夜、駅のあかりの周りには群れ飛ぶ羽虫の群れ。今日もたくさん飛んでいました。でも、あまり夜中にモンシロチョウを見かけることはありません。ましてや駅で見た覚えは、思いつく限り、わたしにはありません。今日はいつもより改札から遠い場所に降りてしまい、長いホームを歩きながら飛び回る虫を見て思い出したことを書きます。 その白いひらひらしたものがあまりに突然に現れたので、一瞬それが蝶だとわからなかったことを覚えています。Hのお通夜の帰り、ひとり電車を降りたわたしの数メートル先に、一匹のモンシロチョウが飛んでいました。このあたりでは6月にはあまり見ることのない蝶、それも夜、煌煌と照る蛍光灯の下でもそれはとても白くて、不自然なほどにぽっかり浮かんでいました。ひらひらと言うよりふらふらと、漂うように。その蝶に吸い寄せられるように歩いていたわたしは、劣らずふらふらとした足取りだったことでしょう。 蝶が死者の使いであるとか、魂であるとか言われていることなど頭からすっかり抜け落ちていました。そのときはただ、「そうなの? やっぱりHなの? 会いにきたの? 迎えにきたの? 別れにきたの? 違うの? どこにいくの? なんでここにいるの?」みたいなことをひたすら考えていたように思います。蝶は、そのままどこかに行くわけではなく、改札口の、駅員が立つ窓のそばまで行くと、そのあたりをしばらく漂っていました。それはほんの数分間のことだと思いますが、一緒に電車を降りた人たちもいつのまにかいなくなり、ひたすらじっとその蝶を見つめて呆然としているわたしひとりしかそこにいないことにふと気づきました。駅員も私がいるのでなんとなく窓の向こうに立ったままなのでそこに立ち続けるわけにもいかず、ましてやその蝶を捕まえて帰るわけにもいかず。なにごとか言い訳を自分にいい聞かせながら、立ち去りました。 最初、このことを人に言うのはあまりにお話めいていて恥ずかしいような気もしましたが、気がつくとわたしは「ゆうべ、蝶を見た。駅に迎えにきていたの」と人々に繰り返していました。 翌日のお葬式に行く前、帰り。改札を通るたびに「昨晩10時頃に改札に立っていた駅員に『蝶が飛んでいたのを覚えていますか。どれくらい、飛んでいてどこに行ったか知っていますか』と聞いてみたい」と思い、でももし誰も知らなかったらどうしようと怖くて、またもや改札で蝶がいたあたりを見つめて立ちすくんでいました。もちろん翌日にはその蝶は跡形もなく、そしてあれからわたしは蝶を一度も見ていません。今年の春も、もちろん6月も、今日も。 偶然なら偶然でも構いません。あの日、あの時間に、あの場所に偶然に蝶が飛んでいたということ、それだけでしかないことはよくわかります。でも、それだけでいいのだと、そう思います。もう二度と蝶など見ない方がいいということではありません。これから出会う蝶は私とは他人なのですから、会おうと会わなかろうと関係がないだけです。わたしには、あのときにあの蝶がいたというそれだけのことが重要なだけ。 ただひとつの思うことは、周りのことなど気にせず、自分から立ち去るのではなくて蝶がいなくなるまで見つめ続けていたら、その後のわたしは、今のわたしはどうなっていただろうということです。
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