遠雷

bluelotus【MAIL

殺人罪
2004年11月14日(日)

事情を知る人たちに、どんなに私が良くやった、私は悪くないと言われていても、この人は心の中では私が殺したと思っているのではないかと考えてしまいます。責められるのは辛いです。しかし慰めはどんな罵倒より身に堪える事があり、結果としてよけいに苦しくなっていくのです。勝手な妄想かもしれませんが、そう思うしかいられないことがあります。

今日も墓参りに行きました。いつもは一人か、共通の友人である人たちと一緒なのですが、今日はHの昔からの友人も誘い小さな団体でのお参りとなりました。

くだらない話をずっとして笑い続けながらの道中だったのですが、笑いながらどうしても、私とは直接友人関係ではない、Hと昔からのつきあいであるこの人たちは、私のことをどう考えているのだろうという、ずっと懸念のあるそのことがむくむくと首をもたげていました。

長く同棲していた以前の彼女や、その以前の彼女など、彼らにとっては彼女たちのほうが私より遥かになじみがあり、気心も知れているでしょう。一方私は彼らとはあまり交流もなく、私たちがどんな風に日々を過ごし、つき合っていたのかを直接的には知らない筈です。Hが、どんな風に私のことを話していたかは知りません。でも、もし私だったら「殺した」とまでは思わないまでも、Hの人生の終幕に立ち会っていた「彼女」が幕を下ろす一方のロープを手にしていたと思うでしょう。そして、過去の女性たちとつき合っていたままならこんなことにはならなかったと思うのではないでしょうか。

私のせいではないと言われます。でも、つき合っていたのが私じゃなかったらこのような事にはなっていなかったかもしれません。Hの面倒をみているつもりで少なからず悪化させてしまっていたのではないかと思えることが多すぎるのです。私だから、Hもここまでがんばれたんだよと言ってくれる人もいます。そうかもしれませんけれど、悪化させているはずなのです。「君のためにがんばる」普通の人なら、それは前向きに行動するための旗印になることかもしれませんが、鬱の人にとっては、自らプレッシャーを背負い込んでいるとしか思えない言葉ではないかと思うのです。そうなるともう、私の存在自体がHを追い込んだ要因でしかないと思うしかないではないですか。もし、私が私でなく、頭痛持ちでもなく、違う仕事をしている人であるかHとともに暮らしている人ならば、あの日あの瞬間にHがネクタイを手に取ることはなかったかもしれないではないですか。

もちろん、病のはじまりの原因も、悪化させた原因も家族のことと仕事のことであろうと思います。私は、食い止められなかっただけかもしれません。でも、流れを止められなかったということは結果的には何も手を加えなかったと同じ、悪化させたのと同じではないでしょうか。他のことならいざ知らず、人の命というあまりに大きなものの終わりということだけで言うならば。どのように人生を生きたのかが重要だというきれいごとを聞きますが、いくら心の病気も体の病気と同じなんだと言っていても、どうしても自らの手で命を絶ったと言う事実が歴然とあるからには終わりの部分のみを見るしかできません。

このような気持ちでこの先ずっと生きて行かなくてはいけないことが少しでも罪の償いになるならば、私は、人の優しい言葉にも怯え、苦しんでいかなくてはならないでしょう。罪は、Hに対するものだけでなく、Hの周りの人たちからHを奪ってしまったということも含まれる筈です。大きい罪です。



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