written by 田村 MAILHOME
#別に気にしてはいないのです、本当に
2004年07月04日(日)

ひねくれていたっていいのだ。
一人ぐらい文句言ったっていいじゃないか。
そうか、これが特別なオンリーワンか!(違います)
ひねくれていると言われたことを気にしているわけでは、いやしている。
たまには素直になってみよう。
もっと違うところで素直になれ。


そういえば、おかげさまで当サイトももうそろそろ20,000ヒットを超えそうです。5年も続けてようやく20,000ヒットとはかなりのスローペースだが。

別にカウンタがすべてではない。
物凄い速さで生まれては消えていくwebサイトのサイクルの中で、地味であれ細々とであれ、続けること、発信し続けることに異議意義があるのだ。それが例え1ヶ月に1回や3ヶ月に1回、半年や1年に1回となったところで、維持し続けることに意義がある!あるのかなあ。あるに違いない。そしてそれこそがオンリーワンへn

ともあれ、いつも楽しみにしてくださっている方、本当にありがとうございます。ペースは相変わらずですが、コンゴトモヨロシク。


で、今日のネタ、いや、ネタじゃなくて所感なのだが、公共広告機構によるストップ温暖化のCMを見た。砂浜の日傘にいる人と犬?の影を遠くから映し、BGMはなんだかシアターブルックの「瞳孔は開かないか」の最後の鐘の音のような、不安を煽るものであった。青空と音楽の暗さの対比で、うわーすごい趣味だなあと思い見ていたところ、ラストに異変が。


ひひひひひ、人影が崩れたっ!


どうやら人影も砂で作ってあるようだが、人間のように倒れるわけでなく、ぼろっというかごそっと、文字通り崩れており、それがあまりにもグロいというかエグいというか、とにかく趣味が悪い。思わず凍り付いてしまった。一見の価値はありだが、後味が悪く気分的に誉められたCMでもない。メディアで取り得る表現方法について、今は結構ナーバスな時期なんじゃないかと勝手に思っていたのだが、これってアリなんだろうか?



#世界にひとつだけの花
2004年07月03日(土)

とーろけるほどかんじているー、いま2じ25ふーんー


2時25分ではないが、現在23時30分。もうすぐ日が変わる。くそう、そろそろ帰りたい。流石にこの時間まで仕事をしていると、とろけるどころか心が病んでくる。

仕事をしながら気を失ったのは初めてだ。しかも2回。気が付くと意識がなかった。ちなみに「意識がなくなった」にもかかわらず「気付く」と言う表現はおかしいと思う。何でこんな時間まで!悔しいのでネットサーフィンをしてみる。ウェブセンスに引っかかった。早く帰りたい!

と思いつつ、これは日記のネタになるなとも思っていたことは内緒だ。年がら年中ネタを考えてるとか、そんなわけではない。ないってばよ。



ダレてきたので、気分転換に一緒に残っていたI田女史と雑談すると、「物事へのこだわり」に関する話題となった。
私は(偏った)音楽大好き人間なので、マイナーなのしか聞きません、メジャーは嫌いです、音楽ないと死にます、音楽聞かない人は普段一体何しているのか想像すら出来ません、と音楽に対するこだわりを若干ぶつけてみたところ、へぇーと言われたまま会話が途切れてしまった。どうやら、少し引かれてしまったようだ。


これはいけない、話題を変えなければ!
今最もホットで盛り上がれる話題と言えば、先日のM女史の結婚式だ。いい結婚式でしたね、と強引に振ってみる。そういえば式では新郎が「世界でひとつだけの花」を熱唱していましたね。話題が変わっていないじゃないか。


新郎に恨みはないが、実は私はあの歌が控え目に言うとあまり好きではない。少々踏み込んだ表現を取ると苦手。もう少し言ってしまうと嫌い。正直申し上げてしまうと、大嫌いだ。重ねて言うが、新郎に恨みはない。


槙原敬之が作詞、それをスマップが歌うというベタな展開についてはいつものパターンなので何とも思わない。

しいて言えば、ひとりひとりがオンリーワンなど何を今更、そもそもオンリーワンであると言うことは同時にナンバーワンであり続けることを意味するのでは?と思わなくもないが、それは歌詞の揚げ足取りに過ぎないし、他の歌と比較して際立っているわけでもない。私が聞くことはないだろうが、一般的に良い歌であることについては同意ができたであろう。


それが何でここまで気持ち悪く思うようになってしまったのか考えると、どうやら歌を取り巻く周囲の環境に原因があるようだ。

ここぞというシーンでBGMとして使われ、いちいち感動を押し付けてくる。それを感動と希望の押し売りと言うのだ。いい歌だろう→この歌で感動しないわけがない→この歌が嫌いだなんてどうかしている、と、正論で問い詰められているような気持ち悪さと同質のものを感じてしまう。そこには反論の余地などなく、ただただ生暖かい目で見守ざるをえない。

とにかく、歌自体にうんぬんよりも、その歌を取り巻く周囲の環境があまりにアレなのだ。アレ過ぎる。ただでさえその歌さえ使えばすべて許されるような雰囲気が嫌いなのに、一時期はシーンを無視して洗脳するかのごとくそこらじゅうで垂れ流されていた。街中で発狂するかと思った。ありえない。助けてドルバッキー!

かくしてこの歌は、私にとっては嫌がらせに以外の何者でもなくなってしまった。正直、結婚式で歌われた時にはぬっこrうわまてなにをするやめろ。しつこいようだが、本当に恨みはない。


と、少々長くなってしまったが私のあの歌に対する思いを、端的にI田女史に伝えてみる。勿論、先程のように引かれるなんてことがないよう、細心の注意を払いつつ、だ。


田「あの歌、実は嫌いなんですよー」

I「え、私あの歌超好きなんだけど」


ええー。


田「あああ、で、でもですね、好きな人は居ますよあれ、私は聞かないってだけですけど」

I「たむちゃん、ひねくれてるんだよ」


ですよねー。
ひねくれてて(´・ω・`)スメンナサイ
早く帰れ(自分含め)。



#結婚話
2004年07月01日(木)

結婚式は、その人の生き様が現れると思う。
しみじみとそう思った次第。
何があったかは聞くな。聞いて。いや聞くな。



転勤となったK部長、現在は支店長から電話がかかってきた。


K「俺だけどさー」

田「あ、お、お疲れ様です」

K「疲れてねーよ!」

田「あああ、すみません」

K「ほんとだよ」

田「あ、そう言えば(同じ職場の)Mさんの結婚式行ってきましたよー。盛り上がりました」

K「おめーはいつ結婚すんだよ」

田「は?あ、ええと、あと10年後ぐらいには結婚したいかなー・・・と」

K「遅せーよ、明日しろ、明日」

田「いやあの、相手が居ないことには結婚もままならないので・・・まあ10年もあれば、なんとか」

K「ほんとかよー?ほんとに10年でどうにかなるのかよー?」

田「ええと、じゃあ15年で」

K「15年?早えーよ。どーにかなると思ってんのかよ」


どっちだよ。




翌日、またK支店長から電話がかかってきた。


K「おう、たむらー」

田「あ、おつかれ・・・じゃないですね。疲れてないですよね」

K「疲れてんだよ!」


どっちだ。


K「まあ許してやるよ。ところでどうだ、元気にやってるのか」

田「(妙に優しくてキモチワルイ。)あ、はい、何とかやってますー、はい」

K「そうか、ならいいんだけどな。で、お願いなんだけど。裕ちゃんには内緒で、これ、明日まで」


資料作成をこっそり頼む時だけ急に優しくなるのはやめて下さい。



#赤いタンバリン
2004年06月30日(水)

乗り込んだ会社の作業用エレベーターでふと見上げてみると、そこには(最近特に)見慣れたスリーダイヤモンドが。ミッツーはエレベーターまで作っているのか!という感動とともに、このエレベーターは大丈夫なのか!?と違った感動も湧き上がる。エレベーターが炎上したら困る。



ご無沙汰です。
最近はおかげさまで仕事も増え、帰りも遅く、帰宅→晩酌→ちこ様→寝る→起きる→仕事のサイクルでした。忙しいことは良いことです。と言い聞かせながら働いているが、18時30分に帰る同僚に対して心中で実は呪詛を投げかけている。表面上は勿論笑顔だ。おかげさま、とは都合のいい言葉だと思う。お前様のせいで、とでも言い換えたい。嘘です。

特にここ2日間はモチベーションの低下著しく、ほぼ廃人と化した有様であったが、今日は何とか持ち直して更新にこぎつけた。というのも、今朝方知人のホームページを見たためだ。

上述の通り廃人であったため、インターネットも適度に流し読み程度だったのだが、久し振りにそのホームページを見て、マメに更新されていることに驚いた。

掲示板など増設し、日々の出来事がほぼ毎日徒然書いてあるのを見て、お互い随分離れたところで生活しているなあという事実に今更ながら寂しく思ったが、しかし元気にやっているのだなと嬉しくも思った。色々な感情がない混ぜながらも湧き上がり、まだそれだけ強く思う気持ちがあるのかと若干呆れた。正直言うと、いい歳をしながら泣きそうになってしまった。あと今気付いたが、この文体では感情をあらわすことが大変難しい。

そもそも朝出かけのタイミングで見るなど、どう考えても一日色々考えて過ごしてしまうことが明白だった。にもかかわらず耐え切れずに見てしまった時点で失格であるのだが、予想を裏切らず事実色々考えて過ごしてしまって更に失格である。気になって気になって仕方なかったのだ。

しかし彼女が以前に増して生き生きとしているであろうことがホームページより読み取れたおかげで、鬱屈とした気分を晴らすことが出来た。近況を知らないことが悔しいながらも、日々色々感じ、元気にやっているであろうことが素直に嬉しかった。ここで述べるには場違いかもしれないが、どうかそのまま、彼女は彼女のまま、自分の思うとおりに生きて欲しいと心の底から思っている。私はそんな彼女が好きなのだ。

久し振りにホームページを更新できたのはそのためだ。毎度毎度、どうもネタに走りたがる傾向にあるため、色々考えた挙句に更新が鈍ることが多々あったが、今日は出来るだけ素直に、感情の赴くままに書こうと思った。

と朝決心したはずなのだが、夜になるとこの有様である。未だに随分下手くそだ。やはりこの文体では不利だと思う。しかし思ったこと・書いたことに嘘はない。呪詛については嘘である。

今日思ったことはきっと無駄にはならない。いつも助けられてばかりだが、本当にありがとう。


久し振りにブランキージェットシティを聞いた。「赤いタンバリン」は良い歌だと思う。



#「普通の子供」がいたら見てみたい@長崎の事件
2004年06月06日(日)

長崎県の小6女児の事件は衝撃的ではあるが、それほど特異な事件だとは思わない。現代に突然振って沸いた、理解不能で奇怪な事件ではない。インターネットやチャット、掲示板など、「真っ当な大人」にとって面白おかしくネタになるキーワードが盛りだくさんで、それにマスコミが群がっただけだ。

そんなことより、こういう事件が起きるたびに報道の自由と知る権利という言葉を盾に、報道と言う名の暴力を被害者・加害者・その関係者だけでなく不特定多数に対し執拗かつ無責任に撒き散らすマスコミの社会に対する影響についてどうお考えなのか。そっちの方が気になる。マスコミに人を裁く権利はない。それは私刑だ。世論もそれを求めていない。

分かり易い犯人探しに夢中になるあまり、根本的な病巣はそのままスルーするか。こういう事件が起きるたびに、それは見過ごされているのではないか。

すぐには解決できない。しかし、もっとましには出来るはずだ。そう思う。




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