独白2
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2007年01月27日(土) Energie

エネルギーというものは厄介ではあるが、無ければ全く動けないものでもあるわけで
私のなかにも常にあって、常に何かに変換されて、ぐるぐる廻っているわけです
世界はエネルギーが廻っていて、私の中でも廻っていて、世界は巨大な歯車のよう
と、いう事を考える

エネルギーは金と同じだね
止まったエネルギーなんかきっと価値がない
私の中に溜まったエネルギーも価値が無い
私の中に溜まった思いというエネルギーは常に何かに変換され、外に出ている
けれども内に溜まったエネルギーには価値がない

私から人へ、人から人へ
人の関連性がそのままエネルギーの流れで、エネルギーに溢れている人はより価値のあるものである
誰もがエネルギーを求めて価値のある人間に集まる
その人間はエネルギーを自分の中から変換し、発散し、それを皆に渡して、みんなはそこからまたエネルギーを作って、別な人に渡していく

さて、そうなると人の中身の何が一体そういうエネルギーを作り出しているんでしょうか?
人のエネルギーは想いから、というのであれば、その想いの発生源はなんなのでしょう?
想いがあるから、エネルギーが出来るのか
エネルギーがあるから、想いが出来るのか
卵が先か、それとも鶏か
そういう話になってくるわけですね

私的見解ではありますが、私はエネルギーがあって、想いがあると思っている
人の感情というのは確かに膨大なエネルギーを生みますが、それ以前に世界はエネルギーで溢れている
想いが先にあるという考えは、人間中心でおかしい
なんて思うのです


どうでもいい話だな


2007年01月21日(日) 冬は恋の季節なのかな

最近の自分を見ていると、たぶん私は恋をしているのかもしれないと、判断する
一般的に言う恋とはどんなものか、よくわかりはしないが、きっと私の今の状態を言うと、人は私に「恋をしているのね」というと思う

大多数がいうのであればそれは紛れも無く恋というものなのかもしれない
が、その対象、その方向性とも言うものがなんとも曖昧で、雲をつかむようなものである


簡単に言えば一人の人に思いを馳せているとういうのが現在の状況です
人は恋をして、相手に思いを募らせるといいますが、私の場合もそれに該当するのかはよくわかりません
ただいえることといえば

私は相手に対し、どのように接すれば私に興味を抱いてくれるかという事を考えています
私は相手はどのように世界を捉え、また世界に対しどのように折り合いをつけているかを必死に考えています

もし相手が私に近い思考を持っているのであればそれは容易であるし、また、近い思考を持っているのであれば私が惹かれるのもうなずけます
私は自分を嫌悪すると同時に、自分に似たものに惹かれている
愛憎は表裏一体とはよく言ったものであるが、私の中では本当に、正と負、どちらも同じであるのだと思う
だから私に似たものを求め、私は私を嫌悪し、私に似た私と同じような部分を求め、同時に殺意を抱く
そのような物を欲しているわけです

恋をしているというのは
現段階ではまだはっきりとは判断がつけられてはいないのですが、もし、相手が私の求めるような人であったら
こういう思考、嗜好、志向
しこうを持っているのなら、私は私の中のプライドと、信念に折り合いをつけ、言い訳をして求めてみようと思うからです

そのためにも、いかに自分に興味を引かせ、いかに自分の求めるように動いてくれるかという事を常に考えてしまう
どうすれば近づいていけるのかどうかと考える
けれども、きっと私は相手が自分の求めるしこうを持っていないのならばその場で興味の対象からはずしてしまうのだろうと思う
こういう事が、愛情、恋慕の終わりとして一般的にいう醒めてしまうということなのだと思う

だから私は今恋をしている
私には、私に似たしこうをもち、私が大切にしたいと同時に、殺したいと思うほど
それほどの執着を見せるような相手が欲しいです
恋と執着の差は良くわかりませんね
私の感情はむしろ恋というよりは執着といったほうが適切だと、思います


その期待を持っていられる相手が、今いるわけです


誰にも言わず、この恋がうまくいったのならば、5年前に終わってしまったものが、また得られるかもしれないという期待
なくしてしまった粘着質なドロドロとした執着心
それに伴う感情の揺れ
感情の揺れに伴う鋭敏さ

普段私は感情が抑えられないということはあまり無いのです

それを得た時の陶酔感、苦痛と共に訪れるその陶酔感というのは、酸欠の脳内のようでとても魅力的に感じます
感情に振り回されて、自分のやっていることしか見えなくなる
そんな瞬間
瞬間をそのままに、終わらせたい


2007年01月06日(土) いまさらながら

年が明けました
今年は年女です
めでたいのかめでたくないのかわからないですね


祖父母と母と干支の話になりまして
妹は寅年なのですが、何気に五黄の寅だそうで
気が強いかは不明ですが、私はあの妹とはかかわりたくないとは思っています

家族仲は悪くはないのですが、日常的に人とかかわるに当たって分類する
仲良くなりたい
そこそこ付き合っとくべき
関わり合いたくない
どうでもいい
の分類でするのならば、他の家族は大体「そこそこ付き合っとくべき」になりますが、すぐ下の妹は「関わり合いたくない」に分類されます
まあどっちにしろ今は気ままな一人生活なので、家族は関係ないのですけどね


今年も始まってしまいましたが、今年も何をしようという気持ちもなくて困ったものです
年をとったので時間がたつのが早いなあ


2006年12月28日(木) 12/26

年の終わりになると特番が増えます
その中で多いのは犯罪24時みたいなやつで、今日もそれを見ていたわけです
おじいさんのマンションで

本当に…このじいさんに関してはなんとも言葉がでないというか…別に知識的な話をしていたりする時は全く気にならないし、たまに勉強になったりもするわけですが
基本的に仕事じゃなければ絶対関わりたくない種類の人間であるのです


私の基本は他人は他人、自分は自分で、矛盾は激しく嫌いなんですが
一貫性に欠ける事が大嫌いで、それを無くしていきたいのです
ので、じいさんみたいに一貫性に欠ける発言はとても苦手だ
さらに、じいさんのようなプライドと選民意識は大嫌いなのです
自分が選ばれた人間であると考えるのは確かに優越感があっていいのだろうが、それを他人から見たときの滑稽さ、そして自分との価値観というか、崇めているものの違いというか…
例えば宗教人には神から、俗世的な人からしたら権力者、というような自分を選ぶものの違いによる選ばれた人間の不理解さがどうも一貫性がないと感じるのです
選ばれたものという意識は、本当に万人が、誰からみてもあからさまでなくてはならないと私は思ってしまうのです
普通に考えて無理な話なのですが、それを完全に出来ていないならするなとそう考えてしまうので好きではない
世界の役割と選ばれるということは違うと、私は思っている
ただ、世界の役割も選ばれて与えられたといえない事も確かで、そこらへんの曖昧さもまた苛立ちというか…気持ち悪さのひとつです


話が脱線したが、じい様の選民意識とプライドの高さ(それも大嫌いである!)といったら半端ない
私からみるとどうみてもいきがっているようにしかみえない
そんな事を本人の前でいったら下手したら殺されるのかな?と思えるあたり金の力とは凄いですね

くだらない選民意識とプライドを持った人間は他人を嘲笑して、不快になる発言が多数で気分が悪くなります
私は暴言や愚痴はいいたいやつは言えというタイプですが、基本的に「でも私は聞く気は無いから」とつきます
いいたきゃいえ
それでも私の前で聞こえるように言うのならば、せめて「自分を棚に上げて」の発言をするなと
無理な話ですが
愚痴とは自分を棚に上げての発言が基本だからです


全く私にも言える事でもあるので、私もなるべくなら愚痴は言いたくない
うっかり言ってはしまうのですが


そもそも自分が選ばれた人間であるという優越感は誰が出してくれていると思っているんだ?
他人が全て自分と同じようになったら不満なくせに、その優越感を出してくれる存在を、気分をよくしてくれる存在をあからさまに馬鹿にするのが不愉快です
どうみても価値観が違う私に同意を求めるように話し掛けるのも仕事だと思うのでへらりと笑うが、正直同意しかねる事にはうなづきたくない
それは矛盾した行動をとりたくないというところからきているわけだが

仕事としてサービスを提供し、なおかつ自分の基本理論を崩さずにいるにはどうしたらよいのだろうかな
と、頭が悪い私は考えるのです
解決したためしはないのですが


それにしても自分だって倍以上(倍よか3倍にした方が年が近い)のような私を格安で長期飼っている癖に売春してる女、買ってる男を馬鹿にしてるって物凄く滑稽だ
自分で言っていて恥ずかしくないなかなと不思議に思うのです
自分の事をいっているの?と


まあ年齢も年齢なので男尊女卑なのは仕方ないのですがね
私のヘタレ男好きはその男尊女卑の意識が物凄く根深く根をはっているからなのですけど、よくまあ耐えられるなあと自分で思うのです
でも自分の中で折り合いはきちんとついてるから耐えているのでしょうがね
お金の力とは偉大だ
金が全てをなんとかしてくれる
金というものの、価値が生まれる瞬間は不思議だ


たにんのふりみてわがふりなおせ



考えていたのはそんな話ではなかったのにいつの間にかこんな話に
自分の低脳さ、醜さ、矛盾加減、全てに頭がきます
けれども後生大事にこんなやってぐだぐだ生きている
これはただ、本能がそうさせているのだとおもいたい


2006年12月18日(月) 判断は難しい

何をするにしても判断というのは難しい
自分の希望と、判断基準を読み間違えると面倒な事になる
わけで

どうしようも無い事ってあるわけです
いい訳ですけど
何かしたいなあと思っても、出来ないっていうのは、もう自分がすでにやる気が無いってことなんですよね
だから、やりたいなあと思っていても出来ない
その場合、したくないという気持ちの方が、したいって気持ちよりも強いわけです
だからしたいと思っていることも、無意識にしたくないを選択しているのでうまくいかないわけです

意識していることと無意識というものの齟齬はとても人を混乱させる
けれども、自分が実際どう行動したかによって、無意識の希望を推し量れると思うわけです
通常 無 意識というくらいですから、意識しない希望というものはわからないわけですが、最終的に自分がどう行動するか
それによって自分の 無 意識を初めて認識するわけです
という事は意識するという事は常に過去に関してしか発生しない事柄なのかもしれない
なんてことをふと思った

いい訳ですけど

今日は会社を遅刻しました
この自分への前フリはつまりはいい訳なんですけど
元々行きたくなかった
けれども月曜日というのは通常どの曜日よりも忙しい
それはわかっている
でも職場には自分が行かなくてもさしたる差は無いと思っている
自分がそれほど役に立っているとは思いがたい
忙しいとわかっているのに、どうしようもない事情などないのにサボるのはとても感じが悪い
それも理解しているけれど、行きたくもないし、自分が行く価値がそこまであるとは思えない

というような無駄な思考を繰り広げていて、最終的に自分の無意識の希望としては行きたくない、に落ち着いた
ので、寝坊をした

一度おきていて、再度寝た時にうすうす起きれないだろうということはわかっていたわけですが、それでも寝たので、もうそれは間違え様もなく行く気が無かったわけです
でもその後会社から電話があった時には、他人の感じる自分の印象を優先させたのでそのまま会社へ行きました
行ってしまえばきちんと働くのですけどね

正直な話、何事においても100%責任がもてないなら、生きている事をやめろというのが最終的な目標なのですが、さすがにそこまで完璧には行きません
9割は達成できるように頑張ってはいるので、その後の判断としては、もうこのまま行っても今の職場で緊張感を取り戻せるという自信はまず無い
だからやめようと思う
出来ないことはしたくない


潔さは大切だが、私のようなダメな人間は結局は何も出来なくなるだけだと思う
それを逃げというか、潔いというかは他人の判断によるのである

判断を間違えたとすれば、そういう9割達成できなければしないという意思を決定した時点ですでに判断を間違えている


この決定をしている時点で、どんなに自分が綺麗に生まれても、どんなに頭がよくても、所謂幸せな条件をたくさんもっていたとしてもすでに生きる事には価値を見出せないと思った今日


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