無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2005年10月13日(木) 確執なのかなんなのか/ドラマ『熟年離婚』第一話

 朝方メールでグータロウ君とやり取り。
 またまた『神様ゲーム』についての激論だが、どうしてグータロウ君が自説に拘るのかと訝んでいたら、逆に彼から「どうしてそんなに自説に拘るんだよ」と言われてしまった。全く「どっちが」という話である。
 グータロウ君は「どう見ても鈴木君は神様だろう」と主張するのだが、昨日も書いた通り、「鈴木君を神様だと信じてしまった芳雄君の一人称で書かれた物語」なのだから、鈴気君が神様のように見えるのは当たり前なのである。どこぞの宗教の信者が「教祖様は御釈迦様の生まれ変わりでございます」と書いてるようなもので、これを真に受けるというのは常識的な判断力を失ってると言われても仕方があるまい。
 じゃあ、「鈴木君は神様ではない」と断じるのが正しい常識的な読み方かと言われると、もちろんそちらの方がより妥当性はあるのだが、それもまた決して合理的な見方ではない。何しろラストで芳雄君は完全に冷静な判断力を失っているのである。そんな状態ではあの出来事が現実かどうかも断定はできないだろう。だからあれをどう解釈するかについては「わからない」としか言いようがないのだ。
京極さんではないが、UFOやら幽霊やら、それらの殆どは錯覚だったり妄想だったり、合理的に説明できるものばかりだが、だからと言って「そんなものは『絶対に』いない」と完全否定できるものでもない。それを「見た」と人が信じる以上、それが外的なものか内的なものかは分からないが「何かがあった」ことは事実なのである。
 自然科学的な判断と、合理主義的なものの見方とは、必ずしも一致するとは限らない。「神様なんているわけないじゃないか」と言い切ることは簡単だが、「人間」が「心」を持った存在である以上、その心の隙間に「カミサマ」が入り込んでくることを完全に止めることは不可能だ。この世はありとあらゆる「悲惨」で成り立っている。不幸が、災厄が、裏切りと迫害が、孤独が、運命が、人を苛むとき、どんなに理性的な人間であろうと心に揺らぎを覚えない人間はいないだろう。近しい人が亡くなろうとする時、信仰を持たぬ人でも神に祈りはしないだろうか? それくらい、人の心は弱くて優しい。
 『神様ゲーム』は、そんな「揺らぎ」を初めて覚えた少年の物語である。グータロウ君だって、かつて芳雄君と同じような孤独と悲しみを経験したことはあるはずだ。にもかかわらず、芳雄君の心に思いを馳せるまでには至らなかったというのは、「鈴木君は神様である」という芳雄君の判断をそのままに鵜呑みにして、一歩引いて彼がどのような心理の過程を辿ったかを見損なってしまったからだろう。ミステリファンが陥りやすい落とし穴であるが、謎の「解釈」に拘るあまり、その背景にある人間の心理にまでは思い至らないのである。端的に言ってしまえば、傲慢が心を支配してしまっているために思いやりの心をなくしてしまっているのだと言っていい。
 「ミステリとしてどうか」なんて疑問もグータロウ君は呈していたのだが、これについては江戸川乱歩の『陰獣』が「結末が曖昧」と批判されたことに対して、中島河太郎が「論理的な結末は一旦付けられている」と反論したことを想起してもらえれば、決して『神様ゲーム』もアンフェアだと非難することはできないだろう。事件の解明は一度、合理的になされている。あの衝撃の結末は、芳雄君が自己喪失してしまったあとの出来事なのだ。にもかかわらず、その結末を基準に、過去の事件の解釈まで曲げようというのは、我田引水に過ぎる。
 もちろん、芳雄君の悲しみを理解した上で、「あの出来事の意味は、本当はどういうことだったのだろう」と想像することは読者の自由である。しかしそこに「真実」や「絶対」はない。鈴木君を神様だと見る場合でもその逆でも、それなりの解釈は成り立つし、またどちらの解釈にも否定的な事実が付随して謎を更に深めることになる。グータロウ君はネット上の「解釈」をいろいろあさったようだが、そんなものは全て推理マニアの自己陶酔の粋を出るものではない。いくら読んだところで、何の意味もないのである。まだしげのように、「よく分からなかった」で考えるのをやめてしまった方がマシというものだ。
 『エヴァ』騒動の時には私もさんざんホモオタさんから「解釈」を執拗に語られたものだったが、最近のグータロウ君はそのイメージに重なってしまうのである。「語られていないもの」については「真実は読者の数」だけあるということなのだから、「解釈」に「遊ぶ」ならばともかくも、「それはおかしい」とか言い出して自説に固執するのは困った「信者」でしかない。私は、どうせならグータロウ君には「いや、鈴木君は実はハウルで(性格悪いしいろんな姿を取れるそうだし)、ラストのアレはカルシファーの仕業なんだよ」くらいのことを言ってくれることを期待していたのだが(これでも辻褄は合うぞ)、そんな心の余裕も彼はなくしてしまっている。本当にいったいどうしちゃったのだろうか。未だに『響鬼』30話ショックが尾を引いているのだろうか。
 再度、繰り返すが、「鈴木君が神様だったのかどうか」という点に固執していては、あの小説の本質を見失う。芳雄君は過去の私たちである。私たちが大人の現実を垣間見、ある時はそこで反抗し、ある時は傷つき、ある時は勇気を奮い起こし、ある時は逃げ出したように、芳雄君は「冒険」を繰り広げた。そこに『神様ゲーム』がジュブナイルとして書かれる意義があったとも言えよう。今まさに「傷ついている」子供たちにとっては、芳雄君は自らの分身として映るはずだ。彼の末路に共感を覚えるか反発を覚えるか、その反応は極端だろうが、それはまさしく芳雄君が読者の鏡として機能しているからである。
 私は別に、『神様ゲーム』を世の親たちに対して「ぜひ子供に読ませろ」なんて言うつもりはない。前にも書いた通り、子供は読みたいものは勝手に読む。その理屈が分かっているはずのグータロウ君が、あえて「子供に読ませたくない」というのはあまりにも傲慢だし、「読書」は何のため誰のためにあるものなのか、その意味自体を見失っている。読書は読む当人のためだけにあるものだし、その意味も当人にしか考えられないことなのだ。
 親として、毒のある物語を読ませたくないと感じる気持ちは分からないでもないのだが、それを言い出したら毒だらけのSFやミステリーはみんな読ませちゃいかんだろう。じゃあ彼は何を子供に読ませたいのだろうか。それって子供を純粋培養するために「ディズニー映画だけを子供に見せていたい」と言ってるのと同じだってことに気が付かないのだろうか。せいぜい「うちの子にはまだ早いな」って言うんならまだ理解できるのだが、「必要ない」と言うに至っては、もう彼自身が「カミサマ」になっちゃってるにようにしか見えないのである。
 グータロウ君がなんでまたそんな思考停止状態に陥ったのか、定かではないのだが、やっぱりネットを漁ったのがよくないんじゃないかな。言葉だけが浮遊しているネットってのは、情報伝達の方法としては非常に単純化されてるために、受け取る側はその送り手の他の要素を鑑みて客観的に判断することができにくい。そこに自然と「洗脳」効果が生まれてるんだよね。
 だからまあ、ネットなんてのは顔見知りのブログ見るくらいに留めといた方が無難なんじゃないか。とか何とか言ってたら、話が横に逸れてきたんでこのへんでやめとこう。


 仕事帰りの私を駅まで迎えに来たしげが、とんでもないことを言い出した。
 「あさっての二日市温泉行きだけどさあ、調べてみたけどここからだと車で一時間半かかるみたいよ?」
 「何言ってんだよ、三十分かそこらで着くよ」
 「あんた、うちから行けるところはみんな三十分だと思ってない?」
 そんな馬鹿なことがあるわけないのだが、大野城まで二十分弱、大宰府まで三十分くらい、二日市はもう目と鼻の先だ。多少渋滞に引っかかったとしても、一時間はかかるまいというのが目算なのだが、出かけるのが夜だし、初めての道なので自信がないと言う。
 それなら午後六時の出発予定を少し繰り上げる必要があるかと思い、父に電話してみる。
 「しげが『二日市まで一時間かかる』って言いようっちゃけど」
 「そげな馬鹿なことがあるか。三十分」
 確かにそれが常識的な判断なのではあるが、常識が通用しないのがしげであるから、油断はならないのである。
 狙っていたわけではないが、相談も兼ねて、食事に誘われる。
 「空港の国際線に行く道の途中に、焼肉屋ができとろうが、そこへ行かんや」。
しげに「どうする?」と、“一応”聞いてみたが、「どう…」の段階で既にしげの目は爛々と光っていたのであった。

 父を店まで出迎えて、件の焼肉屋に向かう。
 車の中で、父が「あさっての温泉行きのことは姉ちゃんにはまだ言うとらんったい」と言うので驚く。
 「なんで?」
 「言いたくないと」
 そう簡単に言われてはミもフタもないが、頑固というよりは駄々っ子という感じだ。年を取ってきて、もういくらワガママを言っても構わない気分になっているような感じだ。
 「お前には言うとらんばってん、姉ちゃんとの間ではいろいろあっとうと。お前が聞いたら絶対怒るけん、言わんけどな」
 「なら聞かんよ」
 父は私の性格をからっきし理解していないので(親くらい子供に幻想を抱いている存在はあるまい)、そんな風に勝手に決めつけるのだが、多分、私は何を聞いても怒らないと思う。どうせ姉が私の悪口を言ってたとか、その程度のものだろう。内容も「ボケ老人(=父)を私に押し付けやがって」とか「本当は店を私に譲るのが惜しくなったんだろう」とか、見当がつく。けれど、あの頑固な親父のそばにずっといれば、それくらいの愚痴は出て当然だ。それなら聞いても聞かなくても、姉を恨みに思うことはない点では同じである。
 しかし、毎度毎度、会うたびに姉の悪口を聞かされて「店を辞める」と聞かされてもう一年くらい経つ気がするが、いっこうに仕事を辞める気配がない(辞めると言って廃業広告まで出したのに取りやめた)。腹を立てながらも、毎日姉と顔を着き合わせてやっぱり一緒に仕事をしているのである。短気な癖にのんびりしているので、私にもこういう父の優柔不断な性急さはなかなか理解しがたいのである。

 焼肉屋はかなり分かりにくい位置にあって車も停めにくかったが、回転して日も浅いので、今のところはなんとか繁盛している様子である。
 しかし、値段がバカ高かったのには恐れ入った。ファミリーセット、ロース、カルビ、豚バラ、ウィンナーに焼き野菜、四人前で7000円というのはちょっとねえ。いい肉使ってたのは食べてみて分かったから、ダメな店ではないのだけれど、庶民にはやはり「ウエスト」でちょうどいいと実感したことである。

 
 ドラマ『熟年離婚』第一話。
 アニメの新番組があまり見られない分、ドラマの新番組を漁って見ている感じの最近であるが、『ブラザー・ビート』とどっちを見るか迷って、こっちを選ぶ。まあ、渡哲也で選んだってことだね。
 離婚を切り出す奥さんは松坂慶子なのだけれども、平時子よりは役柄に合っているとは言え、渡哲也に相対するとやはり今ひとつ「軽い」気がしてならない。『義経』に引き続いての夫婦役だけれども、何かこの二人でやらなきゃならない事情でもあるのだろうか。
 台詞を字面だけで追っていると、こりゃもう、渡哲也の方が圧倒的に横暴なのである。家族のことを考えているつもりになって自分の価値観を押し付けているだけだし、息子の交際相手のことを「子持ちで離婚調停中の夫がいるじゃないか」と悪し様に言うのは、息子思いから口走ってしまったにしても、ちょっとひどすぎる。もうちょっと事情を聞いてあげたら、と家族がたしなめるのも当然である。イマドキ、ここまで時代錯誤な親父がいるもんなのかねえ。
 ところが渡哲也が毅然としてこれを言うと、これが全然ワガママに聞こえなくてねえ(笑)。軟弱に「事情をよく聞かせてみろ、お前が本気なら俺も真剣に考える」なんてモノワカリのいい親父なんかを渡哲也に演じてほしくはないのである。でもおかげで「アナタのそういうところについて行けないんです!」と泣きじゃくる松坂慶子の方がワガママに見えちゃうのは困ったもので。
 「夫婦は一生連れそうものだ」とは、今や「絶対」ではなくて「希望的観測」でしかあるまい。今まさに結婚しようという恋人同士であっても、「この人と一生一緒に暮らせるのか」と考え出したら一抹の不安は感じるのではなかろうか。「結婚」という形式、これが必ずしも「家族」を形成するための手法として最適のものとは言えなくなっている現在、「熟年離婚」という題材を単純に「家族の崩壊」として描くのであれば、これは陳腐なドラマに堕してしまうと思う。
 離婚をすることがまた一つの人間関係の形成に繋がるような物語になっていけばいいなあと勝手に予測を立てながら見始めたのだが、第一話ではまだどんな方向に向かって行くのかはよく分からない。変な言い方だが、渡哲也は近年、本当にいい役者になってきたと思っているので、ドラマが多少ワヤになっても、一応これは最後まで付き合って見てみようと思っているのである。


 しげ、夜中に「寝つけない」と言って、奇声を挙げたりドタバタしたり。「足が気持ち悪い」と言って何度も風呂場と部屋を往復する。おかげでこちらも眠れない。
「なんで気持ちが悪いん?」
「多分、珍しく肉食ったせいよ」
 そんな馬鹿なわけあるか。なかなか寝つけないしげにも困りものなのだが、寝たら寝たで、今度は夢遊病癖が出て、やっぱりトイレと寝床を行ったり来たりすることも多いので、やっぱり私は眠られないのである。
 朝がホントに辛いんだよ。頼むから早寝してくれ。特に、土・日の朝は『マックス』と『響鬼』を澄んだアタマで見たいんだよ。

2002年10月13日(日) 芸のためならって問題でもないんだけど/DVD『アベノ橋魔法☆商店街』3巻/アニメ『サイボーグ009完結編』
2001年10月13日(土) 封印/第三舞台『ファントム・ペイン』(鴻上尚史作)/アニメ『カスミン』第1話
2000年10月13日(金) 病気自慢と白髪三千丈と……ね、眠い/映画『レッド・ブロンクス』



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