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2005年06月07日(火) 夢喰い 【イレギュラー】 第十七話

【第十七話】


 指し示されるままに、一馬は振り返った。
 息を飲む。
 一歩後ろは、断崖絶壁だった。
 まるで大地震でもあったかのように、ビルの壁がくずれてしまっている。下の階までも大分距離があり、とても飛び降りることは出来そうに無かった。
「降りられないんだよ。どうやってここにのぼったかも覚えてない」
 少年が歩み寄ってきて、一馬の横から絶壁を覗き込んだ。
「帰り道がない、ってさ」
 しゃがみこむように地上を見下ろして、ぽつりと勝利が呟いた。
「すげ、怖いことなんだな」
 膝をかかえこんで、崩れた退路を見下ろしている。
「俺、ここに来て、どのぐらい経ってんのかな」
 自由奔放な黒髪が、絶壁から吹き上がってくる風に揺れる。
「一週間ぐらいかな」
 律儀に、一馬は答えた。
「うわ、マジで? 皆勤賞目指してたのに」
 最悪だ、とはいうものの、そこまでショックを受けた口ぶりには聞こえなかった。
「それで、お兄さんは? 迷子?」
 首だけを持ち上げて、勝利は一馬を見上げる。
「君に会いに来たんだ」
 正直に答えた。「要に頼まれてね」
 勝利は目を瞠る。
「英? お兄さん、英の知り合いなの?」
「今、一緒に暮らしてる」
「家族とかじゃなくて?」
「あいつは今、家族と離れて暮らしてる」
「”神の子”だから?」
 口走って、勝利は慌てて顔をそむけた。
 思わず飛び出した単語に、彼自身、驚いたようだった。
「そうだよ」
 簡単に、一馬は肯定した。
 勝利の体に緊張が走る。
「君たちが見た週刊誌の内容は、大体が本当のことだよ。信じられないだろうけどね」
 無情に、突き放しているつもりだった。
「もし君が、そのことで少しでも嫌悪感を抱くんだったら、無理はしないでくれ」
 無理をして、触れ合おうとはしないでくれ。
 無理はゆがみを生む。今、この現状のように。
 膿み、いずれ腐るだろう。
「君のために頼んでいるわけじゃない。要のためなんだ」
 一度得た温度が離れる孤独は、辛い。
 それが、生まれ持ってしまった力のせいだとしたら、やりきれないだろう。
「興味本位とか、正義感じゃないって」
 崩壊した床をぼんやりと眺めて、勝利が口を開く。
「好奇心なんかじゃないって、思ってた」
 屈伸した膝をのばすように、勝利は立ち上がる。
 ひらりと体を翻して、屋上のはしの方へ歩いてゆく。
「英のことも、高幡の―――ことも。面白がるつもりなんて、全然なかったんだよ。でも……」
 淵から、勝利は地上を見下ろした。
 はるか下方に、赤黒い水面が広がっている。コンクリートを、うすく覆っていた。
「知らなかったんだもんな、俺。帰れなくなるってことがどういうことか。こんなふうに、身動き取れなくなるのがどんなことなのか、分かってないのに、分かった顔してたんだ」
 知らないということは、最も残酷な罪だ。
 すがすがしい顔をして笑っていられる。
 力づよく励ますことが出来る。
 崩れそうな肩を平気で叩き、傷口に指を突っ込む。
 知らないから、痛みにも鈍感だ。
 知識で知るのと体で知るのとは、意味が全く違う。
 指を切ってみるまで包丁の本当の恐ろしさが分からないのと同じ。
 清らな顔には、自分でも気づかないような優越が滲んでいたんじゃないだろうか。
「俺、かな」
 身を乗り出して、眼下の赤い海を見下ろす。
 底知れぬ、深さに見えた。
 とろみを持っているような、濃い赤だ。
「俺が、高幡の帰り道、ぶち壊したのかな」
 引きつるように、口元が持ち上がった。
 笑ってしまった。

 引き返すための階段を。
 現世につなぎとめる手を、無邪気な顔をして払ったんだろうか。
 きれいごとで。
「怖いよ」
 赤い海が滲んだ。声が揺れる。
 咽喉が鳴った。
「帰りたくっても下りられないんだ。頭が変になりそうだよ。高幡も、こんな気持ちだったのかな。俺、全然知らなかった」
 段差に足をかけ、勝利は屋上のへりにのぼった。
 肩越しに、一馬を振り返る。
 涙をたたえた瞳のあやうさに、一馬は息を飲んだ。
 しかし、駆け寄ることも出来なかった。
「だって、普通にこっから下りられないんだったらさ」
 ふっと、勝利は微かに笑った。
「だったら、こうするしかないじゃんか」
 甲高い悲鳴のように、風が鳴った。
 それにあおられるように、少年の体が大きく向こう側へ傾ぐ。
「神田くん!」
 絶叫が風に巻き上げられる。
 あまりにあっけなく、少年の体は、空の向こうへと消えた。


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【続く】


如月冴子 |MAIL

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