きまぐれがき
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2003年06月20日(金) ナタリア・ギンズブルグ『モンテ・フェルモの丘の家』

『ある家族の会話』につづいてナタリア・ギンズブルグの『モンテ・
フェルモの丘の家』を読む。翻訳は須賀敦子。

モンテ・フェルモに建つ館マルゲリーテに関わりを持った人物
たちの書簡のみで、それぞれの人生を浮かび上がらせていく。
流れ行く時のなかで登場人物たちは何を考え、どのような日々を
歩んでいくのか?
求めるものを掴むことができたのか、失ったものは何なのか?
過ぎてしまったあの頃をどのような思いで眺めているのか?
読んでいる間中、よるべない流木の行方をはらはらしながらも、
ただ遠い岸の上で見つめていることしかできない夢を、みている
ようだった。

かつて恋人どうしだった一方の最後の手紙は「ぼくたちは、
あまりにもながいこと離れすぎていた。そのあいだに、きみにも
僕にも、あまりにもたくさんのことがおこった。」で締め括られて
いる。
この二人にかぎったことではない、別々の人生を歩みだした者たち
になら当てはまりそうな、人生とはそういうものだ的でさほど気に
止まる言葉でもないように思えるが、うつろな心となっているもの
にとっては、なんともいえないやり切れなさで胸に迫ってくる。


訳者のあとがきに、登場人物の一人アルベリーコはギンズブルグ
と親交のあった監督パゾリーニに捧げられたレクイエムにも似て
いるとあった。そうだとしたらあの無残な死にかたをしたパゾリーニ
を、他人のために犠牲となって命を落とした若者として蘇らせたのは
偉大な詩人にたいしての敬愛にほかならないだろう。

それにしてもマルゲリーテ館とコルシア書店が重なってしまうのは、
私だけではないはずだ。
さらにあとがきで「この訳本をイタリアと日本と、そして世界の、
《あの時代に若者だった》友人たちに捧げたい」とあるように、
須賀さん自身のコルシア書店の活動から、日本に帰国されるまでが
まさに《あの時代》でもあったのだから。






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