日々のあわ
あかり 



 いのちの食べかた

【いのちの食べかた】森達也:著

「今の子供達って、魚が切り身で泳いでいると思っているんだって!」
「あはは〜ほんとぅ?まったく今の子供達は!信じられないねっ!」
「じゃあさ、ケンタッキーフライドチキン型の生き物がいると思ってる子もいたりして〜」

いつかテレビでそんな話を聞いた。
なんだか「今の子供達」が「呆れてしまう人たち」だと言わんばかりの言い方に閉口してしまった。

でもね、それは大人が教えてあげないと、語ってあげないと、知ることができないことでしょう?
家の台所で魚を下ろす場面は見ることがあっても、「動物を屠殺する」というのは身近にはないことだからね。
私だって一日何トンの牛や豚が人の口に入るために屠場へ送られるか意識して考えたことなかったし、
恥ずかしながら彼らが最後どんな風に命を終えるのかもぼんやりとしか知らなかった。そして、そこで働く人々の仕事について考えたこともなかった。

この本は小学生や中学生くらいの人に向けて簡単に書かれていて、メッセージも明確で、人はほかの多くの命を食べて生きているということをもっと知らなくちゃいけない。と何度も書いてある。

「じゃあ、もうお肉食べない。そんな可愛そうなことしない。」っていう話じゃないの。(最近なんでもこんなふうに解決しちゃう人をみるけど、そういうんじゃないんだよ。)
読み終えて、強烈に胸に残ったのは「知ることが大事」という著者のメッセージ。
鈍感になって麻痺してしまう怖さもあらためて感じました。

私は、子供達が自分で読めるまでは話して聞かせようと思う。そして、是非、多くの子供達に読んでもらえるように薦めたい。

それからね、「魚が切り身で泳いでいる」と思っている小学生なんてそんなに居るもんじゃないと思いますよ。
なんか、面白おかしく小ばかにしたように言われると嫌ですね。そんなふうに言う大人にも読んで欲しいです。





2005年01月24日(月)



 ソウルメイト

それは例えば旅先であったり、学生時代の他愛も無い日常であったり、命がけで企画したプロジェクトを遂行したときであったり、
誰かが死んだときであったり、自分が死にそうになったときであったり、様々な場面が考えられるのだけれど。

ある一時期にものすごく濃厚に人と関わり合うことがある。
もうそこに他人の入る隙は無くて、時間も空間も何もかも自分達のためだけにあるような感じ。
多分そんな出会いをして共にそんな時を過ごして、別れの予感もなかったとしたら、きっと「この人は私のソウルメイトだわ」とうっとり思うだろう。異性同性問わず。

だけど、そんな関わりあい方をするとかなりの確立で「別れ」があるように思う。経験上。
活き活きとした興奮状態でありながらどこかで「ここで別れたらもう二度と会うことはないだろうな」と醒めてみている、というか、解ってるような諦めているような気持ちがちゃんとあるのだ。不思議なことに。

そのくせ、私はもうずっとそういう「解っている気持ち」を見ない振りしてやってきた。
そんなことしても容赦なく離れてしまうものは離れてしまうのに、別れることに弱っちな私は“そういうこともあるのだ”と思うことができなかった。認めてしまえば楽なのに。


それが最近結構自然に受け入れられるようにやっとなってきた気がする。
どうしてだか、もう会えない人たち。たとえあってもあの時のような関係は築けないのも解っている人たちを私の日常から切り離す。

そう考えると、今わたしが営んでいる日常に、すでに決まっていたかのように当たり前のように居る人こそがソウルメイトなのかもしれない。
他愛の無い話しかしなくても何年もの歳月変わらず笑いあえる人とかね。

生きていく流れの途中でちょとっとぶつかる石みたいに、揺らいで刺激されて目が醒める。これこそが本来あるべき姿だと思い込む。
だけどしばらくするとまたいつもの流れに戻り先に進んでゆくのだ。

「あの石にぶつかることはもうないんだなぁ」と切なく思ったりしながら。


2005年01月09日(日)
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