遠雷

bluelotus【MAIL

かたち
2005年06月17日(金)

私に幸せになってほしいと、Hの友達Sが自身のブログに書いていました。そのことについても例の、そのときもそのあとも立ち会ってくれた友人Gと昨日のチャットのなかで話しました。とりあえず、どんな形でも、彼らも、私も、一生かかってHの分まで幸せというものを探していくのしかないのではないかと彼は言いました。

私も今は現世的な幸せを望む気にもなれませんし、単に出会いも何もあったものじゃない生活ですからその心配も無いのですが、では私の幸せとはなんなのでしょうか。私が幸せだと思えれば幸せだといえるのだと思います。それが仕事に生きることでも、ああいう夫婦になりたいねと二人で憧れていたG夫婦が私たちの分も幸せな人生を送っているということでも、思い出にすがって生きていくことだとしても、私がそれを幸せだと思えるのならば。

今は、幸せな日々があったことが悲しくてしかたないとしか思えません。でもいつか、幸せな日々があったことが幸せだと感謝できるようになることが、思い出にすがって生きていく人生の正しいすがたなのではないかと考えます。ただただ、過去に逃避して、悲しむだけで、罪の意識や後悔にさいなまれるだけが思い出にすがるということではないのではないかと。他人がそんなものが幸せだなどと認めなくても、私がHにもHに出会えたことにも感謝して生きていけるというなら、幸せなのではないのでしょうか。そこにたどり着くかどうかはわかりませんが、今現在感じている、罪の意識を持ち続けて持ち続けて持ち続けて、すべてが晴れる必要は無いけれどいつか振り返って少しでも晴れていたら、それもきっと幸せになれたのだと言っていいのではないでしょうか。(それでも、償い続けなければいけないけれど、と、今の私は付け足さねばいられません)

とにかくもHと私が出会って、愛し愛され(と、信じています)一緒に過ごした日々があった事実は変えようもないのですから。Hが死んでしまったということは、かつて生きていたということなのですから。



BACK   NEXT
目次ページ