■ 腰痛日記 ■
ケイの10年にわたる痛みの治療体験を少しずつ書いていきます

□■初日から日付順で見てくださる方はこちらへ■□

■ケイしゃん■■TMS JAPAN■■加茂センセ■■AGIさま■■エバちゃん■

→ ▽▲ 腰痛掲示板 ▲▽ ←
▽▲ 新・痛みを手放そう(ブログ) ▲▽
 < 過去  目次  未来 >

2004年01月27日(火) ひっかかりつづけること

::::::::ひっかかりつづけること::::::
養老猛司 著

べつにどうという話ではない
しかし私の仕事の原点は
こうしたさまざまな違和感を
抱え続けたことにあると思っている

たまに
「なぜそんなにいろいろなことを
考えるのですか」

と訊かれることがある

「疑問を忘れないでいると
年中考えるしかないじゃないですか」

そう答える

最近の学生を見ていて思うのは
ひっかかることがあっても
それを頭の中で
「丸めてしまう」
傾向が強いことである

「丸める」とは

疑問に思ったことを
それ以上悩まなくてすむように
とりあえず自分のなかで
なだめてしまうことである

「山の頂上なら
禿げていることも当然あるだろう」

そう答えをだして
納得してしまえば
それ以降疑問は生じない

その疑問に煩わされることがなくなるから
気分が楽になる

社会生活を営むうえでは
疑問を丸めることは重要である

相手のやることに疑問を抱き続け
「それはおかしい」といちいち指摘すれば
人間関係はぎくしゃくし
喧嘩が絶えないことになる

だからむしろ
話を丸める癖をつけるほうが大切である

しかし
自然と向き合うとき
疑問を丸めてしまったら
自然をきちんと知ることができない
疑問を抱き続けること
つまりわかるまでこだわることは

自然を知るときの基本的な態度である

自然を知ることが職業の科学者にとっては
これはあまりにも当然のことだろう

大学の教室で
学生に質問した

「コップの水に
インクを一滴たらしたとする
しばらくすると
インクが消える
何故だと思うか」

学生が答えた

「そういうものだと
思ってました」

「丸める」とは
このことである

「そういうものだ
と思ってしまえば疑問は生じない」

本人は楽だが
楽をすればなにも考えない

何も学ばないという結果になる


::::::::::::::::::::::

日々の治療に対する疑問を
「丸めて」いる医師が
多すぎるのではないかな?




ぷんぷんと押してね↑(投票ボタン)
My追加

「ヘルニアがあると
なぜ痛みが生じるのですか?」


「そういうものだと思ってました」

そういうものだと思ってしまえば
疑問は生じない

本人は楽だが
楽をすれはなにも考えない

今日の○いっきりテレビをみても
感じたことですが

まるで何十年も前の腰痛本に
出てくることばかりじゃ〜

何も学ばない医師が多すぎる(−。−)



2004年01月25日(日) 医学における分類・整理

::::::::からだの見方:::::::
養老猛司 著

― 医学における分類・整理 ―

医学における自然分類の代表は
系統解剖学である

もっとも、これには
かなりいい加減な部分もある

違った見方が混在するからである

たとえば
運動器系、感覚器系、消化器系
等々の分類は

機能的分類である

しかし
筋、骨、眼、耳、神経
といった分け方なら
器官別の分類である

だから
ふつうは両者を混ぜて使っている

「混ぜて使う」
というのが

実用上の分類の妙味である

食物の味みたいなもので
元来が事実の整理の問題だから

混ぜたって差し支えない

ただ
初学者は気をつけないと錯覚を起こす
分類を「真理」の問題
とみなしやすいからである

異なる体系を混ぜてあるのを
矛盾だと考えてしまう

しかし
わかってやる分には
混ぜていいのである

医学はなにはともあれ事実を集めるので
分類がきわめて重要である

分類の仕方によって
正面にでてくる事実が変わる

考え方が変化するにつれて
分類も変わる

そうした中で生き残る分類は何かといえば
それはやはり「自然」分類である

見方があるようで無い
無いようである

対象の性質を案外よく反映している

そういう点が自然分類の長所である




中略




医者は元来分類が得意なはずである
患者さんを見て
すぐに分類する

そもそも診断学とは
疾病の分類学を実地に応用したものであろう

ただし、医者自身は
自分が分類学をやっているとは
思わないかもしれない
もう少し近代的な
立派な科学を学んでいるつもりではないか?

そこにひょっとすると
二つの面から誤解があろう

医学は近代科学である
分類学は古臭い科学である

この二つである

しかし、医学は
近代的な科学よりは
分類学に他ならない面を多くもつ

さらに分類学は
ふつう考えられているよりも
高級な学問である

学問は時代につれて変わるが
事実は変わらない

解剖学はそれを如実に示す

その事実を整理するものが
分類である以上
分類はきわめて重要な科学の作業である

しかも事実の数は絶えず増え続ける

ゆえに分類学に課せられた課題は
やはり永遠だといってもいいのである


:::::::::::::::::::

今日は娘の誕生日です


クゥを撫でる娘の手




なんか不思議な気持ち↑(投票ボタン)
My追加



2004年01月24日(土) すべてわかろうとするな

今日も雪・ゆき・ユキ

雪に煙るセンセの医院

写真はまーちゃん提供でしゅm(_ _)m


::::::::::いちばん大事なこと:::::::
 養老猛司 著

医学は人体という自然を扱う

ことに私は
体というものが具体的にどうなっているのか
それをつぶさに見てきた

その作業のなかで
つくづく感じたのは

「そうなっているものは仕方がない」

ということである

いかにこちらの倫理に反すること
自分の考えに都合の悪い事であっても
出てきた結果は認めざるをえない

あるとき
実習生の学生が
「腕に行く動脈がありません」
といってきた

腕に行く動脈がなければ
腕に血が通わない

ちょっと見ると
たしかに
「上腕動脈がない」

それじゃあ腕が死んでしまうじゃないか

そうはいっても
ないものはない

解剖を進めて
懸命に探してみたら
別な経路がちゃんと出てきた

側復路といって
ふつうなら細い動脈が太くなり
大きく迂回する経路をとって

上腕動脈の代わりをしていたのである

解剖を進めたからそれがわかったが
人体より大きな自然を扱うときには
解剖のようにすぐに次に進むことが
できるとは限らない

「上腕動脈がない」
「動脈がないと、腕が死ぬ」
どちらも間違っていない

それならしばらく辛抱して
解剖を続けるしかない

この場合は幸いそれで正解が出たが
大きな自然を相手だと
すぐには解答がでない

だから努力・辛抱・根性なのである


::::::::::::::


人間のカラダって
私たちが思っている以上に
融通がきいて
自己回復力があるのではないかな?




この本に書かれた一節です↑(投票ボタン)
My追加



2004年01月23日(金) 画像よりも臨床が肝心


こちらは今日も雪でしゅ
  
雪景色  雪釣りの威力発揮  ながーーいツララ


さて
今日の新聞
健康のページの記事より

:::::::::ボケないための生活術::::::::

― 画像よりも臨床が肝心 ―
【診断のカン違い】

「家のおばあちゃんの様子がおかしい
ボケたのではないか」

そう思ったとき
あなたはどうしますか

まず医者の診てもらおうと
病院につれていく人が
多いのではないのでしょうか

すると
脳神経科でCTスキャンを撮り
医者がその写真を説明しながら
きっとこう言うでしょう

「脳がかなり萎縮していますね
ボケが進行している可能性が高いです」
と。

たしかにこれまで医学の常識として
人間が高齢になるにしたがって
脳の萎縮が進み
それによってボケの症状が起こると
考えられてきました

ところが
それが最近必ずしも正しくないことが
わかってきたのです

なぜなら
脳に萎縮が起こらなくても
ボケてしまう人がいるからです

つまり
医者による画像診断だけでは
ボケは発見できない
といっていいでしょう

また
計算をさせることによって
ボケているかどうか
知る方法も多用されています

「100引く7は?」
「その数字からさらに7を引いたら?」

などと聞いて答えが出ないと
ボケ初期だなどと
診断されることさえあるようです

とんでもない話です

たしかにボケた人は計算ができませんから
決して間違いではありませんが

白衣の医者の前で
緊張して答えられなかった人まで
ボケの仲間に入れられては
たまらないでしょう

こうしたボケ診断テストの成績が
悪かったけれど
全然ボケていない人だって
たくさんいるの

ですからボケのテストでは
一応の目安にはなりますが
ボケの確実な診断はできない
と言っていいでしょう

ここに、実は
医者の大きなカン違いが潜んでるので
注意してください

ボケの診断はあくまで臨床診断ですべきだ
というのが私の考えです

CTなどの画像やテストなどは
確かに参考になりますが
確実にボケの診断が
できるものではないのです




::::::::::::::




どこかで聞いたような↑(投票ボタン)
My追加

母の様子が変だったとき
画像診断で
「年齢よりも少し脳の収縮率が高い」
といわれました

数字のテストもありました

それを聞いてがっくり来た事を
思い出しました

どんな疾病においても

画像診断は
危険な病気を見つけるためには
必要なことですが

やはりそれを扱う人間(医師)の
経験と知識は欠かせませんよね

画像を見るのでなく

画像の向こう側にいる
患者を診てほしいですね



2004年01月22日(木) 大雪だー!

昨夜から降り続いた雪
日中も止まず
夕方には50センチほどに・・・

少し小降りになったところを
ご近所の方たちと雪よけをしました



見よ、この雪のような山
あ、山のような雪か

クゥは猫のクセに雪が大好き
穴を掘り、雪の中を泳ぎます

 

そして、疲れはてて放心状態(^-^;

 

ケイしゃんは一時間以上
ママさんダンプで雪よけをしたので
身体が痛くなるかも?





そういえば↑(投票ボタン)
My追加

なので、今回も大丈夫でしょう(*^.^*)



2004年01月19日(月) 勝利の苦しみ

今朝の新聞記事

スポーツ欄にオモシロイ記事が載っていました

:::::: ― 勝利の苦しみ ― ::::::

佐久長聖の3人が耐えた
なかでも
高校のエースがそろう5区で
4人抜きの上野
先頭に立った途端の腹痛、腰痛を
両手で振り払った

高校生の受け持ちでは
最高の8,5キロ
昨年暮れの都大路快走(全国高校駅伝)
の後も順調な練習ができて

「長野初優勝の原動力になる
トップと一分差なら追いつく。
(自分が持つ)区間最高タイムを30秒更新」

と自信満々

先頭に立つまでの走りには
腹痛、腰痛のハプニングの予兆は
何もなかった

「自信はあっても
気持ちのどこかに焦りがあり
ひと安心したところで
痛みになったのいでしょうか」

手袋を取り、横腹をさする

痛みが腰に移った時
テレビ観戦の両角・佐久長聖監督の表現では

「何事もプラス思考のあいつらしい悪魔退治」

両手を大きく回して痛みを飛ばした


:::::::::::::::::::




痛みの種類で言うと↑(投票ボタン)
My追加

焦り

一安心

気が抜ける

痛みの移動

まさにTMSの痛みですよね

この腹痛と腰痛の種類は
違うもとのいう人はいるのでしょうか?



2004年01月17日(土) スキー


今日は、ふだんは雪の降らない地域が
大雪だったそうですね

そのせいか
こちらは穏やかな一日でした

ダーリンが帰っていたので
午後から二人でスキーを楽しみました

PM1:30 自宅出発

PM2:00 スキー場到着

3本だけ滑る

PM3:00 スキー終了

スキー場隣接の温泉に浸かる

PM3:30 スキー場出発

PM4:00 自宅到着



道中は雪もなく
空いていたので30分で着きました 

今日の午前2時くらいに帰ってきたダーリン
帰ってから寝るまでシャベリ通し

車の中でも一人で話をしていました

身体を動かして
カラダは疲れたかもしれませんが
ココロには栄養が行き渡ったようです

目のクマが取れた(^-^)ゞ




2,3日後に訪れるであろう↑(投票ボタン)
My追加

昨年はごたごたしていて
2年ぶりだからねぇ

ゆっくり滑ったので
転ばなかった

ダーリン
「気をつけて滑らんと
明らかな損傷のある医師に
診てもらう羽目になるぞ」


 < 過去  目次  未来 >

→ □■痛みを手放そう■□ ←