日記雑記
ソンナモノハ妄想ダ 表紙|以前|以後
|読書メーター
Cのキーが取れた。取れている。
エアコンがなくても快適に暮らせるくらい風通しの良い日陰で生きていきたい。 体がどんどん夏ばてしているように思われてならない
二階堂奥歯「八本脚の蝶」を読み終えました。 たくさんの、それこそ生きてきた日数より多くの本を読むことによって形作られながら、自分で考えること、語ることをやめなかった人だという気がします。「病んでいる(病んでしまった)」と言うまとめかたをするのは簡単だけど、何かそこから零れ落ちてしまう物語があると思う。 もっとこの人の言葉を読みたかった。ただ、実際にリアルタイムで出会っていたら、最後の一ヶ月などはとてもついていけなかっただろうという気がしました。読んでるだけで、つらい。ましてや、生身の著者を知る人々にとっては。 けれど、2010年に出会った私にとって、既にこの人は一冊の物語です。至らない読み手で心苦しいですが、何度も読み返してみたい。
ときどき考えること。インターネットが今後も栄え続けると仮定して(多分間違いなく続けるでしょうが)、いろいろな人が手軽に自分の言葉を日々書き連ね公開しながら生きていく。やがてその人が消えた後、ウェブ上の言葉はどうなるのだろう、どこまで残るのだろうと思います。 もう3年も動きのない同人サイトの管理人さんが、どこか別の場所で元気で何かに萌えていてくれることを願っていたりします。 50年後100年後、あるいはもっともっと先にはどうなっているんだろう、とか。インターネット黎明期の化石としてそこここにデータが残ったりするんだろうか、とか。その点twitterは駄目っぽいね、とか(ログ見返しが不便すぎるから)。
うまくまとまらない。 好きな作者の自分と似た点、似てない点を考えることがある。もともと自分と共通する要素を探そうとしてしまうので、バランスをとる意味で似てない点を挙げていく感じ。 私はどうがんばったってこれからこれだけの書物を読んでいくことはできないだろう。それから、バックグラウンドが違う。キリスト教よくわからない。…まあ、だから祈る気持ちが全く分からないかと言うと、そんなこともないようだとも感じるけど(なにか物凄く卑小な読み解き方をしてしまっているのが分かるので申し訳なくもある)。存在しない神様に、祈る気持ち。 結局、自分が「何であるか」ということよりも、「何でないか」を考えることで輪郭がはっきりしてくるように感じます。考え方の癖かな。
ファンタジー小説ファン度調査をやってみたいのですが、探しても既に404で残念です。
・「なにしろ「少女」は女の子のようには実在しないから、その観念を持つものがきちんと護らなくては消えてしまうのだ」(2002年10月8日 その2) ・「恐怖で人は死にはしない」 ・「……私という一冊の本を、私が破棄してはいけない?」(2003年4月17日)
|