誰かと別れて立ち去るときに振り返ることは、誰かがそこで見送っていないとできないことです。そして今のわたしには、誰かがそこにいたとしても振り返るということはとても恐ろしく、悲しい行為になりました。 Hの部屋に遊びにいったあとは、帰り道必ず駅まで送ってくれました。時には向かいの友達と一緒に、10分ほどの道のりを歩き、わたしは電車に乗りました。改札を過ぎ、振り返るともちろん向こうにはHがいて、もう一度振り返るとやっぱりこちらを見て笑っていました。友達と一緒の時は照れくさくてそんなになんども振り返ったりできなかったけれど、わたしが振り返った時の嬉しそうな、でも照れたような、寂しそうで少し真剣な顔がくすぐったくて、でもなんだか嬉しかったものです。 わたしが振り返るとすごくうれしいんだと聞いてからは、照れくさかったけれどできるだけ振り返るようにしていました。一緒に住めなくてごめんね、いそいそ帰るみたいでごめんねと思いながら。でも恥ずかしいから振り返ったあとは小走りで階段に向かったりするくせに、ひとりホームで電車を待ちながらこれからみんなは一緒に楽しくアパートに帰るのかなとか、風俗の呼び込みのお姉ちゃんにつかまったりしませんように、など考えて寂しくなって、くだらないメールをだしてみたり。わたしは極度に照れ屋で、好きだとか愛してるだとか素直な感情を滅多に口にすることはなく、上のようなこと(一人帰るのはさみしいなど)もHに言ったことはなかったと思います。 もう、あの町に行くことも、あの駅に降りることも無いでしょう。Hがいなくなったあと初めてその改札で友達に見送られたとき、絶対振り向かないからねと言ってから別れました。友達はいるのに、Hだけがいないこと。そんな改札の向こうの景色を想像するだけで、そして見てもいないのに泣いてしまうだろうことがわかっていましたから。そして今も、見送ることはできても、全くHと関係のない友達に見送られる時は、振り返ることができないのです。 もう、振り返ってもHがいないことがただ怖い、最初はそう思っていました。もちろん今もそうなのですが、ここまで書いてきてこんな考えがうかびました。 改札の外は過去。わたしは生きているから切符を持っていて、改札を通ることができる。電車に乗って、これからの人生を走ってゆく。これから先いくつもいくつも改札があるのでしょう。切符を持っている限りはその改札を通過し続けなくてはいけない。無くしてしまったら、それでおしまい。切符を持っていないHは改札の外に佇み続けなくては行けない。 電車に乗るたびにいつも切符をどこにいれたのかわからなくなって、清算することもしばしあったHは、まさに切符を無くしてしまったのでしょう。一緒に乗る時は切符はできるだけ私が預かって一緒に持っているようにしていたのに、あの夜は、一番大事なその切符を差し出していたのに気がつかなかったわたしと、その反応に自棄になって自分でしまわずに切符を放り投げてしまったHとが、とうとう改札のこちらとむこうに別れてしまった、そういうことなのではないのか、と。チープな例え話とお思いでしょうが、わたしは、いつも切符を無くして困っていたHを知っているのです。そして、見送られていたのもわたしなのですから。 振り返ってもHが絶対いることがないと言う辛さ。別の人が見送ってくれるときにも振り返れないのは、もちろんそこにいるのがHでないから。そして、きっと、もしかしたら見えないHがいるのかもしれないのを知っているのに、わたしは絶対見ることができないことも知っているから、振り返れない。そんなことももあるのかもしれません。
|