためになるようなわかりやすい書物も読んでいません。ためになるようなわかり易い映画も見てません。 いろんな意味でいろんなことがそろそろ限界なんだと思います。 飽きっぽい性格なんで。だから駄目なんですね。 今まで気に入っていたものとか、好きだといっていたこととかそういうものがある時いきなりどうでもよくなるなんてよくあることです。 人に対してが大抵そうですけど。 「痘痕も笑窪」ってやつですかね? 私が普段好きだ好きだと言っている大抵の事柄は「ああ、馬鹿だね、要領が悪いね、不器用だね、そういうところが好きだなあ」ってやつなんですね。 自分で考えるとホント吃驚するほど当てはまるからおかしいですが。 そういうことがね、ふとした瞬間どうでもよくなるんだなあ。
笑窪に見えてたものが痘痕に元通り。 なんでそんな風にいきなり変化すんだろうと思うのですが。 最近はなんとなくわかった気もしないでもないです。 要するに私は面倒なことがしたくないと思っているんですね。 笑窪に見えても実際は痘痕なわけで、色々面倒なことには変わらないわけです。元々飽きっぽい性格ですし。 結局満足すればそこまでなんですよね。満足したらその先はないわけで。後は下がるばかり。 人生山あり谷ありというかそれしかないというか。
それとまあ何ですか?私って意外にロマンチストよね、とか。 大笑いしちゃいますけどね。プライドは高いわ夢見がちだわ自意識過剰だわで大変なんですよ。実際色々と。 自分がニコニコニコニコ笑いながら幸せそうになるのが嫌なんでしょ。 馬鹿みたいに大したことない事でグチグチ考えてみたりしている自分に酔いしれているわけですよ。幸せって言うのは馬鹿に見えなくもないですからね。
自分って色々考えちゃうのね。あら凄い。私って少し不幸かもしれないわ。こんなこと考えちゃうなんて。でもそんなこと気にせず頑張るワ。
自分の気分を多少よくするためには少しの不幸とお膳立てが必要なわけです。 その役目は友人にやってもらうとして、不幸は自分の都合で思い込み。 そんなの大したことじゃないでしょ?とか言われたらそうだよね。私おかしいよね。とか言ってみたり。 内心では「こんなこと気にするのは私だけなんじゃない?私ってトクベツ?だったら気づかないあの人って低俗?」なんてね。
気持ちよく一人で自分の作った他愛もない不幸に酔いしれてみたり。ついでに興味をなくしたとか言って面倒くさい事柄から逃げてみたり。 でもそういう人間ほど『逃げる』という言葉を使わなかったりしてね。 ああ、でも逆に大きく使用して言い逃れを作るのもいいかもしれないとか思って実行してみたり。 大笑いなほど滑稽さ加減を前面に押し出して独りよがりに「何でこんなことしてるのかしら。何で私生きてるのかしら」とか考え出して、後々思い出しては自分で自分を罵る材料にしてみたり。
世の中無駄ってないもんですね。すごいなあ。 都合のいい頭というよりも人というのはほとんど無駄を作らない生き物なのかもしれない。とか考えて、そういう人の生きてる世界なんだからそこからしてもう無駄のない世界なのかもとも思う。 そういうくだらない日々の空想から自分の欲しい答えを自分で出しては「こうじゃない」といってまた悩む。悩むのはいいことらしいですよ。 考えるのもいいことらしい。逃げるのはよくないとかね。 こういう定義はどこから来るんだろう。 少なくとも逃げるのは駄目だというのは一生懸命逃げてもゆっくり逃げても結果的に極めれば死んでしまうからなんだと思うのですが。 死んだら終わりなんですよねえ。死んだら元も子もないって言いますが。 そんな事言ったって必ず死んじゃうのに中途半端は駄目なんですと。
もうすぐお客さんが来ます。 そしたら私はこんなこと考えもしないでその人に対応し、そんでもってその人が帰ったらまた一人で部屋に篭るか風呂に浸かるかして「私って不幸ね」と思うわけですね。 延々それの繰り返し。 大抵のことは飽きたり面倒くさくなったりするのになんでこういうのってやめられないんでしょうね。 仮定となりますが、こういうことは本能という名前で呼ばせていただきたいですね。
毎日毎日寝ては食べて食べては寝ての繰り返しです。 外では雪が降っております。昨日も降っていました。今日も降っています。 毎日寒いらしいです。でも私がそれを感じるのは布団から出たときと風呂に入るときくらいなものです。 少し外にも出ますがね。ほとんど出ないです。 そんなもんだから腹の肉が今つかえて大変です。座ってると。 そのまま温泉に行くと思うと涙が出ますね。つーか1週間切ったし。 楽しみですねえ。することしないのは相変わらずですが。
相変わらずといえば最近特に頭がとろけそうです。 なんにも考えていないと言うか…いや、別に考えていなきゃいけないことは無いのですが。 ないってのも悩みがないんだなあと自分でのんきだと思います。実際のんきだ。 悩みがないのは良いことだとは思いますが(無駄に疲れることもないし)なんて言うのですかね、どんどんアホになっていくような気がしてなりません。 つーか元がアホなのでこれ以上アホになることができるのかもまあ疑問なのですが。 やらなきゃいけないこととか考えなきゃいけないことを放棄しているような気がしてなりません。
ということで本日のお題は『逃げる』です。
逃げてばかり?私の人生ですか。冗談ですが。 いやしかし、悩みがないのが悩みだなんて笑えないですね。 実際の問題は悩みがないのではなくて頭が悪いことなのですけれども。 頭が悪いのが悩みでも、頭が悪いのですぐそのことを忘れるんですね。鳥のような頭の持ち主です。 すぐに忘れるのは私の性分なのか、私の中の護身法なのかはわかりませんが、どっちにしてもあんまり歓迎できるようなことではないのです。 私は無駄にプライドが高いんです。 あんまり直な言い方もアレなんですが、普段私と関わってくださる人たちは(学校の友達ではなく)普通に話してくださるけれども私よりも数段上の人たちなのです。 私は常にそれを片隅でも良いのでとどめて置かなくてはならなくて、(自分が後で恥をかくからなんですが。そういった意味でプライドが高い)どんなに仲良くなっていただいたとしても自分は仲良く「して貰っている」と言う認識を忘れてはいけない訳です。 いっつも忘れていっつも思い出して「ああそうか」って思っての繰り返しですが。 言い訳をすればそんなずっと意識していたら仲良くなんかなれないのですけれどもね。
まあ簡単に言いますと、その「忘れる」と言う行為が私的に「逃げている」と言うことになるのではないのかなあと思うわけです。 私は逃げることは悪いことではないと思っています。 そういったことはきちんと妥協というかなんというか…それこそ逃げているのでしょうが承認するんですよね。 でも、私は逃げることを無意識にするのはあまり好きじゃないんです。 逃げるときは効果的によりよく逃げる!そのためには認識していることが大切なんでしょうね。というか恥かきたくないのです。 まあ逃げるということの定義も人それぞれですが。 常に人に言われる、指摘されたときに開き直りではなく「そうだよ」と言いたいと私は思っています。(自分的にそれで解決!頭悪ー。非生産的です) そのために私はいろんな事から逃げているという認識をしておきたいのです。 認識したって逃げは逃げだって話ですが。でも別にそれで良いんです。 私は逃げることを承認しているんですからね。
ただ自分が承認しているのだから他人には何も言うべきではないのです。 私は私が逃げることを承認しているのだから、他人が逃げて私に被害にあったとしても「しょうがないよね、もっともだ」といって容認しなくてはならないわけです。 それができないのならば「逃げていることなんか一切ない」と自信を持って言えなければならないような人間になるべきだと私は思っている。 なんというかまたしても小野不由美ですが、 「責難するは容易い」 この言葉なんですよね。 逃げることを承認して、責任から逃れている私を、どちらも完璧にこなしていない誰かが責めたとしても私には意味を成さない言葉です。 同時に私が発する言葉も、本来意味を成さない言葉になるんですね。 それを分かっていていうのだから自分のことを棚に上げて「逃げている」わけで、私的にそれを解っているならばまだマシ、わかっていて言わないならとても良いということ。
涙が出ます。とよく私は書きますが、これもまさしく逃げですね。 涙が出たからなんなんですか。なんで涙が出るかって? そんなの自分かわいさに決まっているでしょ?あら自分かわいそうね、ってやつですね。 自分の努力は棚に上げて他人が自分より容易いと思って(そうであることもありますが)自分は恵まれなくて可哀想ね、ってやつです。 自分もですが泣くのはずるいなあと思う。世間の認識的に。昔言われたしね。 同じ逃げでもそういうずるいことはなるべくなら他人にはしたくないものです。私がですが。 自分一人で浸ってるのならば後で笑えばいいですけどね。いつも恥ずかしいと思ってますよ、私は。(でも繰り返す)
結局私が逃げることを承認して、承認しているから他人も許すべきだというのはあくまで自分のためなんですね。 他人を助けて、「ありがとう」と言って欲しい。そういうものと一緒なわけです。 別に誉めて貰いたいわけではありませんが。どっちも自己満足だと言いたいだけで。 私が自分を承認しているから他人も承認しますよ、私の言葉はとても軽いんですよ、とかいうのは他人からは解らないのです。 だから最低限の世間の常識がないと生きていくにはだめなんですね。
そこでなんで生きてるのかなんて言ったらまた無駄なループですが。 そんなのは個人の解釈の仕方次第ですよねえ。NARUTO…だから私にはよくわかりませんが。なんなんでしょうか、岸本サン。きっと価値観違うんでしょうね。 なんでって言うのは「生まれてきたから」と言う事じゃ理由にならないのかなあ?と最近は思うようになりました。(逃げ)
アホなくらいする事もないですね。 する事無いと逆になんにもする気になりませんよ。 時間がありすぎると言うことは全くないにも関わらず時間を浪費する私ですが。
今日も元気にパソコに向かっておりますよ。 ホント毎日毎日飽きもせずよくやるものですね。 そのくせやらなきゃいけないとまではいかなくてもやった方がいいと言うことは何一つできていないのだから本当に不思議なものです。 topを変えたり部屋の掃除をしたりエロ本処分したりしたいのですよ。 部屋のほこりがたまって汚いのですね。 気まぐれに漫画なんか描いている場合ではないのですが。(しかも糞つまらないときています) 同じパソコに向かうと言うのでも仕事をしたほうが良いと思います。
でもまあ口で(文ですが)言ったって始まらないのですね。 こうやって口ばっかりは達者なのは私がそういう人間だからなのでしょうかねえ? ところでこういう人間とはどういう人間なんでしょうか?
ということで本日のお題は『定義』です。
今日もアホな前置きですね。 とにかくお題は定義なんですが。 定義とは言葉によって物事をハッキリさせるとか、そういった意味だったと思います。 例えば私を表すならば「怠け者で口ばかり達者な人間」と言うことになるんですね。 でもその中に使われている「人間」と言う言葉。 この言葉の意味はまあ一概には言えないわけです。 そこで出るのがこの「定義」なわけですが。
この定義と言う言葉自体を普段使わなくてもこの言葉は常に働いているのだと思います。 それも個人的な感覚、価値観によって。 悪いことだと言いたいわけではありません。 と言うか、これもまた迷惑な感情というか解釈をしてしまう原因だと私は思っています。 物事に関する定義とはどこまで決めるべきなのでしょうか。
私は「怠け者で口ばかり達者な人間」です。 これは私が決めた、私の定義です。 こういった個人的な定義というのは決めやすいとは思いますが必ずしも正解ではないわけです。 なぜならこの定義は人によって変わってくるからです。 人によって変わってくる定義を元に考えていくとなると、それはまったくもって予想、仮定と変わらないんだと思います。 万人が認める定義をつける、まずはここから始めることが正しい事を見つけることに繋がるのではないのでしょうか。と私は思う。
正しいこととは万人に認められる事柄です。 例えば人間についての定義。 人は生まれて死ぬ。とか、男と女がいる。とか。 万人が認めるとなるとそういうことしか定義付けられないのです。 私は人間についての私の独自な(とまではいかないけれど)定義を持っています。 この定義とは私が言っているだけで万人が認めるわけではないのです。 人についての定義で、私は「人は自分だけのためにしか生きられない」と言うことを考えています。 でももしかしたら愛情は自分へのものだけじゃなく、本当にあるものかもしれない。
相手に優しくする、結果自分も嬉しい自分も満足。ではなくて、相手に優しくすることができるのが人間です、と言う定義の付け方もあるわけです。 これは見方を変えると、と言う言い方と正に同じなわけだから定義付け=仮説に結局なってしまうのでしょうね。 そうじゃない定義とは結局人は一概には言えませんよ。とか。 つまり解りませんと言う結果しかないんですね。
個人的な定義付けはつまり諦めだと思っています。 割り切ること=諦め=定義。そんな関係なんだと私は思っています。 なんだかんだと色々書きましたが結局結論がこれ。 …溜め息が出ますね。 色々やってみても結果が出なければ意味がないのが私的世の中の定義です。 これも間違っているんですかね? 言葉で表せるのはごく小さな事柄だけだと思います。 だから本が好きなんですかね。 物語は本当に小さな世界です。世界。なんだかんだいっても作者が神様。神様が居ると言うことは『絶対』があるんですよねえ。 そういうことが日々羨ましいです。
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