どうやら、わたしはストレスがたまると本を買いまくるらしいということに最近気がつきました。もともと本が好きで、テレビを見るより本を読むことが好きでした。高3のころ友達関係があまりうまくいかない時期、受験勉強もせずに図書室に籠ったものでした。学生時代は先立つものがないですから各種図書館で止まっていましたが、今考えると去年の今頃も、宗教書だろうと現代詩だろうとも、流行のエッセイでも漫画でもなんだか大量に買い込んでは読みあさっていました。そして今も。 本代というものは馬鹿にならないので、古書や新書をじっくり選んで買う。それを心がけてきました。でもタガが外れたように読み切れないくらいの本を買い、そして読むのです。図書館も大好きなのですが、なぜかその静かな空間で読むということへの興味が薄れているのはなぜでしょう。 Hも読むことが好きで、棺にも一番好きだと言っていた本と最後に読みかけで伏せてあった本を入れました。待ち合わせの時や、連絡もなしに家を訪ねていった時のHの姿を思い出すと、いつも本を手にしていました(その姿と、文庫本のねじりこまれたポケットつきの後ろ姿はひとそろいのように思い出されます)。私はやや偏った読書傾向があるので、Hの読んでいた本の幅広さには感心していたものです。少しずつ、影響されて読み始めたものがありました。あの時も私がなぜか毛嫌いしていたHの好きな作家を読み始めていた時でした。その長編の続きを読むことは、面白い分だけ辛くて、あのように苦しく小説を読んだことは初めてだったと思います。 もっと、色々と聞いておけばよかった。本当にそう思います。色々な感想や批判などを話し合って、どのようなものをお互い読んできたのかということを、もっとたくさん。少しずつですが自分の読みたい物以外にもHの読んできたと思われるものを読み始めているので、一冊でも多く読むためにはもっと聞いていればよかったと。部屋からも遺品として本が大量に出てきましたが、あまり物質としての本に固執しなかったHはどんどん処分をしてしまっていたらしく、好きだと言っていた本すら見つからない状態でしたから。 一気に全部読んでしまうのはもったいないので、できる限り噛み締めて読めるペースだとするとこれから何年もかかるでしょう。できることなら、Hの生きてきた年数分だけの時間をかけて読めるのならば理想なのです。そして、最後には、今はまだ読めない(幸いにというか恥ずかしながらというか、私が未読だった)Hが最期に読みかけだった魯迅の「阿Q正伝」を読めるようになれればと思います。 できる限りこの日記には固有名称を出さないように気をつけていましたが、その本のタイトルだけは書いてみます。ご存知でしょうか、この本には「狂人日記」というタイトルの作品も入っています。伏せて開いてあった部分は、その「狂人日記」の部分でした。そう、あまりにできすぎていて、何を考えながら読んでいたのかを思うと何とも言えない気分です。以前、Hが読んでみようかと思っていると言っていたことも覚えています。話のメインテーマは違うようなのですが、それでも、読むことによって多少なりとも追いつめられた気持ちになったのではないだろうかなどと、考えてしまうことも、あります。
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