あたろーの日記
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2006年12月11日(月) 『お針道具』。お手玉。記憶装置。

 旧暦10月21日。
 『お針道具』(宮尾登美子/新潮文庫)を読む。
 この人の、若き日の苦労、暮らしを大切にする姿勢、物書きとしての気構え、すべて、頭が下がる思いで読んだ。読んでいて、自分独りの気ままな日々の生活さえいい加減で疎かなことばかりの我が身が恥ずかしい。年長けた人の、昔と今を較べてあれこれ言うのを、私はいつもうんざりした気持ちで聞いたり読んだりするのだけれど、宮尾登美子という人が書くのならば、もう、無条件で納得するしかないような気がする。この人は、自分自身に対して、裏表無く生きてきた人なのだから。
 今の私の境遇が、どんなに恵まれたものか。また私がそんな幸せにも気づかずに、どれほど日々だらしなく過ごしていることか。ほんとうに、背筋がしゃんとしてしまう、この人の文章を読むと。
 懐かしい、お手玉について書かれた章があった。世代は違えども、私にも同じような記憶がある。もう亡くなった祖母が、私の幼い頃、毎年のようにお手玉を作って送ってくれた。年の瀬に、佐渡に住む祖母から届く荷物。佐渡の米や餅や野菜と共に、孫の喜ぶのを知って、縫い物の得意な祖母が作ってくれたお手玉がいくつか入っていた。縮緬や木綿の端布を彩りよく縫い合わせ、中身はいつも小豆だった。この小豆は、多分、祖母が畑で自分で育てたもの。夏に父の実家に泊まりがけで遊びに行くと、祖母が自宅からしばらく歩いた場所にある、小高い丘の中腹の小さな小豆畑に行くのに、たまについて行った。小さな小さな畑だった。時々自分の畑で採れた野菜を朝市に売りに行き、慎ましく暮らしていた祖母だったが、その畑で採れた小豆を、私がいつもねだって作ってもらったお手玉の中に入れてくれたのだ。お手玉の中に小豆を入れるというのは贅沢なことだと母が言っていた。だから大事にしなさい、と。「お手玉の音は、やはり小豆がいちばんさわやかで、サクサク、サクサク、と鳴る音を聞きながら」と、宮尾氏の文章にもあった。小豆が手に入らないときは、ハトムギの実や砂や米だったそうだ。当たり前のように私は手にしていたけれど、いつも小豆を入れてくれた祖母の気持ちを今になってしみじみ想う。
 その畑に行く途中に、いかにも村の神社、といった感じの神社があって、境内の杉木立の中に、能舞台まであり、時々雅楽の音色が聴こえてきた。佐渡では、人々の暮らしの中に、能が、自然に融け込んでいる。世阿弥が流された佐渡は、のちに佐渡奉行大久保長安によって能の島となった。
 私にとって、お手玉は祖母の思い出と結びつき、丘の中腹の小さな小豆畑と、木立の中の能舞台に繋がっていく、なんとも不思議な記憶装置である。


2006年12月10日(日) 『書物漫遊記』

 旧暦10月20日。
 今日も1日布団の中で過ごす。溝口健二監督の映画『残菊物語』を京橋のフィルムセンターに観に行くのを前々から予定していたのに、泣く泣く断念。いったんは出掛けようかと迷ったものの、自分は風邪を引いてちょっと油断すると、回復まで人の二倍時間が掛かるのだということを胆に銘じて、我慢して寝ていた。
 布団の中で『書物漫遊記』(種村季弘/ちくま文庫)を読む。先日読んだ同氏の『贋物漫遊記』同様、最近復刊された本。外出を諦め布団の中でふてくされてながら読み始めたものの、いつのまにやら種村ワールドの住人になってしまい、容易に抜け出ることが出来ない。古今東西の書物に絡め、氏の懐からパッパッと手品師の如く次々と取り出してみせる、本当か嘘か分からない逸話や怪談奇談の数々。『贋物漫遊記』で免疫が出来たのか、『贋物・・・』よりもスムースに愉しめた。布団の中で私は、新宿の怪しげなアパートの住人になり、ドイツの田舎の村に行き、乱歩のパノラマ島に夢馳せ、吉田健一の短編小説の一場面に入り込む。
 そういえば、最近やはりちくま文庫で2冊読んでとりこになった書き手に久世光彦氏がいるが、種村氏と久世氏はお生まれが2年しか違わない。1933年と1935年である。おふたりの随筆を読んでいると、戦争の足音がまだ聞こえてこない時代の、人々の心や街の往来に、余裕とか夢とか浪漫といったものが残っていた豊かなひとときに幼い時分を過ごしたのだなあ、という思いがする。戦後に生まれた作家と、戦前に生まれた作家では、明らかに異なる何かがある。それは戦争体験に基づくものではなくて、戦争前の日本を知っているか知らないか、に基づくもののような気がする。
 種村氏も久世氏も、もうこの世の人ではない。種村氏は2004年に、久世氏は今年、お亡くなりになっている。生まれたのも亡くなったのも、2年違いというのは、なんとなく、何気なく、不思議な感じがする。


2006年12月09日(土) 『わたしたちが孤児だったころ』

 旧暦10月19日。
 1日中寝ていた。頭痛と喉の痛み、だるさ。食欲だけはあります。
 布団の中で『わたしたちが孤児だったころ』(カズオ・イシグロ/入江真佐子訳/ハヤカワepi文庫)を読み終えた。帯に書いてある「ブッカー賞作家による至高の冒険譚」というのは、ちょっと違うんじゃないか、と思った。もちろんアクションなど無い、冒険でもない、ロマンスでも、謎解きでもない、もっと違うもの・・・。たぶん、わたしたちはみんな、孤児だったんだ、いや今でも孤児なんだ、と思う。懐かしくて大切な、幼いあの頃をもういちどこの手に掴もうとすればするほど、失われるものは大きく、自分が孤独であることを今更ながらに知り、深く傷ついていく。
 今夜も早く寝ます。明日は外出無理みたいで、がっかり。
 


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