無責任賛歌
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2005年09月06日(火) |
ぴゅーぴゅーざーざー/『サマー/タイム/トラベラー1・2』(新城カズマ) |
台風直撃。電車が動いてないので出勤はムリ。 朝、最寄り駅まで一応、行きはしたのだが、そこまででも突風と雨に煽られて、歩くのもちょっと怖い。どこぞの看板がいつ飛んできてぶち当たってもおかしくない状況である。 職場に電話連絡をして今日は休む。週の合間に休めるのは嬉しいのだが、仕事が滞るので明日がちと大変なことになりそうだ。 終日、寝るか本読むかCSで映画見るかして過ごす。台本はやっぱり遅々として進まない。しげの「いいよね巨匠は」の声がキツい(涙)。
夜、よしひと嬢のお宅に電話。 今度の森田雄三さんのワークショップが北九州であるので、しげを泊めてもらえないかお願いするためである。さすがに三日間、通いで北九州に行くのはちょっとキツイしねえ(私は仕事があるのでそうせざるを得ないんだが)。 電話口によしひと嬢のお母さんが出られたので、事情を説明したのだが、快諾していただけたので安心。 だいたい、こういうのはしげ本人に関わることなんだから、自分でやりゃあいいのだが(電話だけでなく、よしひと嬢へのメールまで全部私に代行させているのである)、メイワクな「おねがいごと」なんかして、よしひと嬢やご家族に嫌われやしないかと疑心暗鬼にとりつかれているのである。 しげは、自分の好きな人に対してはこの「嫌われたくない」モードにスイッチが切り替わってしまうので、かえって疎遠になったり「どうせいつか嫌われてしまうなら!」と迷惑な言動を取ってしまうという悪い癖がある。 おかげで私なんか、この十年以上、毎日毎日、私がしげのことを嫌ってないかどうか、私を怒らせるような失敗をわざとやったりして「試されて」いるのだが、私の体力が持つのもあとたいして時間はなかろうから、いい加減でそんなアホなまねは止めてほしいのである。 まあ、止められないから病気なんだろうけど、それで私が早死にして困るのはしげなんだと思うんだけどなあ。
『仮面ライダー響鬼』の脚本交代について「まあ、アレもアリなんじゃない?」と書いたら、グータロウ君が日記で「いや、ナシだ!」と反論してきた(笑)。正直な話、ちょっと困っちゃったのであるが、「アリだよ」とハッキリ書いちゃった手前、再反論をしなきゃなるまい。 と言っても、別に30話が傑作だなんて「弁護」したいわけではもちろんなくて、私が言いたいのは「テコ入れなんてよくあることなんだから、過剰反応して自分を見失わないようにね」ということなんである。『響鬼劇場版』公式ホームページのコメント欄を見てご覧よ。劇場版のサイトなのに、30話批判の「荒らし」が大挙して押し寄せてるから。「今までのヒビキを返して!」なんて書き込みのうすら寒さはどうだ。作品を私物化しようとするファンの典型じゃないか(まあ、肯定派も否定派もどっちもイタいんだが)。 自分の好きな作品が台無しにされた悲しみはそりゃ分からんでもない。 『ウルトラQ』がトワイライトゾーン路線から怪獣路線に変更されたりな(まあアレは放映前の変更だから視聴者は気が付かなかったんだが)、『どろろ』が『どろろと百鬼丸』になったりな、『マイティジャック』が『戦え!マイティジャック』になったりな、『シルバー仮面』がジャイアントになっちゃったりな、『ルパン三世(旧)』の宮崎駿化とかな、いやもう、『ヤマト』『ガンダム』『ゴジラ』の「続編」というやつもどれだけ我々のアタマを悩ませてくれちゃったことか。 オレたちゃそんなトホホな目にイヤんなるほど遭遇してきてるんだけれど、同時にそれはそうなっちゃうだけの仕方のない状況(必ずしもオトナの事情ばかりではない)もあったんだってことを学習もしてきたんであって。 けれど、荒らし連中は「自分が正しい」と思い込んだ「ウルトラ・スーパー・デラックスマン」の群れだから、恨み骨髄になっちゃってて、ヒステリックに泣き騒ぎ脅すことしかできなくなってしまってる。いくら路線変更が悲しくっても、そんなアホどもと歩調を合わせちゃいかんよ。2ちゃんねるは覗いてないけど、状況は多分、もっとひどいだろう。山本弘さんとこの掲示板はどうなってるかな(笑)。 みんな、何を勘違いしてるかって、そもそも29話までだって『響鬼』には「絶対崩してほしくないドラマ全体の匂いやバランス」なんてものは無いじゃん、ってことなんで。「いきなりミュージカル」で始まって、「魔化魍」に「ディスクアニマル」に「音撃戦士」に「猛士」に「鬼は名字と名前のイニシャルが同じ(ってことは桐矢君も鬼候補か)」に「葛飾柴又の甘味屋の下條のおやっさん」に「擬似寅さんと満の関係(と思ってたらいつの間にかヤオイ)」にと、こんなデタラメな話のどこに「世界観」なんてもんがあるかい。いくら平成版『仮面ライダー』が旧版からのイメージの脱却を狙ってるからと言っても、やりすぎだろうって反発はあって当然なんだが、それがさほど言われなかったのは、これはもう「ライダーファン」から「あきらめられてる」面もあったからなんだよ。 だから『響鬼』は同じ石森原作でも『ゴレンジャーごっこ』か『ちゃんちきガッパ』だと思って見るしかないなあ、だから「なんでもあり」なんだよなあと思ってたんで、それが百も承知なら、「崩してほしくない世界観」なんてものを自分勝手に脳内補完しちゃいけないよ。昨日の日記にも書いたが、安易に「こんなの(オレの)ヒビキじゃない」なんて言うのは現場の役者さんたちに対して失礼だ。せいぜい、「桐矢のキャラ、何もあそこまでマンガにしなくてもよかったんじゃないか」くらいに留めておいたほうがいい。でないと「荒らしさん」と同じ穴の狢だ。 ああ、それから送ればせながら、誕生日おめでとう。また一つ先を越されてしまった。ちなみに今日は永井豪の60歳の誕生日だ(笑)。
新城カズマ『サマー/タイム/トラベラー1』・『同2』(ハヤカワ文庫)。 作者の新城カズマさん、生年不詳の架空言語設計家さんだそうである。でも、小説の中身を読んでくと、SFに対する言及の様子から見て、まあ三十代以上ってことはまず間違いないなってところである。四十代越えてるかもね。 二巻に渡る長めの長編だけれども、粗筋だけを紹介すれば、ある日、時間跳躍の能力を手に入れた何の変哲もない少女が、「ここではないどこかへ」行きたくて、友達も家族も、街も置いて、未来に向かって駆け去っていく、それだけの話である。それがなんでこんなに長い話になっちゃってるかって言うと、あいまに登場人物たちの「SF談義」とかが延々と書き続けられてるからなんだね。普通の小説ファンにはまず付いてこれないだろうことは間違いない。もちろんこれは作者の確信犯的なシワザであって、つまりこれは、「SFファンのSFファンによるSFファンのためのSF」であることを高らかに謳ってるんである。 そのエッセンスを説明することはなかなか難しいんだけれども、例えば物語の語り手の卓人が、友人のコージンと初めて出会うときの会話を見ていただきたい。
ある本を読んでる卓人に、コージンが声をかける。 〉「『伝奇集』かよ。面白れえのか。それ」 〉「まあね。『円環の廃墟』とか」 〉「ふん。わかってねえのな。『トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス』だぜ。一番は」 読んだ瞬間、背中がゾクッとした人は私のお仲間である(笑)。でもって、もし私が彼らと同じ高校生で、彼らの会話に参入できるのなら、「ルイへ・ボルヘスはなぜ英語で小説を書くことをせずに、母国語のスペイン語に回帰したのか」とか、どこぞの本から受け売りで仕入れた知識で論争を吹っかけたことだろう(若いときはこういう青臭いことをしてもいいのである)。
「SFとは何か」って論争は、我々の世代が学生のころにはそれこそ毎日のようにやっていた。世界の全ての問題に優先することだと思っていたと言っても過言ではない。けれど、SFが死滅してしまった現在では大学のサークルですらあまり語られていないのではないかという気がする。だからそれだけでもこの小説は懐かしい。作者が同世代じゃないかと考えるのはそのあたりにも理由がある。 けれども、この小説がさらに「懐かしい」のは、「SFとは何か」だけではなく、「SFがなぜ好きか」って我々の思いを、この小説が持っている雰囲気全てで表現しているからである。しかし、その懐かしさにはそれだけでは終わらない、何とも言いようのない切なさも伴っている。
主人公の住む「辺里(ほとり)」という町。何とも皮肉なネーミングだが、東京郊外の、何の特徴もない、それこそ「ジャスコ」があることで繁盛しているように住民が思っているような逼塞した町である。でも、日本中にこんな町はありふれている。平凡で無個性な人間が日々時間を浪費するためだけにある町なら、「SFが好き」で現実のつまらなさをイヤというほど感じている、普通の人よりも「ちょっとだけ賢い」若者なら、そこから出たい、「ここではないどこかへ行きたい」と思うのは自然なことだろう。しかし、そういう若者に現実に機会が与えられることなんてない。 本編での“時を駆ける少女”悠宇(「悠久の宇宙」とはまた素晴らしいネーミングだ)は、何の特徴もない、100人人間がいれば、その中に埋没してしまって全く目立たないような少女である。ところが、そんな少女にタイム・リープ能力が授けられたのだ。そして、彼女は誰も見ることができない未来に向かって旅立って行く。彼女の能力は、「未来に向かってしか発動しない」。そして、卓人たちは彼女に見事に「置いていかれる」のだ。 即ちこの物語は、「時を駆ける少女」の物語である反面、「置いていかれた我々」の物語でもあるのだ。卓人たちは、確かに没個性な人間たちから見ればちょっとは「賢い」のだろう。ただ時代に流されることを潔しとせず、現代を凝視し未来を展望した。「SFが好き」ということは、即ち自分たちがそういう「目」を盛っているということを意味していた。その目があれば、いつかこの町を出て、自分たちの「本当の未来」を築けると信じていられた。「ここではないどこかへ」行けると思いこんでいた。SFは「未来」の象徴であり、自分たちは「未来の子」であるという自負があった。 しかし、全ては我々の幻想である。 SFは今や死に絶え、時代を語るタームとして機能しなくなってしまった。平凡と無個性は、結局は我々にまとわりつき、若さと、夢と、ほんの少しの賢さすら奪っていった。我々には現実を変えることも、未来を築くこともできない、そんな力などもともとないのだということに気づかされてしまったのである。「オタクエリート論」など、何の意味があろう。これは「オタクが置いていかれた」物語なのだ。悠宇が、時間跳躍能力がなければ「平凡な少女」として設定されている皮肉を、我々は噛み締めて読まねばならない。 卓人は、我々かつての「SFファン」の象徴である。そして、今も我々は「悠宇」から「置いて行かれ続けている」。それが切ない。それが寂しい。ラストの、怒涛のような「未来予測」は、それが当たろうと外れようと、未来が現在の地続きでしかないことを表している。本当に未来に夢を見るためには、悠宇のように「未来に飛び続けるしかない」のだ。それができない我々「凡人」は、ただ「時に置いて行かれる」ことしかできないのである。
マンガ、大場つぐみ原作・小畑健漫画『DEATH NOTE(デスノート)』8巻(集英社)。 第二部に入って、ちょっと人気が落ちちゃってるんじゃないかと心配ではあるが、まとめて読んでみるとまだまだ面白い。けれども、対立するライト、ニア、メロの三つ巴の戦いが、これまでのライト対Lの物語よりもインパクトが弱くなっているのは事実である。 まず第一に、この三者のキャラクターとしての書き分けが明確でなくなっている。「知恵比べ」の難しさは、どちらも同程度の「知恵」を有していると、思考の過程がどうしても似通ってしまうために、キャラクターの内面の差異を付けづらくなってしまう点にある。だからまあ、頑張ってニアには玩具に拘る幼児性を、メロには残虐さを付与しているわけであるが、かえって「取って付けた」感を生み出してしまつている。 さらに問題となるのは、肝心の主人公であるライトに感情移入がしづらくなっていることだ。デスノートによって犯罪者を罰する。そこには法治国家としては許されないが、庶民感情としては納得できる「正義」があった。しかし今のライトは、理想社会を築くと言いながら、実際には自分に逆らうものを粛清しようとするだけの、「独裁者スイッチを握ったのび太」状態になってしまっている。純粋な悪ならばそれはそれで魅力は生じるのだが、ただの「勘違い野郎」に成り下がっているライトには、以前の魅力が殆ど感じられない。 このままの流れで行けば、最終的に勝利を得るのはニアになりそうな気配であるが、ここはもうちょっとライトに踏ん張ってほしいところである。それとメロをただの「噛ませ犬」に終わらせないようにしてほしいと思う。この三者の中で一番人気がないのは多分メロなんじゃないかと思うが、今んとこキャラとして一番立ってるのはこいつなんだからね(笑)。
2004年09月06日(月) 入院顛末2・ブラッククイーン? 2003年09月06日(土) 学校が守っているものは何か/『死神探偵と幽霊学園』第1巻(斎藤岬) 2001年09月06日(木) 裸という名の虚構/『アイドルが脱いだ理由(わけ)』(宝泉薫)ほか 2000年09月06日(水) 妖怪っぽい〜妖怪っぽい〜♪/『ブロックルハースト・グロープの謎の屋敷』(シルヴィア・ウォー)
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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