浪漫のカケラもありゃしねえっ!
DiaryINDEXpastwill


2003年05月03日(土) 予期せぬ出会い

こじらせてしまった風邪と仕事の時間帯の都合やらなんやらで、なかなかネット巡回もできない今日この頃である。
うう、ミケランジェロ描くところのデルフォイの巫女さんのよな、頑丈そうな健康なボディがほしいよお。(アレのモデルはヲトメではなくヲノコなのは、もちろん承知のうえで言ってるのさっ(^^;))
友達から健康食品の通販に誘われる。ワラにもすがりたい気持ちになっとるんで、付合いもあって申し込んでしまったぞい。ちょっと高いんだよなー。効いてくれればよいけどのお。
イソジンでのウガイと消炎トローチだけでは今回の風邪は乗り切れなかった。ひさしぶりに飲んだ風邪薬の効き目はよかったけどね。関節痛むもんだから、サロンパスだらけだったし。寒気のする肩に温熱タイプのシップを貼ると、けっこう緩和されることを発見。
天気とともに体調も回復してきたけれど、まだノドがいがらっぽい。ゲホゲホいいながら煙草やめねーからかもしれないな。

今回は、派遣された職場のかたわらにTVが置いてあって、音声はほとんど聞こえないけれど映像が働いてるところから見えるんだな。朝っぱらからBSなんぞ目に入ってしまう。
おかげでひさしぶりにイチローやゴジラ松井にお目にかかる。松井って、太った?
まー、元気でガンバんなはれや。あんたたち自身の手で、未来を切り開いておいでや。
それはいいんだけどさ。夕方になってから、予期しない映像に出会っちゃったんだ。
。。。。BSにはMotoGPの放映があるのを忘れていたよ。第2戦のダイジェスト。
黙祷する仲間たち。戦いの後の記者会見。ともに時を過ごした仲間が失われたことへの思い。彼らの表情の中に。彼らの言葉の中に。
ひとりの人が消えてしまった空白が、大きな心の穴が、静かにかき鳴らされる弦の響きのように、哀しく鳴っていたよ。
続いて、加藤大治郎の追悼特集。トップランナーの再放映のようだ。
ああ、彼の顔を、笑顔を、こんなところで見ることになってしまった。胸がつまる。立ち直るまでの数瞬を、だれにも話しかけられずにすんだ。仕事の途中でなかったら、思いに浸っていたかもしれない。

放映日程や時間帯など覚えていなかったから、いきなり避けていたものを突きつけられる思いがしたよ。
仕事をこなしながら、私はただ、じっと見とれていた。見つめるしかなかった。
MotoGPは、彼ら2輪ライダーたちのライディングは、マシンと一体となった彼らの走りは、たとえようもなく美しかったよ。
人の運命を飲み込んでも、それでもなお、うっとりするほど、美しかったんだ。


2003年04月23日(水) 追悼特集

24日夜、NHKトップランナーで、加藤大治郎追悼特集が放映だそうだ。

....オレには、見る勇気がない。

書店で、セナを表紙にしたF1誌を目にする。
まー、WEB広告画像で知っていたけどさ。
でかい判の誌面を手に取ると、そのインパクトは大きい。中身もまた、セナ一色だ。
怒りで、侮蔑で、暗澹たる思いにかられる。
何故に今もなお、アイルトン・セナ・ダ・シルバなのか。

セナ個人にうらみはない。彼を愛する人達を貶めようという気持ちもない。
オレは彼を知らない。彼が消えることでこの世界に残った大きな空洞を通して彼を知るのみだ。
これは、この感情は、毎年3月に音楽誌の表紙をランディ・ローズが飾ってしまったときに感じるのと同様の、とても個人的な反応でしかない。
怒りを、侮蔑を感じるのは、それを表紙にすることを選んだ商業誌の商売っけに、であり、それを選ばせた世の中の趨勢に、である。
栄光は「今」ではなく「過去」の中にあるのか。
語るにたる存在を、生きてある人々の中に見いだせないのか、と。

彼らの死は、悲劇だ。
彼らは、その絶頂期に不幸な事故で命を落とし、彼らが築いたであろう未来を断ち切られた。
彼らの死は、そこに残された人々に大きな心の傷を残し、後にまで続く変化と波紋を生ぜしめた。
彼らの死は、ひとつの時代を語る切り口である。
それでもなお、彼らを英雄に、伝説に、神話にしてしまうことに、どうにも我慢ならないのだ。

語られるべき死者は、彼らだけではない。その思いもこみ上げる。
彼らだけではない。道半ばにして、失われていった人達は。
大好きな人、崇拝するような思いを抱いて、その人生を見つめ続けた人が失われる痛みを、喪失感を、オレもまた知っている。
知っていて、それでも、残酷な言葉が口をついて出てしまうことを止められないんだ。
ちくしょうめ、すでに死者の列に入った者達が、こちらの抱いた理想を裏切ることはないんだ!
ちくしょう、どれほどいっしょに生きたかったか。英雄などと名づけられない人生であっても、失望を抱いて苦笑いすることがあっても、どれほどいっしょに老いたかったか。いっしょに時代を歩みたかったか。
ほしいのは、英雄じゃない。伝説でも、神でも、天使でもない。
生きて悩み、苦しみ、それを乗り越えてともに微笑み、同じ時を刻むことが、どれほど大切で、どれほど輝かしいことであったか。

....逝ってしまった人々を思う。
彼らが忘れられていくことに、耐えられない。
彼らが偶像とまつりあげられることにも、侮りを受けることにも耐えられない。
なにを言われようと反論する手段を持たない彼らが、彼ら自身の真のありようを明かすことはもう出来ないのだから。
それを受け入れることは、彼らが現在にではなく、歴史の中にある存在となってしまったことを、受け入れることなのだ。
....そして、オレの心は引き裂かれる。
そして、オレは、怒り狂う。
オレ自身もまた、書くことでなにかを理想化してしまっているのだから。
ドラマが、歴史が、多面的な分析が、美意識に貫かれた画面や文が、好きでたまらない面をもっているのだから。

数日前、ひとつの命が、ひとりの未来が、失われた。
それが悔しい。それが悲しい。
それが、いつもより私を過敏に反応させているのか、とも思う。


2003年04月20日(日) サンマリノGP/大治郎、逝く

帰宅して地上波放映を待ちきれずにネットをつなぎ、ネット観戦の今日。
ライブタイミングでレースをチェックしながら、シューマッハ兄弟の母の訃報を知る。

彼らの苦悩、彼らの悲しみ。
その胸に抱く思いがどのようなものであろうと、レースは続く。
F1サーカスは巡り行く。
彼らとともにひとつのもののために力を尽くし、彼らが闘いとることを渇望する人々がある。
あまりにも多くの人々の思いが、その肩にかかっている。

初めて彼にひかれたとき、彼の背には、とてつもなく重い荷が課せられていた。
幾度もの失敗と失望と多くの苦悩をこえて、彼は彼自身の誇りを勝ち取っていった。
絶望しそうになるたび、予想をこえた力でチームを引っ張り、信頼を築き上げ、驚くべき軌跡を見せつけていく彼を、私たちは見た。
彼は悩み、彼は泣き、彼は笑い、そして、彼は彼自身を作り上げていく。

勝つ彼に惚れたのではない。
わずかでも勝つチャンスに近づくために、挑み続けることをやめない彼に惚れたのだ。

今日また、彼は闘った。今日また、彼は勝ち取った。
今日また、私たちは見た。
彼を。
彼の走りを。
彼の目の中にかいまみえる、その思いを。

彼は、今日も、彼自身であり続けた。
闘いをやめない、せつないほどに痛ましい生き物であり続けた。

それで充分だ。
こみあげる愛しさに、この胸を張り裂けさせるためには。


--

ネットでのライブタイミングを終え、ニュースサイトの巡回へ。
悲しいニュースに出会ったのは、その時だった。

加藤大治郎は、ついに目を覚ますことなく、逝ってしまった。
あまりにも若く、あまりにも早く。
残念だ。ほんとうに、残念だ。

この2週間、うちの日記にも、彼のニュースを求めて訪問なさった人達がたくさんいらしたことに気づいてはおりました。
たいした情報を書くことも出来なくて、ごめんね。
ずっと祈っていたけれど、祈りが届かなくて、悔しいよ。悲しいよ。

書きかけていた日記も、ネタも、頭から吹っ飛んだ。
ニュースの詳細を探しながら、涙が止まらなくなってしまった。
森に助けを求めに行って、マダムに慰めてもらい、なんとか涙を止める。
ニュースを巡回して、また泣いてしまう。
私自身は、彼のファンというほどではない。
2輪のレースは、時折その映像の断片を目にするおりに、その美しいライディングをただうっとりと眺めていたくらいだ。
何度かTVで目にした笑顔。いくつかのインタビュー。そこに感じていた親近感でさえ、このショックを与えたんだ。彼を愛していた人達にとっては、どんなに恐ろしく悲しい事件だったことだろう。

ニュースを探し求めた先で目にした、慟哭のようなファンの言葉。
かつて失った若いドライバーのことを思い出してしまう。
泣いてしまったせいだろうか。今日も眠れそうにない。



JAJA |MAILHomePage

My追加