”BLACK BEAUTY”な日々
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Boogie
先日、あるきっかけである事を知り、そういえば18歳の頃にも同じような経験をし、その時にある一冊の本と出会ったなあと思ったのだが、どーしてもその本が思い出せなかった。
ジャックケルアック?ギンズバーグ?ブコースキー?ジムキャロル? どれでもない。ただなんか一人忘れているような気が……。
そーだシリトーだ!アランシリトーの「長距離ランナーの孤独」だ!
この作品は「文学界のパンクロック的名作」と呼ばれ、当時夢中になって読んだ一冊だった。
日曜日に実家に帰り、自分の部屋の押入れのダンボールを全て開け、やっと見つけた。 ペラペラめくっていくと、当時シビれた主人公の台詞に強い筆圧で線まで引っ張ってあった。俺も当時は「怒れる若者」だったのだった。
ストーリーはいたって簡単で、窃盗を繰り返す主人公が少年院に収容される。窃盗を生業としてるので主人公はとても走るのが速い。 その才能を院長が注目し、通常の公立高校のマラソン大会に主人公を参加させる。 主人公は2位以下に圧倒的に差をつけ、ゴールを目前とした。 ところが主人公はゴール直前で走る事を止め、優勝を自ら逃す。
「単なるひねくれ者の自己陶酔物語じゃねーか?」
確かにそういう捉え方もできると思う。
しかしこの小説の本質は全く別の次元にある。 主人公は「走らされる」事より「自らの意思で走る」事を選んだ。 しかもその意思決定を完全な「孤独」の中で行った。 そういった「他者に流されない姿勢」が後のUKパンクスの圧倒的支持を受け、名作と呼ばれるに至ったのだろうと思う。
人生は意思決定の連続だ。進学したい高校、大学の選別、就職したい会社選び、はたまた主婦の考える今夜の夕食のおかず、他人へ対する評価、などなど、その内容は星の数ほどある。
まして今日はネット社会である。ある意思決定を行う際、参考になる情報を得ようと思えばすぐに入手できる便利な世の中になった。
だが、気をつけなければならないのはネット上の情報は完全な「数の論理」が成立している点だ。
もし、あなたがある事に関して一定の評価を下さなければならない状況にあったとする。 ネット上で参考情報を検索する。そこにはマイナスの評価とプラスの評価が両方存在している。そして気が付けばあなたは、より数が多い評価を選択してしまう。マイナスの情報が多ければマイナスの評価をし、プラスの情報が多ければプラスの評価をしてしまう。 それは「数の論理」それだけの理由で、気が付けば評価を下してしまっている事とイコールである。
だが、多数派が常に正しいわけではない事は歴史を見れば明らかだ。 ましてネットでの意見表明はキーボードを叩けば簡単に行える。 根拠の全くない情報も残念ながら存在しているわけである。
意思決定は本質的に「孤独」の中で行われるべきである。 確かに「孤独」を恐れる意識は誰もが持っている。 けれど、仮に「数の論理」で決定したした意思決定が仮に間違っている場合、その責任をネット上の情報に求める事はできない。情報に踊らされた後悔のみが残る。それは悲しむべき事だ。
決断は最後は自分一人で、孤独の中で行い、責任も自分自身に向けられる事が正しい姿だと俺は考えている。
それは人の人生はその人自身のものでしか有り得ないからだ。
「長距離ランナーの孤独」を読んだ10代の頃から、今に至るまで俺はずーっと孤独と共に意思決定をしてきた。
だから自分の意思決定を誰かに非難されようが、自信を持って歩む事ができる。
責任をとるのも俺自身。だから昨日も今日も俺はこんなにも身軽だ。
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