思考過多の記録
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2009年12月03日(木) |
演劇は僕の「居場所」か? |
今僕は、演劇に対して非常にアンビバレントな感情を抱いている。 暫く離れたいという気持ちと、そうしているうちに他の人達がどんどん先に行ってしまい、置いて行かれてしまうことへの不安と焦りだ。
先日、僕は敬愛するアーティスト・中島みゆきのファン、それも僕と同じ60年代生まれのファンだけのカラオケに参加してきた。これはmixiのコミュニティから派生したもので、殆どの人が初対面だった。 にもかかわらず、僕は大変リラックスできて、楽しい時間を過ごすことができた。 それは、簡単に言ってしまえば、同じ中島みゆきファン同士、同じ60年代生まれ同士という「仲間意識」からだった。 僕は一つの「居場所」を見つけた気がした。
これまでの僕の「居場所」はやはり芝居の世界だった。 が、今思うと、そこは決して「安住の地」ではなかった。 僕の立場上もあるのだが、芝居に関わる場合、僕は大抵主宰であり、脚本・演出を担当していた。この場合、共同作業を行う役者やスタッフは確かに「仲間」ではあるのだが、同じ目線に立ちながらも、そこには明確な一線が引かれていた。 稽古の後、飲みに行ったとしても、どんなに心を開いているように見えたとしても、そこでは決して弱音を吐いたり、迷いを見せたりすることは許されなかった。 つまり、そこでは常に自分を強く、ぶれない存在に見せている必要があるのだ。当然、リラックスすることはできない。 常にテンションは高く、決して自分の深層は晒さないように気を付ける。 でなければ、公演が成り立たないからだ。
心的エネルギーが高いうちはそれでもいい。それが心地よかったりもする。が、今はそれが弱っている時期だ。 特に演劇に対しては、確信と自信を失っている。 本当に関わり続けるべきか、僕は真剣に迷っている。 そんな状態では、常に強くあり続けなければならないことがお互いの暗黙の了解となっている場所にいることは、苦痛にしかならないし、相手にとっては鬱陶しい存在でしかない。 だから僕は、暫くここを離れよう、そしてよりリラックスできて、ストレートに心をほぐせる場所にいようと思ってしまう。 演劇の世界では、それは「負け犬」のすることだ。
しかし、その一方で、芝居を通して知り合った人達が、僕とは別の場所で、僕とは違う演出家・脚本家の様々な舞台に出演したり、また公演を打ったりしているのを見ていると、正直焦りも生まれてくる。 僕は立ち止まっていていいのだろうか、と。 もし動き続けていたら、その人達と同じくらい、もっと遠くに行けるのではないのか、と。 勿論、それが今の僕にとって体力的にも精神的にもしんどいことは重々分かっている。 それでも、ここで諦めてしまっていいのか、という焦燥感は湧いてくる。 けれども、やはりそこが本当に僕にとっての「居場所」なのか、という疑問もまたあることは事実だ。
こんなことを考えているのは、僕が疲れているからなのだろうか。 抗鬱剤が抜けた後の虚脱感とでもいうべきか。 それとも、才能の限界と枯渇を自覚したくないだけなのか。 自問自答は続く。 そして、時だけが過ぎていく。
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