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2005年06月08日(水) |
夢喰い 【イレギュラー】 第十八話 |
【第十八話】
ぞっと、全身総毛立つような焦燥におそわれて、駆け出していた。 屋上の端までたどりついて、段差の向こう側を見下ろす。 地面は、まるで薄い膜に覆われてでもいるかのように、赤い水に浸されていた。 柵も金網もない屋上というのは、想像以上に恐怖を掻き立てる。 体を傾けたら落下する。体がそれを知っている。 逞しい人間の想像力が、落ちたあとを考える。 落下の衝撃だとか、人体がつぶれる様だとか。 だから身震いが来る。 「神田くん!」 もう一度、叫んだ。 「あー……まただ」 背後から、声が聞こえた。 振り返れば、悲壮な面持ちの中学生が立っている。 「何度やってもこう。戻ってきちゃうんだよね」 背筋を、つめたいものが落ちていった。 ざわついた胸の内側は、まだおさまらない。動悸だけが早い。 少年は、打ちのめされたようにうな垂れた。 「驚かさないでくれよ」 心底安堵して悪態をつけば、少年がかすかに笑って、「ごめん」と呟いた。 「俺、ここから出られないのかな? やっぱ、卑怯者だから」 「卑怯?」 「英のこと」 重そうに首を持ち上げて、勝利は一馬を見た。 「全然そんなつもりなかったんだ。慶太に言われるまで気がつかなかった。俺、あいつのこと身代わりにしてた。英のことを助けたら、高幡のことがチャラになるような気がしてたんだ。どっかで」 自分のしてたことは、間違っていなかった。 高幡を追い詰めたのは自分ではない。 確かな証拠がほしかったのだ。 同じ行いをして成功をしたら、プラマイゼロに。無にもどるような気がしていた。 無意識のうちに。 「ほっとけなかったのは本当だよ。クラスの雰囲気もいやだったし、今までふつうに転校生に接してたのに、雑誌が出てきた途端よそよそしくなるのも馬鹿馬鹿しいと思ったし、でも……どっかにずっと、高幡のことが引っかかってた」 今度こそ、って。 思ったこともあった。 「ひとりひとり、感じ方が違うってこと、知らなかったからさ。俺は昔、乗り越えたことがあったから、どうとでもなるって思ってたんだ。高幡のときに、それで追い詰められる人間がいるってことも、分かったはずなのに、また同じことしようとしてた」 自己満足の道具にしようとしていた。 傷口を塞ぐバンソウコウにしようと。 「英も、しんどかったかな」 勝利は乱暴に髪を掻き乱した。 「要はね、神田くん」 小さい子どもに言い聞かせるようにゆっくりと、呼んだ。 「要は、うれしかったって言ってたよ」 うすい、涙の膜に覆われた瞳を、勝利は一馬に向けた。 いぶかしむ表情だった。 耳触りのよい慰めやごまかしに聞こえただろうか。 「その、高幡くんの話を耳に挟んで、驚いたんだって。どうしていいか分からなくなって、結局君を避けてしまったって、悔やんでたよ」 複雑そうに、勝利が顔をゆがめた。 「いいことを教えてあげようか」 いまいち素直に受け止められない少年に、秘密を打ち明けるように話し掛けた。 「君を助けてほしいって、要が俺に頼んだんだよ」 勝利は不思議そうな顔をした。 「俺にはこんなふうに、人の意識に邪魔をする力があって、普段はそれを使わないようにしてるんだ。だけど、あいつがどうしてもって」 「英が?」 「あの子が俺に頼み事をしてきたのは、これが初めてだよ」 それがどれだけ、重要なことなのか、君にはわかるかな。 「百人いれば百人、受け止め方が違うってことを君が知ってるんだったら、理解できるだろ。高幡くんには重みになったかもしれないけど、要には違ったんだ」 のしかからずに、ちゃんと、支えになっていたんだから。 「だから君は何も、おそれる必要はないよ」 戸惑ったように、勝利が一馬から視線をはずした。 たった今与えられた事実を、どうやって受け止めようか、困っている様子だった。 「友達に」 そこで言葉を切ったら、促されるように勝利が顔を上げた。 目元がわずかに赤らんでいた。 不安そうに、見つめる瞳だ。 「君と友達になりたいんだって」 そのときだ。 表面張力がとうとう崩れて、目のふちから雫が零れて落ちた。 うん、と掠れた声でうなずいた。 次々、顎に向かって流れる水を、手の甲で拭った。 「俺も……」
そう、なれたら。 いい。
「戻りたい」 濡れた声が、喘ぐように言った。 「俺、戻りたいよ。どうしたらいい?」 ぐっと腕で涙をぬぐって、毅然と勝利は顔をあげた。 強い意志の瞳が、そこにあった。 これがきっと、本来の顔なんだろうな。憂えているよりも、よっぽど似合っている。 ああもう。 もう大丈夫か。 勝利の肩越し、後方を眺めて、一馬は吐息をひとつ、零した。 「ここは君の夢の中だからね。君が心底望んだことは、叶えられるよ」 一馬が自分の肩の向こう側を眺めているのに、つられるようにして勝利も振り返った。 鉛色の空に切れ間が出来て、一条、光が落ちてきていた。 きらきらと、その光に照らし出されて、硝子のようなものが輝いていた。 一定の段差で上方へ向かっている。硝子の板。 支えも骨組もないのに、まるで階段の如くに。 その十数段の階段の先に、扉が浮いていた。 「すげ……」 御伽噺のような、きらきらした情景がそこに広がっていた。 魔法のようにうつくしい。 光が目にしみて、せっかく止まった涙がまた、こぼれそうだった。 こんな非現実的な、こんな漫画じみた光景に、満たされる。 出口だと、誰が示してくれたわけでもないけれど、確信があった。 光の先が、帰る場所だ。
よろめくように、硝子の階段に歩み寄った。 一段目に足をかける。壊れたりはしない。大丈夫だ。 足早に数段のぼってから、勝利は振り返った。 夢への侵入者は、相変わらずそこに佇んでいた。 「ありがとう!」 声を張り上げて、叫んだ。 一馬は軽く、右手を挙げて応えた。 階段の先にあるドアに、勝利が手をかけた。 途端、鉛色の空が崩れ、雨のように降ってきた。 雲が割けて、目もくらむ光が、其処此処に降る。 硬く冷たいコンクリートが、光の触れた場所から溶け出した。 光に、すべて飲まれてゆく。 美しい世界だった。
ギブアンドテイクなんだよ。 涙が出そうなほど美しい世界。建物はすべて失われ、後はただ、目を灼くほどの眩しさに包まれてゆく。 満たされるのを感じる。 目が覚めたら君は、こんなあたたかい光も覚えていないだろう。 礼を言われるのは筋違いだな。 魔物にこんな、綺麗なものをあたえたら、駄目だよ。 自分の体すら、光の中に溶け込む錯覚に、一馬は自嘲した。
夢が、溶ける。 指先の感覚までうしなわれる。 あとは真っ白な、光の中へ。
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【続く】
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