無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2005年09月05日(月) 切れる信者/『コメットさん』第一話「星から来たお手伝い」

 台風14号が接近していて、昼あたりからずっと雨。
 今年は台風が殆ど九州を避けてるなあと思っていたのだが、来るときゃ来るでまた特大のが来やがった。中心はまだ奄美大島のあたりだっていうのに、暴風圏がバカでかくて、何と東京に集中豪雨まで降らせているのである。
 油断して、傘を持って行かなかったので、帰りはかなり降られた。しげに「タオル用意してよ」と頼んで迎えに来てもらう。
 「レッドキャベツ」で水を汲んで、「マクドナルド」で秋限定発売の「月見バーガー」を食べる。何度か日記にも書いたが、日本中でしげほど月見バーガーを愛している女はいないのではないかと思う。ともかく発売されるたびにテレビCMを見て、「月見バーガー食べに行くよ!」とうるさいのだが、いったん食べたあとでCMが流れると、今度は「もう食べたよ!」と突っ込むのである。なぜそこまで執着するのかよく理解できないのであるが、これも「女のウラの顔」というやつであろうか。思いっきり表に出てる気がするが。
 そのあと帰宅したあとも食欲魔人なしげは「オムライス作って作って作って」とうるさい。ケチャップが切れていたので、ソフトスパゲティに付いてた粉末トマトルーの余りを使って、まあ、チキンライスと言うか、「鶏肉混ぜご飯」を作る。卵の薄皮でライスをくるむなんて高等技術は私にはないので、厚皮の卵をご飯の上に乗せるだけだ。それでもしげは気に入ったようで、二人前くらい盛ってやったチキンライスを一粒残さず平らげる。今更ながらに思うことは、しげの人生の八割は、食うことへの情熱に支えられているのである。脳の隙間にまで焼肉とかが詰まってるんじゃねえか。


 テレビ&劇場版『響鬼』のショックは各方面に多大な影響を及ぼしているようで、あっちこっちのサイトで、ヒステリックな書き込みが続出している。
 いくつか、その痛さぶりを引用して笑い飛ばしてやろうかとも思うのだが、万が一そいつらにここが見つかるとまた面倒な事態になってしまいかねない。たとえ「引用」が公的に認められている権利であっても、そういうキレてる連中は、まず間違いなく自分がからかわれていると分かると、「よくも人のことを馬鹿にしてくれたわね、きいいいい」と髪振り乱して粘着してくるのである。
 だから、ごくかいつまんでそいつらがいかに馬鹿かということだけ指摘しておこうと思うが、馬鹿が何に文句を付けているかというと、一に時代考証、二にご都合主義なんである。
 時代考証については、そもそも『響鬼』にマジメな時代考証を求めること事態、ナンセンスであるということを昨日の日記にも書いた。あるサイトでは、「タケシが組織されたのが戦国時代なら、どうやって古代の土蜘蛛の資料があるんだ」なんてツッコミを入れていたが、単に古文書を集めただけだろうに。「井上敏樹憎し」菌が脳内に蔓延していて神経がイカレているから、もう何でもデタラメにしか見えなくなっているのである。
 物語のご都合主義を非難するのも、時と場合によっては的外れであるということを考えなければならない。ご都合主義がなければ成立しないドラマにご都合主義だと文句を付けるのはロミオに向かって「どうしてあなたはロミオなの?」と問いかけるようなものじゃないか。確かに劇場版の脚本は陳腐で安っぽいが、もともと信者がこれまで『響鬼』を過剰に持ち上げすぎたことが、反作用的に「よくもないが貶すほどのこともない」脚本を「最低」なもののように錯覚させているのである。テレビシリーズだって「ご都合主義」の塊で、基本的にはB級作品だ。B級作品はB級作品として楽しむのが妥当なのに、それをA級であるかのように思いこむから目が曇る。
 「危険が迫ったときに限ってヒーローが助けに来る」というヒーローものの定番だって、腹を立てる人は「都合がよすぎる」と言って怒るものだ。まるで物語の体をなしていない映画『デビルマン』に比べれば『響鬼』劇場版は立派なものである。……(まだ『デビルマン』ショックは尾を引いているのである)。

 前回のテレビ版第30話についても、もう一言付け加えておこうと思うが、脚本の落差の激しさに過剰反応するのは、結果として役者さんたちの演技や監督の演出などを貶めることになるってことに半可通なオタクや腐女子はいい加減で気づいた方がいいと思う。
 こんな芝居の基本を今更語るのはこっ恥ずかしいのだが、脚本はあくまで「土台」なのであって、それを「映画」に昇華させているのは役者の演技であり監督の演出であり、その他もろもろのスタッフの努力、音楽に編集である。私は、あれだけ雑な脚本が、結果としてちゃんと「響鬼」になっていたことに驚いたのだ。
 たとえば、これまで殆ど行われなかった「楽屋落ち」、あの頭を抱えたくなった「昨日から映画が」のセリフであるが、あれがちゃんと「ヒビキのセリフとして聞こえている」ことに気付いたファンがどれだけいるのだろう。書かれたセリフはふざけているが、発声されたセリフはふざけていないのだ。あれが「演技力」というものである。
 ヒビキはヒビキだったし、明日夢君は明日夢君だった。土台がぐらついていたにもかかわらず、『響鬼』が『響鬼』であって、決して「モドキではなかった」ことは賞賛されていいくらいである。つか、「ヒビキファン」を名乗るんなら、もっと役者さん、監督さんたちを信頼しろってば。これはいくらなんでもおかしい、と思ったら、現場で脚本変えるくらいのことは、あの人たちならするぜ。つか、断言するが、まず確実に30話は役者さんたちによってセリフが「『響鬼』らしく」変えられている。初登場の桐矢は井上敏樹っぽいのだが、ほかのキャラはそれまで自分たちが培ってきたキャラに合わせて、セリフを仕立て直していると思しい。細川さんを始め、『響鬼』の役者さんたち、みんなそういう人たちだってことに、これまで付き合ってきて気付かないかなあ? その努力があったからこそ、30話は、まだ充分「響鬼」の世界観の範疇にある話になってるんである(勘違いするやつがいると困るから念のため付け加えておくが、私ゃ別に脚本がダメでも構わないなんて言いたいわけじゃないからね)。
 だからさあ、オタクがよう、思い込みばかりが先行して、個々の作品に適した批評ができなくなるとさあ、せっかく市民権を得かけたってえのに、また「ただのバカないしは変態」というレッテルが貼られることになるんで、迷惑なんだよ。

 昨日、書き忘れてたけど、秋山奈々の父親役で、小倉一郎がカメオ出演していたんだけれど、これが字幕にもパンフレットにも全く名前が出てこない。映画でこういう「サプライズ出演」ってやつが行われるのって、決して珍しくはないんだが、字幕に名前も乗せないってのは、理由がよく分からないのである。急遽出演が決まって、タイトルロールに間に合わなかったとか、そういうことなのかな?


 北九州芸術劇場から、今月13日から四日間行われる、演出家・森田雄三さんのワークショップ「イッセー尾形のつくり方」の案内が届く。これで「正式参加」が決まったわけだが、ここに至るまでには、ちょっとした紆余曲折があった。
 三ヶ月ほど前だったろうか、私としげは、参加者応募が始まってすぐにメールを送って、いったんは受け付けてもらっていた。ところが、先月になって、「参加希望者多数のため、選考を行います」という封書が届いたのだ。予定もしっかり空けておいたのに、なんちゅうこっちゃとは思ったが、人数に制限があるのなら仕方がない、選考基準はなんじゃらほい、と思って手紙を読んでみると、「あなたがワークショップの参加者に質問してみたいことを書いてください」とのこと。同じ参加者に対して、という形式ではあるが、つまりは、参加者が「どういう気持ちでこのワークショップに参加したいのか」、自分自身に問いかけてみよう、ということなのだろう。
 そういう次第で、私は、「日ごろ、芝居がかった仕草をしちゃったという経験はないか」とか「身近な人の仕草を真似できるか」とか「芝居をすることが自分の日常のどういう役に立つと思うか」とか「こんなやつと芝居をしたい、こんなやつとは芝居をしたくないというのはどんな相手か?」「でもイヤなやつと芝居をしなければならないとしたら、どうするか?」とか、オーソドックスな質問をいくつか書いて送った。その返事が今日ようやく来たのである。
 どうやら参加してよい、とのことらしいのでホッとしたのだが、森田さんの手紙を読んで、いささか眉を顰めることになった。森田さん、かなり「困って」いるようなのである。
 というのが、集まってきたアンケートが、「ドラえもんの道具は何が欲しいか?」「世界を相手に何を叫ぶか?」「死ぬ前に食べたいものは?」「ブラックホールの先には何があると思いますか?」など、演劇とは何の関係もないものばかりだったというのである。森田さんには「なぜこの質問が、このワークショップで必要なのか」不可解で仕方がなかったと仰っているが、そりゃ私だってそう思う。本人たちは奇を衒って目立とうとしているのかもしれないが、下手の考え休むに似たりで、逆にみんな没個性な質問ばかりになってしまったということだ。世の中、十把一絡げのオタクのくせに「自分は個性的だ」と思ってるやつとかも多いし、こういう手合いと一緒にワークショップをするのかと思うと、ちょっと暗い気分になる。
 最近の若い連中の中には、こちらがある質問を投げかけても、「なぜその質問が発せられたのか」、状況を把握できないアホンダラがやたら増えてきているが、いやしくも「自己表現」を目指す演劇関係者にこういうコミュニケーション不全なやつらがいっぱいいるというのはどうしたことなのだろう。いや、コミュニケーション不全だから演劇をしたがるのだろうか。
 森田さんが困ったのは、「そういう人たち」を落としていけば、今度は参加者がいなくなってしまうということだったのだろう。自分とこのスタッフにも四国四県が言えなかったり、夏目漱石がどういう人か知らなかったりする「バカを気取った」「アンチ優等生を誇る」人たちがいて、「そんな彼らがイッセー尾形の芝居を支えている」と納得した上で、「あれこれ考えるより、顔を合わすのが一番なんでしょう」「失敗したって、笑われるだけなんだから、いい思い出になるじゃありませんか」「お会いできるのを楽しみにしています」と手紙を結んでいる。
 この日記読んでる人の中にも「バカを気取った人」はいるだろうから、あえて解説するけどね、これ、そういう人たちに対して「あんたがたがワークショップに参加しても失敗して恥かくだけだよ」「目立とうと思ってこんな質問送りつけてくるくらいだからプライドだけは高いみたいだけれど、恥かいてもいいの?」と、暗に「あんたらには来てほしくない」ってことを示唆しているのである。
 かましてくれるなあ、森田さん、と思ったが、この「皮肉」がその「バカを気取った人」「アンチ優等生を誇る人」たちに果たして通じるものかどうか。いや、通じないと思いつつ、もう森田さんは腹を括っているのだろう。となれば、こちらも「やだなあ、そんな人たちと一緒になるのは」なんて言ってはいられない。どんな芝居を作ることになるのかわからないけれども、私も腹を括るしかないなと思うのである。

 今度のワークショップには、下村嬢も参加すると言ってたので、首尾はどうかと電話をかけてみたのだが、「うっかり忘れて」アンケートを送らなかったとのこと。思わず「何やってんだよ!」と口を突いて出てしまったが、何とももったいない話である。せめて公演本番は見に来なよ。
 森田さんの手紙のことを紹介すると、「そういう人たちに限って、自分たちはすごくよくやってるって思ってるんですよ」と仰る。確かに、演劇関係者にしろ、オタクにしろ腐女子にしろ、「当たり前」や「普通」ができない人ってのが「悪目立ち」しているのである。
 ほかにもいろいろ雑談をしたのだが、「最近、よく、人から『オタク』だって言われるんですよ。けいしーさん見てるととても自分がオタクだなんて思えないのに」と言うので、「別にオレも自分がオタクだなんて思ったことはないよ」と答えたら、「けいしーさんはオタクですよ! 絶対!」と、目の前にいたら力瘤作ってたんじゃないかってくらいの勢いで力説されてしまう。「オタクって言えるほど濃くないよ、オレは」と言って笑ったが、これ、謙遜じゃなくて実感なんだけどね。ただ、人が私のことをどう呼ぶかは気にしないんで、あえて「オタクじゃない」と力説するつもりはないんである。
 下村嬢、前々回の『響鬼』29話(ヒビキと明日夢君キャンプ編ね)を見たそうで、「あれってヤオイでしょ! どういう視聴者を狙ってるんですか!」と興奮している(笑)。「いや、だからそういう視聴者層でしょう」。ずっと『響鬼』を見続けてるとあれを「感動もの」と思っちゃうけど、ドラマの枠組み自体がそもそもヘンなんだから、やっぱり初めて見る人にはアレはアレだとしか捉えられないわな。アレ好きなお客さんは、劇場版でタンデムしてヒビキにしっかり抱き付いてる明日夢君とか見たらもう萌え萌えーになっちゃうであろう。
 だから「ヤオイ編」までやっちゃった番組が、その先どう転ぼうと「想定の範囲内」なんだよね(笑)。


 CSチャンネルNECOで『コメットさん』第一話「星から来たお手伝い」。
 大場久美子のでも前田亜季のでもない、九重祐三子の『コメットさん』である。いやー、懐かしい! 1967年製作だよ。オレ、これの本放送、幼稚園時代に見てたんだな。
 白黒作品だから再放送だって殆どなかったし、マトモに見たのって何年ぶりだろう。1970年、大阪万博に行ったとき、泊まったホテルで、朝、テレビで再放送してたのを見たのが最後だから、35年ぶりだ。テレビ放送はカラーが当たり前の時代になると、白黒作品はほぼ「封印」されることになる。1970年がいろんな意味で時代の「節目」だというのは、こんなところにも現れている。
 で、久方ぶりの再会なのだが、これがまた、とんでもないドラマ展開であった。オープニングアニメだけはしょっちゅう「なつかし番組特集」なんかで放映されていたから、「コメットさんがイタズラ好きで地球に『追放』されていた」ということは覚えていた(このへん、モデルは『竹取物語』の「かぐや姫」ね)。
 だから当然、コメットさんは魔法を使うことを先生から禁じられているのだが、地球に着いてからもコメットさん、全く反省せずに魔法を使いまくりなのである。行き場がなくて学校に不法侵入したまではまあ事情を知らないから仕方がないとしても、食ってかかってきた先生を魔法でプールに叩きこむとは、イマドキならばともかく、シトヤカな女性の方がまだまだ「女らしい」と思われていた時代背景を考えると、かなり乱暴である。うわあ、こんなに傍若無人なキャラだったかなあと、何分、記憶ははるか彼方のことなので、首を傾げるしかない。
 考えてみれば、日本の魔法使いものに多大な影響を与えた『奥さまは魔女』のサマンサは、セクシーな美女でしかも基本的にはダーリンを立てる「妻の鑑」的なキャラである。それとの差異を計ろうと思えば、コメットさんがボーイッシュでトラブルメーカーに設定されたのも当然のことだったのだろう。おかげで、もう始めて見るような新鮮さで、目が画面に釘付けにされてしまった。
 圧巻だったのは、コメットさんが既知外と間違われて、警察の折の中に叩きこまれたり精神病院の檻の中に閉じ込められてしまうシークエンス。檻の囚人たちの前で主題歌に合わせて踊ったりもするぞ、おお、ジェイルハウスロック!(ロックじゃないけど) 一部屋に何人もの患者が押し込められている状況も今では考えられないが、コメットさんに向かって患者の一人が声を描けるシーンがものすごい。「あなた星から来たんでしょ?」「ええ、分かるんですか?」「私も冥王星から来たのよ」
 今、テレビでこんな脚本を書いたら、脚本家生命絶たれちゃうだろうなあ。脚本家は佐々木守だ(笑)。やたらキケンな脚本ばかり書いてるのかと疑われそうだが、昔はみんなサベツとか気にせずに自由に書いていたのである。もっとももっと自由な時代だったら、サブタイトルは「星から来た女中さん」になっていただろう。
 トリビア的な見所はほかにもいろいろあって、主題歌の作詞が寺山修司で作曲が湯浅譲二であるとか、アニメ担当は長浜忠夫演出・芝山努作画であるとか、若い人には「へええ」どころか「誰それ?」な人たちであるのだが、もうとんでもなく豪華なスタッフなのである。いちいち説明しないから、どんな人たちかは自分で調べなさい。
 ゲストの校長先生役は往年の松竹のバイプレイヤー・斎藤達雄。あまり演技のうまい役者さんじゃないんだけど、いつも気難しい顔をしているわりにはどこか間延びしていて飄々とした味があるんだよね。かと思えば、陰険な悪役を演じることもある。片岡千恵蔵版『獄門島』で了念和尚を演じていたのがこの人。
 あと先生役の人は東光生だが、アテレコしてるのは近石真介さんだと思う。こういう声優さんの記録が全然残ってないのはやっぱり問題だよなあ。

2004年09月05日(日) 入院顛末・その1
2003年09月05日(金) 土の下には虫くらいいます/映画『からっ風野郎』/『地震列島』
2001年09月05日(水) 中華幻想/『仙人の壷』(南伸坊)ほか
2000年09月05日(火) 日向ぼっこしてるヒマに本が読みたい/ムック『アニメスタイル』2号ほか



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