無責任賛歌
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2005年10月24日(月) |
子役が大成するには/『諸怪志異(四)燕見鬼』(諸星大二郎) |
終戦60年スペシャルドラマとして制作された日本テレビ系列の『火垂るの墓』(2005年11月1日(火)21:00〜 23:55)、正直、見るかどうか悩んでいたのだけれども、キャスト表を見て、これはぜひとも見ねばならない、と決心した。いえいえ、松嶋菜々子目当てではありません(笑)。 野坂昭如の原作小説や、高畑勲監督のアニメ版をご覧になった方ならばお分かりいただけると思うが、この物語のキモは二人の兄妹の「子役」の演技如何にかかっていると言っていい。ただ、名子役というのもそうそういるわけではないので、学芸会的な演技でお茶を濁されるんじゃないかなあという心配が子供を主役にしたドラマでは常にあるのだ。 ところが、節子役が先日『ウルトラマンマックス』「第三番惑星の奇跡」でそれこそ奇跡のような名演を見せてくれた佐々木麻緒ちゃんだと知って、年甲斐もなく興奮してしまった。いえ、ヘンな意味ではありません(笑)。1999年6月1日生まれというから、まだ6歳、それであれだけ感情を抑制した演技ができていたとは驚異の才能だが、もしかしたら今度の『火垂るの墓』の演技次第では、日本のダコタ・ファニングになれると踏んでもいいんじゃないかと思っているのである。 一応はタイトルロールの松嶋菜々子、ナメてかかってふやけた演技をしようものなら、麻緒ちゃんに「食われる」んじゃないかと思うが、私としてはぜひ麻緒ちゃんに「食って」ほしいと思う。いやさ、日本の社会ってのは子役に厳しいからね。ちょっと芽のある子役だと、仕事の上でもライバルから足を引っ張られるし、私生活でも親の過保護とか学校でのイジメとかストーカー被害に遭うとかで、せっかくの才能が潰されてしまうことが往々にしてある。杉田かおるにしろ安達祐実にしろ、そんな目にあってなお、しぶとく(笑)生き残ってきたのだ。麻緒ちゃんにもたとえ大人の社会のドロドロに巻き込まれようと、それを弾き飛ばすくらいの「逆境に負けない心」を持ってほしいのだ。 6歳の子供にそういう「図太さ」を要求するのは酷かもしれないが、そうでなければ海千山千、魑魅魍魎が跳梁跋扈する芸能界で、決して生き残れはしない。「逆境すらも己の糧とする」という姿勢は、たとえ子役であろうと、「役者」である以上は身につけなければならない必須条件なのである。 今回のドラマ出演をきっかけに、麻緒ちゃんにはぜひ何かの映画に出てほしい。日本の子役出身者は、なぜか「映画」では今ひとつ代表作を残せない感じがあるんだが、これも「子役は大成しない」というジンクスの原因の一つになっている。だから、もう五本も十本も映画に出ている神木隆之介君の後を、ぜひ追っていってほしいのである。 ほい、そこのロリコン中年のオタクおじさんよ、少しばかり自分の欲望を抑制して、見た目の可愛さだけではない「役者」としての女の子を見る目を養ってみたらいかがかね。
週明けで何か新しい検査結果でも出たかと、病院に父の見舞い。 しげとの待ち合わせはいつもどおり博多駅でだが、紀伊国屋に寄って取り置きしてもらっておいたDVD『エマ』の3巻と4巻を買うので手間取り、時間に遅れる。と言ってもせいぜい2、3分なのだが、「遅い〜!」としげは頬をふくらませる。 こんなふうにしげの機嫌が悪いのはたいてい空腹なせいなので、見舞いの前に食事に誘う。「何が食べたい?」と聞くと、開口一番、「豚カツ」。 「じゃあ、天神コアの上でいいか? そこなら福家書店にも寄って行けるし」 実を言うと、「いいか」と聞いてはいるが、そこ以外に天神に豚カツ屋があるかどうかよく知らないのである。最近は博多駅より南側の方が活動テリトリーが広くなってきているので、天神方面はすっかり地理不案内になりつつあるのだ。 福家書店に入ると、カウンター横に、あさりよしとおさんの特集コーナーができている。見ると、今度の日曜日にサイン会が開かれるとか。『るくるく』5巻の発売記念だそうで、こりゃもう『元祖宇宙家族カールビンソン』以来のファンとしては、万難を排してでも参加せざるべけんや、である。 整理券を発行してもらうと、200名限定なのに番号はまだ52番。ちょっと「えー?」って感じである。福岡のオタクどもはいったい何をしてるんだと少しばかり憤りを感じたが、考えてみればあさり作品がオタクマンガの先陣を切って突っ走ってたころって、もう10年、いや、20年近く前なんである。今の若いオタクには『カールビンソン』がかつてはアニメ化されるくらい人気があったことや、『エヴァンゲリオン』の第三使徒サキエルほか、いくつかのキャラクターをデザインしたこととか、そういう基礎知識もないんだろう。 まだ整理券の発行期間は5日ほど残っているので、もうちょっと数は増えると思うけれども、あさりさんのサイン会が百人足らずというのはちと寂しい。ファンの人でまだこのサイン会の存在に気付いてなかった人は、ぜひ今度の日曜に福家書店まで足を運んでいただきたいと思う。 まだ買い損なっているマンガの新刊を数冊購入して、七階のトンカツ屋で食事、その後、病院へ向かう。
今日は昼間、小倉の親戚が父の見舞いに来たそうだ。 例の借金まみれの親戚で、申し出を断ったり、ほかにも細かいことで何やかやとトラブルがあったので、少し疎遠になっていたようなのだが、どこかから父の入院を聞きつけて、駆けつけてきたものらしい。 「親戚が病気になっても、こっちは気付かんままのことが多いとに、こっちの病気はすぐ親戚に知れ渡るんやね」 「そうたい。仕事しよって休んどったら、すぐに『店に出とらんけど、どげんしたとね?』って言われっしまうけんなあ」 「見舞いには何か持ってきたとね。酒?」(この親戚は父の糖尿を知っていてもあえて酒を土産に持ってくることが多いのである) 「今度はさすがに持ってこんやった(笑)。ばってん、来る見舞いがみんなおんなじことば言うったい。『もうこれで酒ば飲めんごとなったな』げな。俺はお母さんが亡くなる前もやめるときはちゃんと酒はやめとうとに」(もちろん母が亡くなってからの父はしこたま飲んでいるのである) 「僕は何も言わんよ。『やめろ』って言っても、こっそり隠れて飲むのはいくらでもできるっちゃけんね。お父さんが自分で『やめる』って思わな、どうもならんやん」 「飲んでも飲まんでも、まあ、俺もあと十年やな」 「そこまで行ってやっと平均寿命やない」 父が本気で断酒するつもりがあるのか、どこまで信用していいかは分からないのだけれども、病院に自分から来たということはやっぱりもちっと長生きしておきたいという気持ちはあるのだろう。自重してもらえるならありがたい。たとえこちらがいい年をした大人になっていようと、いざというときに「たかれる」親がいないというのは寂しいものであるから(笑)。
帰りにコンビニに寄って、『週刊文春』を立ち読み。 小林信彦の『本音を申せば』、「『下妻物語2』をなぜ作らないのだ」とか「長澤まさみはいい!」とか、昭和7年生まれとは思えないような若い発言の連打。基本的な意見としては私も賛成なのだけれど、『下妻2』を作ろうってほどの力が今の日本映画界にはないし、長澤まさみをちゃんと女優として育てられるだけの監督がどれだけいるのかってことを考えると、先行きには不安要素の方が多い。 小林さんは金子修介に期待してるようだけれども、その金子作品に長澤まさみが出演していたことを覚えている人がどれだけいるだろう。『ガメラ』の評価が高いために錯覚されているけれども、実際には金子作品五本のうち四本半くらいは駄作か珍作だ。金子作品がきっかけでブレイクした女優さんや美少女って、そんなにはいないと思うのだが。巷間言われてるほどには金子修介が女の子を魅せるのが上手い監督だとは思えないのである。
帰宅して、昨夜録画しておいたNHKBS2の舞台中継、劇団ダンダンブエノ公演の『礎』を見る。東京まで公演を見に行って、最前列で堪能した芝居だが、私たち夫婦が映っていたかどうかは暗くてよく確認できず。つか、見てる間に芝居に引きこまれてしまっていたので、自分が映ってたかどうかなんて気にしなくなるのである。 円形の舞台だから、生で見た時には役者さんがこちらに背中を向けている時には当然、顔の表情は見えない。テレビだとそれをカメラが追ってくれているので、テレビの方がお得のようだが、舞台はやはり一人一人の芝居が舞台全体の空気を作っているものである。切り取られた画面だけではその空気はどうしても伝わらない。たとえ背中を向けていても、セリフを喋っていなくても、その人がそこにいる、それを見ている私たちがいる、その「空気」を味わうことこそが、舞台の醍醐味なのだ。 でなきゃ、誰が東京まで往復の旅費だってバカにならないのに毎年毎年、芝居を見に行くのか、ということなのである。テレビは所詮、舞台の疑似体験に過ぎない。 それなら、テレビで舞台を見ることは無意味なことなのかというと、それも断言はできない。舞台が一期一会のものであることは事実なのだが、視聴者に「テレビに映っていない部分」までも想像し好奇心を抱く心がありさえすれば、舞台の本質が奈辺にあるかを理解することはできるからである。逆に言えば、テレビの舞台中継は漫然と流し見するだけではその魅力の十分の一も伝わりはしないものである。 テレビ中継の意味は、もっと即物的に言ってしまえば、舞台を見るのにはどうしてもかなり高額なお金がかかるから、せめてテレビででも見られればってことの方が重要であるだろう。 若い人はね、すぐに「お金がないから舞台を見にいけない」って言い訳するけどね、テレビ中継が毎週あるのにそれすらもチェックしない人がたくさんいるからねそんなのがウソだってことはすぐにバレるの。つか芝居好きって言うんなら、そんな見え透いたウソついてんじゃねえよ。私が腹が立つのはね、本当は芝居を好きでもないやつ、芝居をやる気がないやつが、そのくせあの芝居はどうの、この芝居はどうのと、批評にもなってない独りよがりな感想を居丈高に一席ぶちやがったりするからだ。 まあ、NHKBSもWOWOWもシアターチャンネルも、全然見られない地上波オンリーのど貧乏な環境にあるから仕方ないんですって言うやつもいるけど、そんなやつに限ってゲーセンにだけはしょっちゅう行ってムダ金ばっかり使ってやがるんだわ。まったく、簀巻きにして那珂川に叩きこんでやりたいよ、マジで。
マンガ、影崎由那『かりん』7巻(角川書店)。 アニメ放映直前発売の7巻だけれど、ここで一応第一部完、といった雰囲気。果林と雨水君の誤解も解けたし、雨水君の「不幸」も一応、なくなったし。アニメはここいらあたりまでを目途に映像化する予定なのかな。小説版も合間に挟めば、充分半年から1年は放送できるだろう。いいもん作ってくれると嬉しいけど、製作のJ. C. STAFF、作品によって作りにムラがあるからなあ。 しっかしまー、あれっすねー、ついに果林が雨水君の血を吸い……じゃなかった、逆に血を送り込んじゃったわけだけど、このあたりのシーンはもう、描写としてはまんま「初体験」っすねえ(笑)。 果林、心臓はどっくんどっくん鳴ってるし、顔は紅潮して涙流してるし、何より震えて痙攣しながら吐息を漏らしてる様子がもう、何というかひたすらエロい。いや、もともと「吸血」は性行為のアナロジーなわけだから、「増血」もまたそれっぽいのは正しいのであるが、作者がそこまで考えてこのマンガを描いているかどうかは知らない。 でも未だにどうして果林だけが「増血鬼」という吸血鬼一族の中の「異端」であるのか、その謎はまだ解かれない。そこがハッキリしないと、へたすりゃ物語全体がアイデア倒れにもなりかねないので、次巻以降、それがちゃんとドラマに絡んだ形で説明されることを期待したい。
マンガ、諸星大二郎『諸怪志異(四)燕見鬼』(双葉社)。 掲載誌であった「漫画アクション」の路線変更および休刊で、連載が途切れてしまっていたシリーズが描き下ろしつきで完結……しなかったけど、続きの5巻は完全描き下ろしで出してくれるのかな? 前巻から小さかった見鬼の阿鬼ちゃんも、立派な美少年・燕青眸に成長した。タイトルの「燕見鬼」は青眸の通称である。 予言書『推背図』を五行先生から託された見鬼。青溪県にそれを渡すべき人物がいると言われ、江南に向かう途中で、かねてから「推背図」を狙っていた仇道人、十四娘といった盗賊たちとの攻防を繰り広げる。幾度かの戦いの末、傷ついた見鬼は、ついに「推背図」を奪われてしまう……。 初期の短編シリーズだったころの、それこそ『聊斎志異』を意識していたころの作品が好きだったので、続きものになってしまった今のシリーズは、正直いまいちであるのだが、一度完結させたものを復活させると、どうしてもかつての味わいが失われてしまうのは仕方がないことなのかもしれない。呂太公の娘・小玉の、気丈な活躍ぶりなんかはカッコイイのだけれど、日常の中に潜む「怪を志す」面白さは消えてしまつているのである。 初期の味わいを残した短編が巻末に二作、収録されてはいるが、これも昔日の勢いはない。それでもつまらないというわけではなく、水準に達しているのはさすが諸星さんなのだが、できれば以前のような「中国版 妖怪ハンター」の路線を復活させてほしいと思うのだが。
2002年10月24日(木) 多分、心の壁を作ってるのは私の方なのだろうが/『空前絶後のオタク座談会3 メバエ』(岡田斗司夫・山本弘)ほか 2001年10月24日(水) こぉのー、むねのとぉきーめきぃー/『彼氏彼女の事情』12巻(津田雅美)ほか 2000年10月24日(火) 年取ったシワをCGで消すってのは無理?/ドラマ『ウルトラセブン・地球より永遠に』ほか
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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