私が生きていると言う実感、Hがかつて存在していたという実感、この世に何億という人々が生きていると言う実感。時々わからなくなります。もしかして私は存在なんてしていなくて、これはただの夢でしかなく、Hなどという人も存在していなかったのではないか、と。 「彼の存在を消してしまえるなら」 この3年間ともに過ごした人などいなかった。こんなに苦しい思いをさせられる人などいなかったら、今もこうしてこんなことを書いていながらも知らずに涙が流れるような私ではなかった。楽しい思い出なんて、楽しければ楽しいほど、それをよみがえらせれば辛い思い出でしかない。 「私が存在していないなら」 存在していない私という存在が見るただの夢ならば、これは現実ではない。Hという人間が存在していようといなかろうと、現実世界に私がいないならば夢でしかないのだから、何があっても、違う人生を生きていても、苦しんでいても幸せでも、私はそこにいないのだから涙を流す必要などない。存在していたとしても、これが夢ならば、目覚めたときには違う現実が待っているはずである。 こんな堂々巡りをしていても、結局はどうにもならないことはわかっています。たとえいまこれが夢の中だとしても、今この瞬間の私にとっては現実以外の何ものでもなく、Hは死に、私は生きていて、そして涙を流しているのです。 消化しなくてはならないのです。忘れてはいけない。でも、上のような考えに陥ってしまうときは忘れようと、なかった事にしようと意識が働いているのでしょう。時が解決するというのは、今でもほんとうに嫌な言葉です。けれど、慣れるためには時間が必要というのはわかっています。それなのに、このようなことを考えている次の瞬間には、今度はHの死というものの実感がなくなるのです。なぜ電話が無いのだろう。今日もちゃんと食事をしたのだろうか。次の休みにはあの映画を見に行きたいと言わなくては、と、いたって普通に考えてしまうのです。そしてまた、何に対してかもうわからなくなっている涙が溢れてくるのです。 *** 文章に矛盾がありますが、あえてそのままにしました。ひとしきり落ち着いて読み返して、いわゆる深夜のラブレターのようなものだと思いましたけれど、感情に矛盾があるのはおかしい事でもないと思っていますので、推敲はしません。さらに後日読み返したときに恥ずかしい思いをしたり、今の混乱した気持ちを思い出すために。
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