就活その7 経済の巻。 - 2005年06月27日(月) 先々週、三週間も前に応募したところから面接の連絡が入った。 もう戻るまい・・と思っていた、前のテキスタイルの業界である。 社長から直接連絡が来たのだが、こんなに遅れたのは、 曰く、「たくさん応募が来ちゃって・・」だそうで、 先方もその反響に驚いているようだった。 早速、週明けの月曜日に行ってみると、 会社は普通の民家って感じで、シルバープレートに黒い字で 会社名が刻印されてなかったら、まるで新婚さんが建てた家のようだった。 面接が行われたのは、小さいリビングみたいな社長室である。 で、事前に送っていた書類をもとに、何を聞かれるのかと構えていたら、 まず、初めの40分は自分がこれから会社を通じて何を成し遂げたいか・・という 社長の夢であった。 その具体的な内容は割愛させていただくが、とにかく夢がデカイ。 夢見がちなのは、この業界には本当に良くあることだ。 で、次に社長が話したのが、業界の今の現状である。 社長の前には一枚の白紙のA4用紙が置かれていて、 てっきり、聞かれたことに対する私の答をメモるのかと思っていた。 ところが、社長はするすると業界関係図を書き始めた。 ぽんぽんと丸い円を散らばし、中に「アパレル」、「問屋」、「消費者」、 「メーカー」などと書いた後、間の空間をビュ〜ン、ビュ〜ンと 勢い良く矢印で結んでいく。 社長の手の動きにつられて、私の顔も左右に動き、その様といったら、 テニスのギャラリーかよ?と自分でツッコミ、笑いそうになった。 一通り書いたあとで、社長は作成した関係図をペンで叩きながら、 現在の景気の悪さを憂い、そして、私に向かって言うことには、 「というわけで、この業界はここ最近、ずっと恵まれないわけですよ〜。 まあ、あなたが若かった頃、う〜ん高度経済成長あたりかなぁ〜、 その時は業界も良かったわけですから、良い思いもしたでしょう?」 ん? 高度経済成長って・・1950年から70年ぐらいじゃん・・・? いくら私が老け顔だからって・・ 失礼な!! おしまい。 ... 油断。 - 2005年06月25日(土) 旦那と結婚したての頃の話である。 私は当時、デザイナーとしてバリバリ働いていた。 ハードな仕事であったため、家事との両立で疲れていたのだろう。 良くイビキをかいた。 自慢じゃないが、私のイビキはそんじょそこらの女のそれとはわけが違う。 妹と一緒に暮らしていた時、私のイビキで2階の住人が起きた、 というぐらいの大音量なのだ。 だから、当然、旦那は眠れない。 私がイビキをかくたび、枕を動かしてみたり、体を揺すってみたり、 止めるために大変だったという。 もちろん、今はイビキはかかない。無職の私に疲れる理由がない。 現在、午前3時半である。 さっき、換気扇の下でタバコを吸っていたら、 「へ〜〜くしょん!!」とデカイくしゃみをしてしまった。 ちょぴっと飲んで帰り、ぐっすり寝ていたはずの旦那が、 何かに驚いたように大きな寝返りを打った。 私と一緒に暮らすのに、油断は禁物である。 おしまい。 ... 戦後60年。 - 2005年06月24日(金) 私の母は疎開経験者である。 終戦の年は小学校2年生であった。 玉音放送を聞いた大人たちから「戦争が終った」と知らされた母は、 「あ〜、これでやっと家に帰れる」と思ったそうである。 先日報道されたことだが、 某私立高校が2月に実施した一般入試の英語の長文問題に、 「元ひめゆり学徒による戦争体験の証言が退屈で飽きてしまった」と いう主旨の文章が出題されたそうである。 少し前に本を読んだ。 題は「生贄の島」。軍に従軍奉仕した看護学徒の話だ。 生き残った人々への綿密な取材をもとに、 病院と称された洞窟の中がどんな状況だったのか、 人がどんなふうに犠牲になって死んでいったか・・そういうことが 淡々と語られている。 私は母のように戦時を知らない。 また、その残酷さを自身の体験のように、 身近に据え置くほどの想像力も持ち合わせてはいない。 けれど、淡々と並べられた活字からは絶望が伝わり、 読むことを躊躇してしまうほどに心が痛んだ。 今、日本は本当に平和である。 60年も前に起きた戦争のことなど知らなくても何の支障もない。 充分生きていける。 だが、もし、それを知る機会があったとき、 私達はそこから目を背けてはいけないような気がするのである。 少しでも、心に留めて置こうとする気持ちがあれば、 某私立高校の教師のように、 今も過去に苦しむ人々を、より傷つけるような愚かなことは しないで済むと思う。 おしまい。 ...
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