mortals note
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尾崎「先程おっしゃってたように、ちょうど視聴者と作り手のシーソーが平衡になったという時だったんでしょうね」
唐沢「ある意味、エポックメイキングではないけれども、エポックではありましたよね、その転換期が。ガンダムがブームになってからが本当の意味でのメカとキャラを主軸にしたブーム、そしてオタクブームが始まるわけなんですけれども、そこに行くまでのプレの時代の総まとめというのかな、いわゆるオタクムーブメント、発言する・作品に関与してくるファンというのがどんどん出てきた時代の総まとめみたいなものがヤッターマンだったんじゃないのかな。作品ひとつひとつの、この話はどうと言ってもあまり意味がないんですね。ヤッターマンという作品の存在そのものをグロスで語るというか。そういうことでしか語れない作品なんじゃないかなとは思います」
尾崎「今度は作品の中のことに入っていきたいんですけど、つくりは時代劇ですよね?」
唐沢「そうですね。ただ、水戸黄門とか暴れん坊将軍であるとか、そういう作品は悪人は最後に必ず斬り殺されちゃうんで、名キャラクターは登場しても名悪役は登場しないんですよ。名悪役って難しいんですよね。悪役は最後にやられちゃうんで。怪人二十面相のように逃げるとか、そういうのはあるんですけれども。ヤッターマンではギャグ漫画という設定であるがゆえに生まれた悪役トリオ。僕がヤマトの活動に関わる前に作っていた同人誌というのが、「悪役ファンクラブ」という同人誌で、デスラーとかの悪役達を特集してオリジナルストーリーを作ってみたりだとか、という同人誌を企画して出したことがあって。やっぱり子ども達というのはひたすら正義の味方を応援するものですけど、ある程度成長してから見ると、どうしても悪のほうが魅力的になる。自分達のやりたいことをやってくれているのは実は悪の方だと。最後に正義の味方のほうにちょっとだけ針をふらすと、よかった自分は悪人じゃないんだとほっとできるというかね。それまでは絶対に悪役の方を応援している部分が内心ではあったわけなんで。直前に美形悪役ブームというのが起こってますよね。ライディーンのプリンスシャギーンとかコンバトラーVのガルーダとか、一連のサンライズ作品の。女の子達は男の子たちよりももっと素直に「悪でも美しいからいいのだわ」というところがあって。ガルーダやシャギーンが美しいから、という理由で、逆に女の子も自分が悪に魅力を感じるという心を、ごまかすことができるんじゃないかと。「美形だからいいわ」というような。でも、美形だからではなく、本当はストレスがたまったときにメカで街を壊したりしたらすっきりするんじゃないの、みたいなね。あるいは悪巧みをするときのワクワク感であるとか。だから、あの3悪人を見て思わず応援してしまうというのは、ギャグだからというエクスキューズはあるんだけれども、そういう部分が根底にはあるんじゃないかというのはありますね。あと、声優さんでいうと、昔の声優さんというのは個性派のひとたちがものすごく多かったですよ。どんな役をやらせても、その場を盛り上げるような芝居ができるという。いわゆる声優ブームというのは、神谷明さんであるとか富山敬さんであるとか石丸さんであるとかヒーローもののひとたちでやってきたけれども、ヒーローものよりも、やっぱり人間性を出せる役をやるひとたちのほうが魅力的であるというね。それを見ていて楽しいという、ひとつのファクターでしたよね。ベテラン声優がのりにのって乗ってやっているときの楽しさ。「ポチッとな」なんて、絶対あれはアドリブだと思うんですけどね。あれはもう日本語になっちゃいましたよね。何かを押すときには「ポチッとな」というね。アニメーションっていうのは、基本的に脚本化が書いたものを演出家の指示に従って、コマのなかで何秒という制約の中でやらなくちゃいけないというのがあるので、あまりそこに書かれた以外の芝居の魅力っていうのは出しにくい場だと思うんですけれども、そこでアレだけのものを出しちゃうっていう力ですかね」
尾崎「完全に声優さんたちが超越しちゃってますよね」
唐沢「超越しちゃってますね。逆に絵のほうが声優さんたちが喋りやすいようにしてありますよね。アドリブしやすいように。ファンよりも作り手のほうが楽しんでいる。作り手の中でも音響さんや声優さんにどんどん遊んでもらおうとしている、その遊び心というのかな。ジャズのアドリブのようなものがあるという。だから、完成度ではないんだ、その場の即興でありノリなんだというかんじで、非常にジャズのセッションに近いようなね」
尾崎「また一方で、アイちゃんとドロンジョさまという、清純な萌えとある意味女としての萌えというものが」
唐沢「ああいうキャラクターが受けたっていうのはよかったなぁ、それから先のアニメーションっていうのは、ロリ一辺倒に萌え一辺倒になっていって、大人のキャラクターっていうのが出てこなくなっちゃった、というか出しにくくなっちゃった。峰不二子とドロンジョぐらいじゃないのかなぁ。未だに若い人たちだってこの二人を語る、そういうのが好きな人たちがいますから。しかもその後継者がいないという。不幸かもしれないけど、永遠にそういう色っぽさの代名詞で色っぽい姉御といえば、という代名詞になるというね。実はヤッターマンがどれだけのものを生み出しえたのか、どれだけ後進の作品にいい影響を与えたり進歩させたのかというと、あまりないと思うんですよ。ギャグだし、ストーリーや絵についてもそんなに力を入れているものでもないし、特に70年代後半から、制作の予算であるとか放送コードの締め付けであるとかで、あまり斬新なものはできなくなっているから。それだからこそ、苦労せずに作れるヤッターマンが続いたっていうのがあるんだろうけれども。ただ楽しめばいいっていうものが、今のように話題作であるとか問題作であるとかでないと話題にならない今のアニメーション業界自体が、業界にとって不幸なんじゃないかと思うんですよね。深夜アニメという枠だから、残虐描写をしようとしたりだとか、性的な描写によって放送禁止になったりだとかという騒ぎはあるんで、そういうものがアニメーションの行き着く先だとか今生み出したものだと思うとちょっとさびしいんですよ。もっと皆でわいわい楽しくできる場というか、僕や岡田斗司夫なんかがオタクの原点といっていたのは、わいわい言っているのが楽しいんだと。わいわい言うことも含めてアニメなんだ。作品だけで考えてはいけない。それをあーだこーだ薀蓄をいうのが楽しいんだ、という理念からいうと、もう最適なものでしたよね」
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