無責任賛歌
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2005年10月27日(木) |
肉体年齢はどうしようもないげど/アニメ『蟲師』第一話「緑の座」 |
深夜アニメ『蟲師』第一話「緑の座」。 某テレビ雑誌には放送するって書いてなかったから、てっきり福岡じゃやらないのかと思ってたよ。つか、東京より5日遅れての放送なんで見損なうところだったんだな。番組表を新聞でチェックしてよかった。
人里離れた山奥の屋敷に隠棲する、左手で筆描きした「絵」をすべて具象化させてしまう特殊な能力を持つ少年・五百蔵(いおろい)しんら(三瓶由布子)。両親をなくし、祖母の手で育てられた彼は、最近その祖母もなくして、天涯孤独の身になっていた。しかし、彼の周囲には絶えずあるものの「気配」があり、普通の人には見えない「何物か」が見えていた。しんらを訪ねてきた、白髪の青年・ギンコ(中野裕斗)は、それを「蟲」と呼んだ。動物でも植物でもない、微生物や菌類とも違う、もっと命の原生体に近い「もの」。そして彼もまた「蟲」を見ることのできる人間であった。ギンコは、しんらの家に、少女の形を取った「蟲」が住まっていることに気付く。ギンコは彼女(伊瀬茉莉也)に声をかける。「お前の名前は廉子(れんず)だろう」……。
製作会社がアートランドってなってるけど、これってあの『超時空要塞マクロス』『メガゾーン23』『銀河英雄伝説』の? 正直、作画的にはあまり期待できるアニメスタジオとは言いがたいのだが(『マクロス』だって、テレビ版の方は、作画がしょっちゅうボロボロだった)、総作画監督が『おジャ魔女どれみ』シリーズの馬越嘉彦であったおかげか、非常に安定した作画である。演出の長濱博史は、これが監督デビューということだが、これまでにも『少女革命ウテナ』のコンセプトデザインなどを手がけている。今回の演出も「堅実」という言葉がぴったりと来るような印象だった。 というわけで、「はてな日記」(最近ではこっちの方が完全にオモテ日記になっちゃったね)の方では絶賛したのだが、実は私はその出来栄えに全然満足していない。「ああ、やっぱりこうなっちゃったか」という予測の範囲内、もっと厳しい言い方をしてしまえば、「想像力が何ら喚起されない」ことに失望すら覚えたのである。 ただし、ご注意して頂きたいのは、私はアニメ『蟲師』が駄作だなんて言うつもりは全くない。客観的に見れば、テレビアニメでこれだけのクォリティを保っている作品は稀有と言ってもいいくらいなのだ。ネットの感想を拾っていっても絶賛の嵐で、何だかもう、ちょっとでも貶したら、熱狂的なファンからカミソリが送りつけられるんじゃないかと心配になるくらい、みんなが誉めちぎっている。 では何が不満なのかというと、要するに「原作にハマッちゃった痛いオタクほど、映像化されたもののちょっとしたイメージの違い、瑕瑾にすら過剰に反応するビョーキ」に罹ってるってだけのことなので、普通の『蟲師』ファンなら、無視してる(シャレではない)点に過剰反応しているだけなのだ。だからまあ、これから書くことは、ある程度の根拠がありはするんだが、多分に主観的なことは自分でも分かっていてあえて書くことなので、あまり真剣に捉えられると困るのである。いつもの駄文だと思って読み飛ばしていただいて構わないんで、逆に私の文章に過剰反応しないで頂きたい。
つまり何が不満かって言うと、原作の極めて淡くぼんやりとしたペンタッチ、諸星大二郎風の幻想的な味わいが、アニメやCGのハッキリした描線や動きによって殺されてしまってるってことなんだね。原作の絵は絵としては決してうまくはない。部分的には描き殴りのように乱暴な線も多々見られ、人物の描き分けも不十分で、「荒削り」と言えばまだ聞こえはいいが、要するに「下手」と言った方が妥当な絵であるのだ。 しかしその「下手な絵」の線が持つ読者への想像喚起力にはすさまじいものがある。暗闇の底に流れる「蟲たちの川」、私が原作を読んだ時に圧倒されたのが、「天の川とは全く違うぼやけた光の群れの、蠢くような流れ」であったのだ。それはまさしく根源的な「生物」としての「生々しさ」と、逆に極めて静謐かつ清浄な「透明感」との、相反する要素が不思議に融合している、何とも言えない「モノ」の気配が漂っていたことにであった。 ハッキリ言っちゃえば、どんなに作画監督の腕が一流であっても、それがセルアニメやCGである以上は、到底表現し得るものではない。「蟲」の生物感、浮遊感を表現するには、アニメは「きれい過ぎる」のである。 なんつーかね、空中に浮遊してる蟲だけどさ、あいつらなんであんなに「遠くにあるものも近くにあるものも全てきれいにピントが合っていて、完全に調整された速度とベクトルを持って動いている」んだよ。機械かお前らは。つまり生命感が全く感じられないのである。空飛んでるブヨだって、もっとフラフラと頼りなげに飛んでいるんだが、「CG蟲」にはそれがない。ただキレイなだけである。「生命感」というか、「暖かさ」がなければ、人間はそういうものに簡単に感情移入できるものではない。だからしんらの、「蟲が見えることが嬉しかった」という述懐に説得力が生じていないのである。 もっと悲しかったのが、まるで映画『蛍川』のような、CGでございって感じの「蟲の川」だ。そりゃ点々の一個一個を手描きしてたらアニメーターが死ぬのは分かってるんだけど、あんなに規則的に動く蟲の群れなんて、あってたまるか。私にはあんなのは蟲じゃないとしか思えないのだが、あのアニメを絶賛してる連中、モノ見る目が麻痺してるんとちゃうかいな。 も一つ、声優さんの演技についてなんだけれど、これもイマドキの癖のあるアニメ声じゃなくて、できるだけ自然な、かなり押さえ目の演技はしちゃいるんだけど、やはり昔の空気というか、その時代らしさと言うか、そんなものを感じさせるほどには至っていないんだよね。「廉子」を「レンズ」って発音していいのか? それともこの名前は蟲を見る「虫眼鏡」って意味か? 細かいアクセントにまで気が配られてないんだよね。
いろいろゴタクを並べはしたが、これは要求としては殆ど「ないものねだり」に近い、ということを付け加えておかねばならない。 だってテレビアニメ製作の予算と時間で、CG使わないで「蟲」を表現できるわきゃないし、演技に関しては私の要求するレベルに達してる声優なんて日本にゃいない。ベテランの声優にだってみんな悪いクセが付いているのである。現在のテレビアニメとしては最高水準にあると思われる作品に対して、私は難癖を付けているのだ。 もちろんそれは「もっと向上のしようがあるんじゃないのか、日本のテレビアニメはこれが限界なのかよ」という不満には違いないのだが、フツーにアニメを楽しむ分には特に遜色のある作品ではない。自分自身、難儀な性格をしているなあと思うのだが、気になった点について、「それはそれでいいんじゃない?」とナアナアな物言いができないのだ。
今までに何度も日記に書いたことがあるが、小説と映画、マンガとアニメは、表現するもののベクトルが全く違う。マンガによって喚起されたイメージと、アニメのそれがズレていたって、それは当然なのである。 なのに、私があえて「原作のイメージに届いていない」と主張しているのは、「原作を見事に映像化している」と言って絶賛している巷のファンが、まるでアタマを働かせていないことに慨嘆しているからだ。彼ら彼女らは、メディアの違いについて何一つ基礎教養を持っていない。静止している「絵」が観客に喚起するイメージはまず「動き」である。それと逆にアニメには既に「動き」があり、それが喚起するものは「そのように動くものの意志」である。当然、そこにズレが生じないはずはないのだが、例えばギンコの演技に、テレビの視聴者たちは少しもそういった「ズレ」を感じなかったのだろうか? 私には、彼ら彼女らが、「絵がよく動いている」事実のみに目をくらまされているだけで、その動かし方が本当にそのキャラクターの、引いては作品の「精神」を表現するのにふさわしいものであったかどうかという点にまで立ち至って考えてはいないようにしか思えないのである。
しかしこんな文句ばかり書き連ねていると、「はてな日記」の方がオモテ日記で、こちらは完全に「ウラ日記」って感じになってくるな(笑)。でもこれは「タテマエとホンネ」という仕分けではなくて、視点を換えて見たものにすぎず、全く正反対に見えてもどちらも私自身の意見であることに違いはないことは明記しておきたいと思う。 だから安心して来週も『蟲師』を見ようね♪
先日購入した使い捨てのコンタクトレンズを初めて装着してみる。 見え具合はどうかというと、確かにちょっと遠くまではより見えるようにはなってはいるのだが、乱視までは矯正できていない感じで、焦点を合わせようとしてもどうしても「ちらつき」がある。メガネの時には画像がもともとぼやけていたから、その「ちらつき」も気にはならなかったのだが、見えるようになったことで自分が見えないことが自覚できるようになったという皮肉な結果である。 手元はやはり老眼が進んでいるのだろう、少し手元から離さないと文字も読めない、ふと気が付いて、裸眼、メガネ、コンタクトと、それぞれでどれくらい「近づけたら」モノが見えなくなるか、老眼の度合いを確認してみたのだが、概ね裸眼では5〜6センチ、メガネだと10〜12センチ、コンタクトだと15〜16センチより近くなると、もう見えない。読書の場合はコンタクトだとかなり手が疲れそうな気配である。もっと離れると今度はモノが小さくなって細部が分からないということになってしまうので、実際にモノがハッキリ見える範囲はかなり狭いということに気がついた。 まさかこんなに老眼が進行していたとは思わなかったので、正直ショックなのだが、これもまあ運命というものなのである。「40で目が潰れるかも」と言われたこともあるから、まだ持っているほうだよな、とマエムキに考えたいと思うが、となるとやっぱり目の見えるうちに本やら映画やら見ておきたいなあと目を酷使する方向にしか発想は向かないのである。
昨日のMRIの結果、しげが聞き損ねていたので、今日は見舞いに行く。 父の表情が何ともよくない。いつも思うことだが、隠し事ができない性格と言うか、察してもらいたいからバレバレの演技をしてしまう性格と言うか、聞く前からMRIの結果がよくなかったことがすぐそれと知れてしまう。 だからと言って、聞かないわけにはいかないから、「どげんやった? MRI」と聞くと、「悪かった。右の動脈硬化がもう50%くらいあるげな」と言って首を指差してみせた。「俺は左の方が悪かとやろうと思いよったとばってん、右やったけんね。左なら血が脳に回った後やから、何とかならんかなあと思うとったったい。それが右やけん……」。 何だか明日にでも死ぬか寝たきりになるかという勢いであるが、ここで「何とかなるよ」と言ったところで気休めとしか受け取らないことは分かりきっているので、「動けんごとなったらなったでしょうがないやん。運命やけん。みんないつかはそうなるっちゃけん」。 父も「70やけんな。糖尿になってから30年、よう持てたと思わないかんとやろうな」と腕を組む。 そのあとはまた姉の悪口になるのだが(苦笑)、「話はせんといかんと思いようとばってんがな。姉ちゃんは『げってん』やけんな」と思い切り博多弁が出る。ふとしげに「意味分かるか?」と聞くが、広島生まれのしげにはやはり全然分からない。と言ってもこれも他県人にはなかなか説明することが難しい言葉なのだが、ヘンクツとか意地っ張りとかヒネクレモノという意味で、言い方としてはかなりキツイのである。しかしキツイけれども博多の人間はちょっとしたことでも相手をこう非難することがよくあるので、腹蔵がないとも言える。自分が言われると怒るが、他人には平気でこういうことを言うという困った性格の人間は博多には多いが、父はその典型と言ってもいい。 退院後は姉と一席設けるつもりらしいが、波乱は避けられないような感じである。
読む本がなくなったというので、いったん病院の外に出でジュンク堂へ。 『銭形平次捕物控』数冊ほか、自分用の本も買い込む。しおり型の籤をくれたので、中を覗いてみると、それぞれがトランプのカードの体裁になっていて、ワンペアごとに「景品」が貰えるということであった。何がもらえるかと思っていたら、これが何と『ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団』上・下巻セット。だぶついてることがよく分かった(笑)。
帰宅して、『熟年離婚』第3話。確かに渡哲也は傲慢だが、家族のことを真剣に考えている。単に愛情のベクトルがズレているだけだ。ついに松坂慶子は家を出てしまうのだが、それも「勢い」という印象が強い。世間知らずなくせにワガママだけは通そうとする妻の方が夫よりもバカの度合いで言えばはるかに高く思えるんだけど、このドラマもやっぱり「バカには勝てない」って話になっちゃうわけかねえ。
2002年10月27日(日) そりゃテレビは全部宣伝でしょ/DVD『ほしのこえ』/DVD『100%の女の子』/DVD『刑事コロンボ 仮面の男』ほか 2001年10月27日(土) どこまで行くのかな、クラリス……天神まで行きました(-_-;)/DVD『STACY』ほか 2000年10月27日(金) 頼むから一日12時間も寝るのは止めて/映画『少年』ほか
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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