無責任賛歌
日記の表紙へ昨日の日記明日の日記




ホームページプロフィール掲示板「トーキング・ヘッド」メール
藤原敬之(ふじわら・けいし)

↑エンピツ投票ボタン(押すとコメントが変わります)
My追加


2005年10月23日(日) 父との遭遇/『D.Gray-man(ディー・グレイマン)』6巻(星野桂)

 椎名高志の『絶対可憐チルドレン』を読み返していて、ふと、キャラクターのネーミングには何か意味があるのかなあ、と考えていて、急に脳内に電撃が走った。
何だこれ、『源氏物語』じゃん!
 そう、二日間、全く気がつかなかったのだが、あのマンガのキャラクター、『源氏物語』の登場人物の名前をモジって付けられていたのである。

 明石  薫(あかし・かおる) → 明石君(あかしのきみ)+薫大将(かおるのたいしょう)
 野上  葵(のがみ・あおい) → 葵上(あおいのうえ)
 三宮紫穂(さんのみや・しほ) → 女三宮(おんなさんのみや)+紫上(むらさきのうえ)
 皆本光一(みなもと・こういち) → 光源氏(ひかるげんじ)
 柏木  朧(かしわぎ・おぼろ) → 柏木(かしわぎ)+朧月夜(おぼろづきよ)
 桐壺帝三(きりつぼ・たいぞう) → 桐壺帝(きりつぼのみかど)
 明石秋江(あかし・あきえ)&好美(よしみ) → 明石君+秋好中宮(あきごのむのちゅうぐう)
 花井ちさと(はない・ちさと) → 花散里(はなちるさと)
 東野  将(とうの・まさる) → 頭中将(とうのちゅうじょう)
 あと、1・2巻には登場していないが、兵部京介(ひょうぶ・きょうすけ) → 兵部卿宮(ひょうぶきょうのみや)。

 ネットを見ても全員の符合がよく分かってない人も多いみたいなので、一応書き出してみた。つか、ここまであからさまなのにどうして私は二日間、この事実に気がつかなかったのだ。本気でボケてきたのか。可能性を否定できない年になってきたことがコワイ。
 『源氏』は「元祖恋愛育成もの」と言えなくもないから、それで「チルドレン」の育成係が皆本さんということになるわけだなあ、とその符合のさせ方に感心。でもそうなると三人娘の中で終の相手となるのは紫穂ってことになりそうだけれど。薫の性格がオヤジなのは、薫大将がオトコなせいなのか?(笑)
 けれどこれで、敵対組織の名前が「普通の人々」な理由が分かった。こいつらみんな貴族だもんな。ちなみに、『源氏物語』には「磯野」や「幸楽」なんてキャラクターは出てきません(笑)。となると、これからは、六条やすみさんとか宇津瀬美子さんとか浮舟匂さんとか出てきそうだなあ。いや、楽しみだ。


 『仮面ライダー響鬼』三十七之巻「甦る雷」。
 殆どギャグらしいギャグもなく、シリアスに「朱鬼編」が完結。もしかしたら脚本段階ではギャグが一つや二つ、あったのかもしれないが、現場でカットされたってことも考えられなくもない。
 とは言え、しょーもないギャグがなくなったからと言って、「凄く面白くなった」わけではない。つか、結局今回のエピソードはあきらの心の葛藤を描いた程度の「番外編」だったわけで、あと十何回かしか話数が残ってないってのに、何をモタモタやってやがるんだともどかしくなる。朱鬼とあきらを絡めるんだったら、朱鬼は生かしておいて、猛士の分裂を描いていく伏線にしなきゃ意味がないだろう。
 でもそこまでの知恵がこのスタッフにあるとも思えないので、「平成ライダーは所詮はこの程度のレベル」と割り切って、お気楽に見るのがよかろうと思う。文句を付けようと思えば、ありきたりのストーリーだのなんだの、そりゃ、腐るほど出てくるから。
 朱鬼の死に顔を見せてなお斬鬼に「美しい」と言わせるだけの現実を厳粛に受け止めさせようって度量がスタッフにあったなら「面白い」と言ってあげてもいいんだけどね。
 役者さんの熱演があればこそまだ見続けているのではあるが、スタッフの首を挿げ替えてもまだこんなにストーリー展開がもたついてるのはどういうわけなのかね。


 昼から父の見舞い。
 休日で、特に検査もないし、主治医の先生もいらっしゃらないので、本当は見舞いを予定してはなかったのだが、朝方、父から電話がかかってきて、「今日は出かける予定はあるとや?」と聞かれたのである。
 「いや、別にないけど?」
 「出かける予定があるとやったら、読む本ばまた持ってきてもらおうかと思いよったとばってん……」
そんな寂しい言い方をされては、行かないと罪なような気持ちになるのである。
しょうがないので、昼メシを食いに出るついでに病院にも回ることにする(笑)。

 家にある本を引っ張り出すには山をまた一つ二つ崩さなきゃならないし、私の持ってる本は昔のものが多くて、概して活字が小さい。父が希望する捕物帳の有名どころはたいてい持ってはいるのだが、大きい活字版で買い直してもよかろうかと、博多駅の紀伊国屋に寄る。それに嶋中文庫から出ている『銭形平次捕物控』シリーズは、私が以前買っていた「富士見時代文庫」版とは作品のセレクトの仕方が違うのである。富士見版には何と平次第一作の『金色の処女』が収録されていない。これは多分、第一作のころは平次とお静も結婚してないし(タイトルの「金色の処女」はお静のことである!)、ガラッ八も出てこなくて、後期の平次とイメージが違い過ぎるという理由もあったのだとは思うが。
 『銭形平次』の11,12巻と、同じ嶋中文庫の『人形佐七捕物帳』1巻、光文社文庫の『半七捕物帳』1巻、新潮文庫の『再会 慶次郎縁側日記』の五冊を購入、病院に向かう。

 病室では父は前に貸した『銭形平次』を読みふけっていた。熱中していて、私たちの訪問に気がつかなかつたくらいである。
 「あともうちょっとで読み終わるぜ」と得意げである。テレビは全く見ていないらしい。「今度は本ば読もうと思ってな」と楽しそうである。持ってきた本を見せて、「前の『桃太郎侍』とかはどうだった?」と感想を聞いてみる。「テレビと全然、違うとったろ?」
 「ああ、テレビばどうしても思い出すもんやけん、何か違うとるなあって感じしかせんやった」
 「『一つ人の世生き血をすすり』とかも言わんしね」
 「そうたい。ドラマにする時に変えたとやろうな」
 「映画は高橋英樹やなくて市川雷蔵がやっとるんよ。こっちの方が原作に近いんやね」
 母の生前は、父とこんなふうに時代劇の話をすることは殆どなかった。本や映画を見ているのはいつも母だったし、私の昔の映画の知識は、殆ど母や祖母から(それこそ「目玉の松ちゃん」の昔から!)聞かされるうちに自然と身についたものである。
 しかし、父もまた戦前生まれであって、父の青春時代と「映画の黄金時代」とはぴったり重なっている。父と昔の映画の話をあまりしてこなかったのは今更ながら痛恨のことで、「時代の財産」を聞き損なってきた、という忸怩たる思いに駆られてしまう。
 父とこれから先、こんな他愛無い話がどれだけできるかは分からないが、本をきっかけに昔のことが聞けたらいいなと思う。もっとも父が記憶を辿ることができればの話であるが(笑)。
 


 唐沢俊一・おぐりゆか『唐沢先生の雑学授業』(二見文庫)。
 コンビニでも「〜の雑学」みたいなタイトルの雑学本が何種類も出回っていると、何かもう一つ「読ませる」コンセプトがないとなかなか手に取ってみようという気にならないものだが、これは唐沢センセイに対して「うわの空・藤志郎一座」の女優、おぐりゆかさんを生徒に仕立てるという趣向が見事に生きていて、これまでの唐沢さんの雑学本の中でも一番読みやすく楽しい一作になっている。
 唐沢さんがお一人で書かれた本については「生徒」はどうしても読者になってしまうわけで、先生に対して「それ、ホントですか?」とか「○○が○○だとすると××は××なんですか?」とか聞き返すことができずに、「お説ゴモットモ」と受け入れるしかなかったわけである。雑学本というのは、専門的な知識書じゃないんだから、読者はどうしてもそういうツッコミを入れたくなるものなので、そこが弱点になってしまうが、これはおぐりさんが生徒の役目を見事に果たしていらっしゃる。この場合、生徒がバ……いやいや、素朴で基本的な疑問を発してくれればくれるほど、一問一答の面白さは弥増す。あまりに素朴すぎて虚を突かれて、唐沢センセイが咳払いで誤魔化したりケツまくって逃げたり、そのあたりのやり取りも楽しい。インテリな先生というものは、インテリだってだけで権威的で横柄で、ヒゲなんかピンと立ててるけれども、それが生徒の疑問にまるで答えられなくて返事に窮して四苦八苦する、その様子を笑って見るのが面白いのである。
 雑学はその信憑性においては眉唾的なものをかなりなパーセンテージで含んでいるものだから、それを前提として、知識としての真実性よりも「話のネタ」になる程度のもので構わない。唐沢さん自身も「雑学ブーム」については自分が仕掛け人の一人であるにもかかわらず「日本人にも知に対する好奇心がちゃんとある」とか「トリビアは真実である必要はない」とか、意見が揺れまくっていて、何が言いたいのかよく分からないくらい混乱しまくっていたのだが、おぐりゆかさんを「生徒」に選んだということは、ご自身の混乱自体もネタとしてエンタテインメントを仕掛けるだけの余裕が生まれてきたということなのだろう。それらのトリビアに関する発言の変遷も含めて読んでいくと、この本、めっぽう面白いのである。
 だもんで、「青写真は冬の季語である」というトリビアについて、本文に書かれている通り、「変なもの」も多いので、そういうものは「実際には使われることが少ない」し、「入試にも出したら文句が出るので出されない」とか、「『馬鹿』という格言が中国発祥であるにも関わらず、現代の中国で通用しなくなっているのはなぜか」という疑問に対して「漢民族が一回滅亡してるから」というフォローはしなくてもいいことかもしれない。聞かれたら答えるけど、私の言ってることも眉唾だからね(笑)。

 
 マンガ、田中圭一『鬼堂龍太郎・その生き様』2巻(集英社)。
 1巻の感想を書きそびれてるうちに、2巻が出ました。いや、感想書いたからと言って、「ほう、面白そうだな、いっちょ買って読んだろか」と思う人がたくさん出てきそうなマンガじゃないんですが。ともかく、下品なギャグ、シモネタ、オヤジギャグ、ともかく下らなくてしょーもなくて、そのしょーもなさがかえって快感、なんて感じることのできるバカなアタマの持ち主でないと、これは楽しめません。田中圭一ですから。
 社内抗争で平社員に格下げされた元役員の鬼堂龍太郎が、再び役員に返り咲くまでの闘争を描く……というのが基本コンセプトだというタテマエになっているけれども、実際はどんどん出てくる異常なシモネタキャラたちによって、鬼堂が翻弄されるのを笑って見る、という展開になっている……つか、それが最初からの狙い。原作者としてクレジットされている、実際に自分の降格をネタにビジネスジャンプにマンガ企画を売り込んできたという「古賀たけひこ」なんて人物は実在しないに違いない。
 最近の田中圭一マンガについてはもう知ってる人は知ってると思うが、絵柄を手塚治虫、本宮ひろ志、永井豪、藤子・F・不二雄といった巨匠から拝借して、元ネタのネツレツなファンであれば激怒しかねない紙一重のギャグを展開してくれている。
 こういうことを言うと、私の人格まで疑われそうだから本当は言いたくないのだが、手塚女性キャラどうしの「Hスポーツ」シリーズ、特に「ハメハメ川下り」が私は大好きだ。あと今巻新登場の鬼堂のムスメの萩菜(別名バギナ)が発明する危ないクスリの数々も。
 それでも一応、これだけは言っとこう。
 おいこら、そこの「ハメハメ川下り」でグーグル検索かけてきた通りすがりさんよ、俺は別にお前の同志なんかじゃねえから、間違っても「あなたもハメハメ川下り、いっぺんやってみたいとか思ってたんですね!」なんてメール、寄越してくるなよ。おりゃー、「くだらないギャグほどギャグの基本」と思ってるだけだ。
 あと気に入ったギャグは、「執務室に閉じこもって『自叙伝アニメ』を製作している小泉首相」。アサハラショーコーか、おまいは。って、それをイメージしてるんだろうなあ。しそうだよ、あの人は。いやねー、小泉首相って中曽根さん以来、マンガにしやすいキャラって気がするよね。いしいひさいちのマンガでも一番生き生きしてるもの。


 星野桂『D.Gray-man(ディー・グレイマン)』6巻(集英社)。
 「ジャンプマンガは6巻越したら(連載1年を越したら)つまんなくなる」というのは実際にいくらでも例を挙げることができるジンクスだけれども、つまりは「1年以上連載が続くとは作者も思っていなかった」「だもんで、慌ててテコ入れの設定を考え出した」ってのが理由だったりする。
 前巻で、クロス元帥を追っかけてたアレンとリナリーの前にいきなりアクマの大群が押し寄せて、実はそいつらは「咎落ち」したエクソシスト、スーマン・ダークを狙っていたのだった……って展開、まるでこれまでと繋がりがないんだけれども、その「慌てっぷり」が実に分かりやすくて、「現象」としては面白い。これが最初から計画されていた構成だとするなら、この作者、ストーリー構成力はまるでないと言い切るしかないんだが、もっともジャンプマンガの「人気がなければ即打ち切り」システム自体が、マンガ家さんから等しく「構成力」を奪ってるんで、作者を責めにくいところもある。
 慌てたおかげで、これまで一面識もないアレンが、スーマンにいきなり感情移入するのが不自然極まりないなど、欠陥だらけの物語になっちゃってるんだけれど、絵がキレイでキャラだけは魅力的だから腐女子のファンはストーリーがワヤでも全然いいんだろう。この「絵とキャラだけ」の伝統も萩原一至『BASTERD!』以来のジャンプマンガの悪癖なんだが、かえってその方が腐女子には妄想を逞しくする余地が生まれるから、人気は出るということになる。
 でもなー、フツーのマンガファンが読みたいのは「マンガ」なんであって、「イラスト」じゃないのよ。マンガが腐女子に支えられるような現状は、正直、いつかはマンガを滅ぼすわな。
 それでも『D.Gray₋man』は今みたいな「引き伸ばし」などの迷走が収まれば千年伯爵との決戦まで物語を引っ張って行ける要素は充分持ってると思うのである。思いっきり「パクリ要素」丸出しだった一巻のころに比べれば、キャラクターがだんだん「生きて」きた。
 特に千年伯爵とノアの一族、ロード・キャメロットにティキ・ミックといった「敵方」は、黒の教団のエクソシスト全員をひっくるめてもかなわないくらい、ダークな魅力に溢れている。これも言うまでもないことだけれども、主人公を「成長」させるものは魅力的な敵が主人公の心を揺さぶってこそなんでね。単純に「私は神だ」なんてほざくだけのバカを配置しちゃいかんのよ。
 今巻のティキ・ミックのセリフ、「勇敢な奴は死ぬまでにほんのちょっぴり時間を与えてやった方がいい。心臓から血が溢れ出し体内を侵す恐怖に悶えて死ねる」、悪の魅力はこれくらいでないとね。
 つまりはこのマンガ、決して「子供向け」なんかじゃないので、今回の「咎落ち」エピソードみたいなありきたりで余計な回り道なんかしないでいいのである。ティキ・ミックにスーマンを殺させる結末があるから、何とかキレイゴトのハッピーエンドにならずに済んだ点は評価したいが。「スーマンは助からなきゃいけなかったんじゃないか」なんてキャラのみに偏ったファンの独りよがりで腑抜けた意見なんかは無視してよい。

 そう言えば、言語学の専門雑誌『言語』11月号に、ついに「腐女子」が載ったぞ(笑)。
 「アニメやコミックス、コスプレなどに熱中しているオタクの女性たちが自虐的に称しているもの。(中略)男性のオタクに比べて『女性オタク』たちはファッショナブルで、コミュニケーションが上手で、美しいものに憧れているという特徴があるとされている」んだそうな。
 あー、そうなんスか? ボーイズラブ系同人誌って、男の目から見るととても「美しいものに憧れている」とはとても思えないんスけど。
 まあ、男のオタクがたいていキモ過ぎだから、反作用的にはそう見えるというのもあるかもしれないねえ。実際、ブログや日記開設してるオタクって、女子の方が圧倒的にハバ利かせてるもんな。
 けれど、だからと言って「コミュニケーションが上手」って意見に対して首を傾げざるを得ないのは、彼女たちの見ている世界と視点が異常に狭いからなんだけどね。四十を越してるんじゃないかという女性オタクであっても、世間知や分別が感じられない人がやたらいるのだ。
 やっぱさー、「自分が生まれる前にあった、小説、ドラマ、映画、マンガ、アニメなどに対しても、今あるものと同等かそれ以上の愛情と見識を持っている」人でないと、オタクとは言えないし、いつまでも「腐ってる」と自虐的な態度しか取れないんじゃないかね。

2002年10月23日(水) 『ハリポタ』ホントに面白いか?/『呪いのB級マンガ 〜[好美のぼる]の世界〜』(唐沢俊一&ソルボンヌK子監修)
2001年10月23日(火) 凡人礼賛/DVD『エイリアン9』2巻/『魔獣狩り』(夢枕獏・木戸嘉実)ほか
2000年10月23日(月) 浮かれたホークスファンは情けない/アニメ『犬夜叉』『人造人間キカイダー』第2話ほか



↑エンピツ投票ボタン
日記の表紙へ昨日の日記明日の日記

☆劇団メンバー日記リンク☆


藤原敬之(ふじわら・けいし)